【自転車利用環境向上会議in名古屋】いわき時空散走は陸奥と寺澤が分科会に登壇して、いろいろとお話させていただいた(ほとんど寺澤事務局長)んですが、サイト上で補足資料も公開しております。
https://www.jcc-nagoya.jp/
画像は、その一部を抜粋してご紹介。
いわきは驚くほど「クルマ依存率が高い都市」です。中核市レベルではなんと「日本一のクルマ依存の都市」だったりします。逆にいうと日本で最も「自転車利用が低いまち」「自転車に乗っている人が少ない都市」のうちのひとつです。実際に国土交通省さんのデータでは「いわき市の自転車分担率は3パーセント」という衝撃の数字が今回の名古屋会議で示されてました。正直、のけぞりました…。
そんな「日本最下位レベルの自転車利用者が少ない都市」のいわきで実施されているいわき時空散走なんですが、これが毎回、春と秋のフェスでツアーを告知、募集開始すると、あっというまに予約申し込みが殺到して、全ツアーが満員御礼になるぐらい凄まじい人気です。キャンセル待ちがでたりする。
しかもツアーの参加する人の7割が「いわき市民」。「普段、自転車に乗っていない、自転車利用していない人が、なぜかいわき時空散走には参加する(自転車持ってないからレンタサイクルで参加する!)」という魔訶不思議な現象が起きているわけです。
要するにいわき時空散走のツアー参加者はサイクリストではない。いわき市民。いわきのまちの人たちが、コミュニティの人たちが、時空散走に参加して、自転車ツアーを楽しんでくれている。
そもそも僕はサイクリストではないし、「まち歩きのプロデューサー」をずっと、かれこれ20年ほどやってきた人間です。だから、まち歩き=コミュニティ・ツーリズムの方法論といいますか、それに関しては、それなりに過去のノウハウの実績や蓄積があるわけで、それをサイクル・ツーリズムに導入してみたわけです。そうすると、以上のような素晴らしい成果が出てきた。「自転車によるまちづくり」の新しい形、先駆、パイオニアになると、ぼく個人は思っています。
最近はいわき時空散走の参加者で「自転車に目覚める」という現象が起こってきてまして。「自転車を買いました!」「電動自転車を買いました!」という方も増えてきています。めちゃくちゃ嬉しい現象です。こうして、徐々に、自転車乗りが増えていってほしい。ぼくはいわきを日本有数の自転車のまちにしたいのですよ。いわきが自転車のまちになれたら、日本全国どこでも、自転車のまちになりますから。それは一種の人流の革命です。
現状は、いわきの自転車環境は、ほんまに大変なんですが、しかし逆転の発想といいますか、「自転車分担率が3%」ということは、ある意味「自転車の魅力に気づいていない人が、いわきには97%いる」ということです。この97%を掘り起こしていけばいい。
そのためには超・初心者用の、短くて、難しくなくて、簡単で、容易で、便利で、ラクで、楽しくて、おしゃべりして、食べて、お友達ができて、面白い、お喜楽なサイクル・ツーリズムが必要で、それがいわき時空散走だったということです。
この、いわき時空散走のスタイルは我々だけで占有しようとか、これっぽっちも思っていません。日本全国各地の自転車、まちづくり、観光、行政関係のみなさんに知ってもらいたいし、ぜひともパクってもらいたいと思っていますw
それで、どうしたらやれるのか?という方のために、作られたのが「時空散走憲章」です。コミュニティ・サイクル・ツーリズム、時空散走の仲間に、ぜひともなってください。一緒に盛り上げていきましょう。
【東京七墓巡り復活プロジェクト】ジャーナリストの饗庭篁村がなぜ東京七墓巡りをやろうと思い立ったのか?は謎ですが、彼は劇作家でもあり、近松門左衛門の浄瑠璃作品にも当然、通暁して造詣が深い。
実際に明治29年(1896)に『近松時代浄瑠璃』を校訂しているが、その中には大阪七墓巡りをモチーフにした『賀古教信七墓廻』が収録されている。これは僕の勝手な想像だが、もしかしたら篁村は近松の七墓作品に感化されて、東京七墓巡りを思い立った…という可能性もなきにしもあらずだろう。
