曾根崎心中
近松門左衛門の名作『曾根崎心中』をモチーフにまち遊び。お初と徳兵衛が心中した日に、心中した道行をたどって、心中した場所(露天神)で、曾根崎心中の話を語ります。
えらい企画ですが、ガイド役は大阪あそ歩プロデューサーのむつさとし。ぼくですww よろしければご参加を~^^
http://www.facebook.com/events/305725692840784/
近松門左衛門の名作『曾根崎心中』をモチーフにまち遊び。お初と徳兵衛が心中した日に、心中した道行をたどって、心中した場所(露天神)で、曾根崎心中の話を語ります。
えらい企画ですが、ガイド役は大阪あそ歩プロデューサーのむつさとし。ぼくですww よろしければご参加を~^^
http://www.facebook.com/events/305725692840784/
ぼくは中卒で、どうも一貫した、体系的な、組織化された学問的態度というものが身についていない。レヴィ・ストロースのこの部分、折口信夫のあの部分、ジャック・ラカンのそういうところ、ジェイン・ジェイコブズの例の提言、梅棹忠夫の大胆な仮説・・・といったように、自分が好きや!おもろいがな!興味深い!という好悪の、生理的体感の集合によって、勝手気ままに企画やらプロジェクトやらを構築するから、そこには真摯誠実なる学問的態度がない。寄せ集めの、つぎはぎだらけの、フランケンシュタインのような、独善と思い込みがあるだけ。
こういう人間のことを大阪では「いっちょかみ」といいますが、これは「いちびり」と並ぶ、典型的な大阪人的特筆で。昔の大阪のまちなかではこういう「いっちょかみ」の独善的人間が大勢集まって、じつはまったくお互いに噛み合わないロジックを展開して侃侃諤諤やっていたわけですが、そういう連中の学問のことを町衆は揶揄して「鵺学」(ぬえがく)といいました。鵺というのは頭は猿、足は虎、尾は蛇という伝説の妖怪・怪獣で、まぁ、フランケンシュタインの日本版ですわ。鵺みたいな、得体のしれない学問(学問というよりも趣味、道楽、酔狂ですが)をやっている。
AとBのロジックの断絶を「なんとなく」という反近代で飛び越える。ブリコラージュといえるし、モジュールともいえるし、この寄せ集めの隙間こそが「余白」ともいえますww それでいいのか?それでいいのだ!(バカボンパパ)
・・・というわけで「余白ネットワーク」の内田聖良ちゃんとトークイベントします。まったくもって、どういう展開になるかは不明ですが、ゆる~くやりたいと思ってますので、ちょっくら顔を出してやろうという方、ぜひとも来てみてください。
http://www.facebook.com/events/268052299958579/
スゴイスゴイ!!と聞くから読んだら、確かにノケゾルぐらいスゴかったですww
冷静に考えれば「んなアホな!」なんですが、このトリックは古典になりますな。いやあ、参りましたww
やります!いろいろとありまして5月より「カマン!メディアセンター」に1ヶ月ほど半滞在することになりまして。せっかくだからアート・プロジェクトを企画しました。
ミックスホストチームの皆さんがご協力してくれます。美味しいミックスジュースを作りましょう!(カオスなミックスジュースになるかもしれませんがww)
ぜひともご参加を^^
まちには駅があって、駅には商店街がつきもので、商店街には地味ながらもいくつか小さな名店があるもので。
学生や主婦が通うパン屋や、むかし絵描きをやっていたマスターがやっている喫茶店や、商店街きっての老舗和菓子屋(老舗といっても京都や奈良みたいに大袈裟なものではなくて、せいぜい50年から100年程度)や、裏路地にある地元民だけが集まる居酒屋なんてのがそれで、こういう駅、商店街、名店、裏路地がないと、まちはまちとして成立しない。輝かない。
要するに、駅前に大型のショッピングモールなんてのができて、中に入ってるのはマクドやユニクロやニトリといったチェーン店ばかりなんてことになると、ここにはまったく背景がないんですな。まち独自の文化や歴史がない。物語が、詩が、発動しない。
何故ならば、彼らは、まちやひとを単なる顧客層や顧客数と考え、客単価なんてことを熱心に計算し、経済的に成立するか否かしか考えないから。まちの色や、音や、熱や、匂いや、光や、闇を知らない。まったく、一切、まちのことなど省みないから。
なにより許しがたいのは、彼らのシステムは、徹底してムダのない、能率的な、情け容赦のない収奪構造であるので、こうした経済システムには、まちの小さな名店なんてまったく歯が立たずに、枯葉剤のように、根絶やしに全滅させられてしまうこと。いまや日本国中どこにいっても、「まちらしいまち」が消滅して、大型ショッピングモールとチェーン店と・・・といったような無味乾燥な光景が展開していて、東北にしろ九州にしろ、どこの駅に降りても「あれ?ここは一体どこのまちなんや?」とクビを傾げるほど、どこの駅に降りたのかサッパリわからない有様です。
つまり、彼らは、まちを、まちでなくそうとする。彼らはまちを商圏と考え、経済圏と捉え、人間活動の現場=まちとは考えない。まちには、アートや遊びや余白や非効率やトマソンやムダや迷路やナンセンスや不経済やカオスが必要であることを彼らはまったく理解しようとしない!じつに残念なことに。
ほんまは、まちは、もっともっと、おもろいもんです。これはエンターテイメントとかテーマパーク的な意味でいうのではなく、怖さや危険、タブーも含めて、清濁合わせ飲む意味で、まちというのは、おもろいといってます。そう。まちは多様性に彩られ、可能性に満ち溢れ、人間そのもの、生命そのものであるから、おもろい。
ほんまは、こんなことは口説口説しく言わなくても、みんな、じつは、すでに、気づいてることと思うんですが。気づいていながらも、経済システムの歯車であることを、なかなか辞めることができない。しかし、もう、その先は、ないですよ。世界のベクトルは徐々に変わりつつある。いまはその過渡期で、だからでこそ多少の混乱はあるでしょうが、ぼくは将来的には楽観です。なるべくソフト・ランディングしたいもんですが…。