神戸のモトコー(元町高架通商店街)にいくたびに思うのは「なんて大阪的カオスに満ち溢れた商店街なんや。ステキ!」ということ。いや、正確には、これは「摂津的カオス」なんでしょうけども。
大阪府は明治政府によって作られました。律令国の摂津国、河内国、和泉国の三国によって形成された。このうち摂津国はじつは堺港から住吉、大阪、西宮、神戸、兵庫港までを含む大大国でして。それを明治政府は大阪府と兵庫県にムリヤリ分断しました。もちろん摂津国があまりに巨大で、その財力、権力、国力を恐れたからですな。
よく県民性なんてのが話題になりますが、こんなのは嘘っぱちで。都道府県は、たかだか150年ほどの歴史しか有してません。それ以前、律令制による国郡制度は、645年の大化の改新から1868年の明治維新まで、約1200年以上に渡って、地域、地方の住民、庶民に影響を及ぼしました。風土が人間を形作りますから、この影響は非常に大きい。(あと江戸時代270年間の日本全国300藩の歴史と文化というのもあって、この諸藩の性格というのも、これまた影響大です)
ぼくは大阪と神戸は、同じ風土、原風景をバックボーンにした双子都市だと思ってまして、そういう相似性、近似値を見つけるたびに興味関心を覚えるわけです。「大阪都構想」なんていいますが、これは明治維新が作った行政デザインの枠組みの中で、こちょこちょと境界線をいじるだけの話。なにも可能性を感じない。ぼくは「大摂津文化圏の復活」(大阪+神戸)の方が、よっぽど可能性を感じますし、自然に思いますな。少なくとも歴史性、物語性、文化性が連続している。
ちなみに摂津とはなにか?これは津(港)に摂した場所。要するに「港町」という意味です。大阪と神戸は港町。港というのは、異国人や、流れ者や、わけわからんもんがやってくるところです。多様性(ダイバーシティ・マネージメント)を許容する風土。こういうのは海がない盆地都市の平城(奈良)や山背(京都)にはなかなか見られません。盆地はやはり、どこか閉鎖的ですから。ひとつの文化を純粋培養するには非常に適したところですが。文化の多様性を許容する港(大阪と神戸)と文化の純粋性を育む盆地(奈良と京都)。畿内の風土の違い。その面白さ。
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人間存在は口から排出器官にかけて一本の穴が貫通していて、じつは構造的には竹輪やドーナツと同じ仲間です。これは「空間的なトポロジー」(位相幾何学)の話。もうひとつ。時間的には人間存在は母の子宮から、へその緒を介して、娘の子宮へと至って生命を連続させていく。これは「時間的なトポロジー」といえます。人間存在は、この2つの空間的なトポロジーと時間的なトポロジーによって規定されている。位相幾何学的には人間存在とは女性性の連続であり、男というのは貨幣や言語といった交換媒体的な、代替物的な、ファルス的な、胡乱なる存在ということです。トホホ・・・。
1970年当時の日本の人口は約1億人でした。同年開催の大阪万博の総入場者数は約6400万人。恐るべき数字です。この世紀の一大イベントのおかげで、「人類の進歩と調和」という「万博幻想」が日本全体を包み込み、日本人は資源もエネルギーも無限にあると錯覚してしまい、「大きいことはいいことだ」「メタボリズム建築」「日本列島改造論」「使い捨て」といった傲慢不遜な一過性社会を増長させました。
本当は1970年は「オイルショック(1973)前夜」(早晩、オイルショックが起きることぐらい、当時の全世界の知識人、学者、企業、有識者はわかってましたし、何度も何度も何度も何度も警告・警鐘していました)で、「地球資源は有限である。いままでの科学工業文明は曲がり角に来ている。我々はもっと自然を尊重し、自然に寄り添う生活スタイルを模索しなければいけない!」ということを訴えるべき段階に来ていたはずなのに、日本は西欧型の大量生産・大量消費文明に憧れて、まるで正反対のことをしてしまいました。その結果が1980年代の史上空前の「バブル経済」と、1990年代の「バブル崩壊」と、2000年代の「失われた時代」であり、2011年の「福島原発事故」 です。大阪万博の奢り昂りの果てに、福島原発の今日の悲劇がある。これは間違いない歴史的事実です。(あ。言い遅れました。ぼくは「アンチ大阪万博」の人間ですww。ちなみに岡本太郎も「アンチ大阪万博」で、あの「太陽の塔」を作りました。大阪万博の科学万能主義を謳ったパビリオンはすべて地上より消滅し、アンチ万博の太陽の塔だけが、いまも大地に屹立しています。なんという皮肉!)
