高知県吾川郡仁淀川町の池川集落。安の河原にある「天明逃散集合の地」の史跡。
江戸時代、吾川郡池川村は土佐和紙の名産地として知られていた。ところが土佐藩は悪化する藩財政をなんとか改善しようと池川村の和紙の自由売買に禁止令を出して、藩の専売にしようと目論んだ。折悪しく天明の大飢饉にも襲われて池川村の村民たちの生活はすこぶる困窮し、ついに天明7年(1787)2月16日、池川村の農民601人の男子が、藩境を越えて隣接する伊予松山藩領(現・愛媛県久万高原町)の菅生山(すがおやま)大宝寺へ逃散(駆け込み)を決行したという。
結果として30日近くも山に立て籠り続け、土佐藩が折れて池川村の和紙は元通りに自由販売が許可された。「池川紙一揆」といわれて、土佐藩政史に残る大事件として記録されている。
陸奥家の祖先が、この池川紙一揆に参加しているかどうかはわからない。一応、陸奥家の家紋は宇和島伊達藩の宇和島笹と一緒で、家の言い伝えでは宇和島伊達藩の武家の子孫ということになっている。
なんで宇和島藩士の子孫が土佐藩領の池川村にいるのか?と疑問に思うが、池川集落は松山街道の宿場で、土佐と松山を結ぶ重要な拠点でもある。松山から南に下ると宇和島なので、松山街道は宇和島街道にもつながる。宇和島、松山、土佐の藩士の行き来もいろいろとあったろう。何かしら街道に纏わるような仕事をしていたのかもしれない?と推測したりもしているが、よくわからない。
高知県吾川郡仁淀川町の池川集落へ。明治初期は吾川郡池川村であった。ここの「池川村土居4番屋敷」で産まれたのが陸奥万太郎といい、僕の4代前の高祖父=曽曽祖父になる(戸籍には前戸主として5代前=玄祖父の陸奥藤吾の名前もある)。4代前の万太郎が何をしていた人か?というのはよくわからないのだが、万太郎の息子3人(龍彦、利宗、巌雄)は多少、経歴がわかっている。
長男の陸奥龍彦は土佐清水市のいくつかの小学校(宗呂小学校、下ノ加江小学校)で校長先生をやったり、司法省(広島県加計出張所)で書記として働いたりしていた(明治32・1899年頃)。しかし妻と離縁したことをきっかけに高知県高岡郡越知町に移住し、そこで教育者、国学者、郷土研究家として生涯を終えたらしい。
龍彦の弟子には結城有(たもつ)氏がいて、この結城有氏と明神健太郎(この人も郷土研究家で結城氏の弟子。陸奥龍彦からすれば孫弟子)氏が発表したのが『八幡荘伝承記』。結城氏(佐川の大庄屋の一族)の家の蔵にあったという土佐の南北朝時代を記録したという歴史書の翻訳本だが、なぜか結城氏が原本を世間に公開しなかったので「幻の歴史書」といわれている。偽書疑惑もあるが、この原本を読んで「素晴らしいものだから大事にしなさい」と結城氏にアドバイスしたのが師匠の陸奥龍彦だったりする。公開をアドバイスしておれば中世土佐の歴史に光が当たったのかも知れないのに…。惜しい。いつか世間に出てきてほしい。
次男の利宗が僕の曾祖父(3代前)で高知師範学校(現・高知大学)を卒業して大蔵省専売局の書記をやり、その後、退官。しかし大蔵省専売局の先輩OBの渡辺新太郎が、かつての上司で、その渡辺新太郎が宇治山田市(現・伊勢市)の市長になったときに(渡辺を招聘したのが宇治山田出身の元大蔵官僚で衆議院議員の池田敬八)、宇治山田に移住して市役所主事を務めた。渡辺新太郎の右腕のような存在だったと思われる。
三男に巌雄という人もいて、この人も大蔵省専売局の書記を長く勤め、叙勲(従七位勲八等)されている。面白いのが晩年に「釣魚用被せ玉」の特許を取得して、昭和12年・1937年の発明推進協会に記録されている。同じページに松下幸之助が「電燈ケース」で名前が載っていたりもした。釣り好きだったのかも知れない。
池川村(池川町)は仁淀川町になり、仁淀川は清流で知られ、「仁淀ブルー」というと、海外でも有名らしい。集落を訪れて、あまりの川の美しさに絶句した。陸奥家はこんなところから出てきたのか…。