ただ近松作品で七墓巡りの風習を知っていたとしても、なぜ、それを実施したのか?の確かな動機まではわからない。しかし、いろいろと当時の時代背景などを調べていくと、じつは篁村が東京七墓巡りを実施した明治22年(1889)の東京は、いろいろとエポック・メイキングで、激動の年であったことがなんとなく推察できる。
まず最も大きな出来事としては同年2月11日に本邦初、東アジア初の近代憲法である「大日本帝国憲法」が発布されている。欧米列強諸国と対等の関係を築くために近代国家としての礎である近代憲法の制定と発布は明治政府の宿願であり、それがついに成されたのが、じつは東京七墓巡り実施の年なわけです。
このときは東京中が祝賀ムードのお祭り騒ぎで、憲法の発布式では明治天皇の眼前で初めて「万歳三唱」(ここから万歳三唱が広く人口に膾炙する)が行われ、臣民(国民ではなかった)も猫も杓子も「ケンポーケンポー」と宣ったらしいが、肝心の憲法の中身については大部分の人はよくわからずで、知らなかったという。中身もわからないものを、意味もわからずに、ありがたがってる帝国臣民どものアホさ加減ったらない!とジャーナリストの宮武外骨なんかは当時の世相を痛烈に批判しております。さすが外骨。
こうして訳もわからずに近代国家への道をひたすらに突き進んでいく時代的潮流の中にあって、しかしそれにちょっと竿を挿すような面白いイベントも催されていて、それが同年8月26日に寛永寺(徳川将軍家の菩提寺である)、上野恩賜公園で開催された「江戸開府300年祭(東都徳川家康入国開府300年祭)」。
文字通り徳川家康が江戸に入った年(1590年)を褒め称えるべし!と前島密ら旧・幕臣を中心とした「江戸会」が企画したもので火消しの梯子乗り、猿若狂言、吉原芸妓や新橋芸妓による手古舞、鍵屋の花火など、アナクロニズム的だが、古き良き江戸文化の一大祭典であったという。
こうした古式ゆかしい「江戸万歳!」の祭典が実施された背景には、近代東京の目覚ましい発展ぶりと、それに反比例するかのように、急速に失われ、忘れさられつつある江戸文化への憧憬、追想、回顧の時代精神も併存していたのだろうと思わされる。とくに近代東京を苦々しく思っていた旧・幕臣たち(要は負け組である)には屈折かつ鬱積した感情が渦巻いていたことだろう。
饗庭篁村という人は安政2年(1855)の生まれで明治維新(1868)のときは13歳。江戸時代の人は5歳ともなると丁稚奉公(大人の仲間入り)していたというぐらい社会的に認められていたが、13歳の篁村は10代の多感な若者でありつつも、また社会人(実際に日本橋の質屋で丁稚奉公していた)であり、ちゃんと「江戸」を知っていたと言っていい。
また質屋の主人が芝居好きで、篁村は聡い丁稚であったので、よく可愛がられて芝居などにも御相伴で付き添ったという。また主人所蔵の本、書物なども自由に読むことを許されたそうで、この恵まれた日本橋丁稚時代に篁村は芝居修行、文学修行をして、のちに文筆で身を立てていくさいの一助となった。
篁村よりも一回りほど下の世代…夏目漱石(1867年生まれ)や幸田露伴(1867年生まれ)、尾崎紅葉(1868年生まれ)となると、やはり「江戸」を知っていたとはいえない。彼らは東京の、近代日本文学の作家である。
しかし篁村は違う。篁村の面白さは、僕が思うに「最後の江戸文人」であることで、「江戸」にこそ自分のアイデンティティや立脚点があるという自尊や矜持を持っていたのではないだろうか。
実際に篁村が選んだ東京七墓巡りの故人が江戸文化の花形で粋人すぎるんですな。新井白石、平賀源内、四世鶴屋南北、葛飾北斎、山東京伝、十返舎一九、安藤広重、五世坂東彦五郎。これでもか!というほど超大物で、篁村が「江戸万歳!」と叫んでるかのような高揚を感じます。
篁村が東京七墓巡りを思い立って上野・寛永寺の観音堂で「根岸党」の文人仲間たちと話し合って東京七墓巡りの偉人を決定し、実際に巡り、その記事を読売新聞附録に発表したのが10月2日です。
2月11日 大日本帝国憲法発布
8月26日 江戸開府300年祭
10月2ニ日 東京七墓巡り
すべて明治22年(1889)のこと。まさに疾風怒濤。明治はオモロイなあ。Sturm und Drang!
※…というわけで東京七墓巡り復活プロジェクト2025は明日ですw 現在10名ほどの参加者がいます。飛び込み参加も大歓迎!ぜひとも〜( ´ ▽ ` )