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阪神淡路大震災から31年目

2026 年 1 月 17 日

日本列島は100~150年周期で地震活動期が訪れるとか。実際に300年前の18世紀初頭の宝永大地震は富士山が大爆発し、元禄・享保バブルを崩壊させました。また150年前の19世紀中期の安政大地震も幕藩体制を弱体化させ、これは明治維新の呼び水となりました。

おそらく21世紀初頭ぐらいから日本列島はまた地震の活動期に入っていて、阪神淡路大震災、中越地震、熊本地震、東日本大震災、胆振地震、能登震災など震度7レベルの大地震が日本列島を襲い続けている。いつまた新しい震災が起こるとも知れない。

人間中心主義的な西欧社会では、人間さまが思うように自然をアンダーコントロールして制御して支配するという思想が強い傾向にありますが、これはやっぱり日本の国土、風土には合わないように思うんですなあ。なんせ日本列島はあまりにも天変地異が多い。地震、津波、洪水、台風、高潮、火山噴火などが多発する。

江戸時代の大坂はしょっちゅう洪水やら高潮で浸水があり、町衆はだから何かあると「とりあえず高台に逃げる」を大前提に生活スタイルを構築していたそうです。家財道具なんかは持ち運びできる量のみ。家もどうせ流されるんだからと当然、持ち家などではなくて賃貸であるし、そもそも建築物(長屋)も流されてもいいように簡易なプレハブのような作りでしかなかった。蓄財はない。流されることを前提に生活や暮らし、コミュニティ、まちを構築する。

例えば堤防(ハード)で地震の大津波を防ぐというのは、結果として津波の体験や経験を奪うことに繋がります。数年に1回ほど起こる津波なら防げる堤防も、100年に1回訪れるような大津波には対応できない。ハードによる防災には限界があるんです。いつかそのハードを超越するような天変地異が起こったさいに、何の経験も体験もない人々は大パニックを起こしかねない。

震災や津波、天変地異は確かに嫌だし、困りますが、それがあることを大前提に、天変地異を織り込みながら、生活や暮らしやコミュニティを、柔軟に、しなやかに構築していく。自然を支配下にコントロールするのではなく、自然の中で、なんとか共生してサバイブする方法論を我々、日本人は発見して日本列島に合う社会を築いてきたのではないのか。

伊勢神宮や住吉さん、春日さん、香取、鹿島、下鴨、上賀茂、諏訪大社などは、定期的にご神殿を建て替える「式年遷宮」を長らくやってきました。日本はなにせ天変地異が多いですから。また建物の多くは木造建築であるから焼失の可能性が高い。ハードを残すということは非常に難しい風土、国土である。だから百年、千年のハードではなくて、式年遷宮というカタチで、わざわざ立て直すことで、それを作る大工集団、技術者たち、テクニック、技を残そうと考えた。ハードは残らない。しかし、ソフトならば残るという発想です。この民族の「やわらかい知恵」は、なかなか僕は、素晴らしいものだと思う。

欲望肯定の人間価値中心主義の近代資本主義文明のベクトルは、もはや限界に差し掛かっております。自然をアンダーコントロールするなんてことは、人間さまの傲慢であると自戒して、自然を畏れ、敬いながら共生する、やわらかい知恵を、もっと現代社会に実装してほしいと思っております。

もう、なんちゅうか、いろんな危機的状況が差し迫っていて、完全に文明は曲がり角に来てますから。既存社会のシステムの限界と崩壊を感じる。世界は混沌と混乱と混迷の度合いを増してますが、しかし、それだけに面白い時代といえなくもない。新しい文明の萌芽が、そうしたカオスモスの中から生まれてくるのだろうと僕個人は淡く期待している。パンドラの箱の底には、希望があるのだと、信じたい。

阪神淡路大震災から31年目。そうか。もうあれから31年か…と思い返してからの、とりとめのない雑感。


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