しかも日本が時代遅れの工業社会化を熱心に進めているあいだに、1970年代のアメリカで起こったことが、マイクロソフト(1975)やアップル(1976)の創業で、「IT情報産業」の勃興と発達だったことを考えれば、日本は決定的な、致命的なミスを犯したといっても過言ではないでしょう。
じつは松下幸之助は1964年の段階でコンピューターの存在を知っていたんですが、「コンピューター?あんなもんようわからん。あきまへん。ソロバンでよろしい」といってコンピューター事業から全面的に撤退したんです。正直いえば、これが「経営の神様」と崇められている松下幸之助の限界でした。いや、松下幸之助がダメだったというのではなく、おそらく「戦後日本式経営の限界」だったのでしょう。
もういい加減、「人類の進歩と調和」(この有名な、科学万能主義を謳うコピーには、自然環境に対する畏敬の念がありません)=「大阪万博幻想」から脱却しないと。それが次の大阪、日本を作る第一歩だと思ってます。「大阪万博幻想」を生んだ大阪の地から、それをはじめたい、はじめなくてはいけない、とも。
ぼくは「イベント的発想」や「イベント的現象」に懐疑的で、なんでもかんでも「イベント化」しつつある社会に危惧を感じてます。イベント化とは端的にいえば「一過性」です。一過性はまた無責任と表裏一体です。
歴史や文化、文明は水平軸の存在です。連綿と続いて、連続して、持続発展していくサスティナブルなものであるのに、それを垂直型に唐突に割り込もうとするのがイベントです。一時的には、社会のある一面を極端に照射しますが、それが社会の土壌に根付くことは非常に難しい。イベントは常に一過性で終わる。だからでこそイベント(出来事)といいます。
例を出します。ぼくは民主主義をある程度、信じています(もう少し正確にいえば可能性を感じています)。しかし民主主義を実現するための「選挙制度」には徹底して懐疑的です。選挙制度は何月何日に立候補者が公示されて、何日間か選挙演説を行って、投票日になると有権者が投票行為を行って、多数票を獲得したものが政治家という立場で民主政治を代行します。どう考えてもこれは一過性の現象で、イベントです。
いま世界の趨勢を決めるであろう重要な選挙といえばアメリカ大統領選挙ですが、そこでは支持基盤向けに大げさなリップサービスや、明らかな利益誘導、大衆迎合のパフォーマンスが行われます。現大統領のオバマ氏は前回の選挙時には「チェンジ!」なんてことを叫んで大統領に当選しましたが、「チェンジ!」なんてのは公約でもなんでもないです。なにもいっていないに等しい。これはただの選挙向けのパフォーマンス。しかし、それに大衆が踊らされて、「雰囲気」や「勢い」で大統領が決まる。これは一歩間違えれば実に恐ろしいことです。(大衆扇動の天才ヒトラーは、ちゃんとドイツ議会の選挙を経て政権を奪取しています。蛇足ですが)
近代の議会制民主国家の多くは、選挙制度というイベントの結果で民主政治を実現しようとしてきました。しかし、それで果たして真の民主政治をどれだけ実現することができたのか?「選挙制度」というイベント的発想や手法は、明らかに民主主義を歪めてしまっている。ぼくが基本的にノンポリであるのは(いや、時折は、じつは「おれほど熱いイデオロギッシュな革命思想の男はおらんな」なんてことを思ったりもするのですがww)、こうした政治システムに対する根底的な疑問があるからです。現在の政治システムはイベント的事象であって、ぼくらが生きる大地(物語、歴史、文化、信仰、自然、血縁、地縁など)に根ざしたものではない、という思いが強くあるからです。
だから、ぼくらはぼくらのやり方で、ほんまもんの民主主義社会を実現しないといけない。その方法論は、おそらくは選挙や任期といった政治システムの改良ではなくて(それは必要なことですが、その前にもっと重要、必要なのは)政治という範疇を凌駕する「まつりごと」の実現だろうとぼくは思っています。(さて、では「まつりごと」とは一体なにか?この話をすると滅茶苦茶長くなるので割愛しますww これが聞きたい人はいっぱいいると思いますが答えは簡単。あなたのまちの祭りに参加してみるのが一番よろしい)ぼくはいま真剣、必死になって「まつりごと」を実現したいと思ってます。まじめに。そして多少の遊び心をもって。
なんでもかんでもイベント化する現象は今後も続いていくようです。既存社会が閉塞的状況に陥っているので、それをイベント的手法で誤魔化そうとする人々があまりに多いからです。しかしイベント的手法で社会を変革することは不可能で、むしろ事態は悪化していく一方でしょう。イベント(選挙制度)に期待してはダメなんです。ぼくらのライフは、誠実に、一歩一歩、日々を積み重ねていくものだから。親から子に孫に伝わる、遺伝子のような、「まつりごと」を残さないと。
大阪市長選挙、府知事選挙の投票日に記す。
政治家というのは「代議士」といいまして。代議士というのは字義通り、「代わりに議会にでる人」のことをいいます。誰の代わりか?といえば、これは国民です。日本国民の有権者1億人で国会議事堂につめかけて話し合うなんてのは到底、ムリだから、代理人をたてて政治を行っている。代理人だから結局、民意が反映されない。これが近代民主主義の致命的な欠陥です。
しかし、いまはインターネットという便利なツールが登場してきましたから、有権者が1億人いようが10億人いようが、ネットにアクセスして法案を審議しようと思えば可能な時代となりました。審議サイトを設けて、そこに法案を並べて、みんなが読んで、掲示板でディスカッションして、最終的に「いいね!」ボタンを押すww 賛成が多ければ可決。反対が多ければ否決。本当の意味での直接民主主義=国民政治が、ついに可能になる。システムとしてそれは明日にでも構築可能なんですが、代議士は自分の失職を恐れてか、なかなか、そういうネット投票の整備、ネット国会の話は進んでないようです。しかし、インターネットの登場で、直接的な民意の問い方、意思表明が可能となったことで、もはや世の中の代議士=政治家は、実質的には存在理由、存在意義を失ってるんです。近代政治家が果たすべき最後の大仕事は、直接民主制への橋渡し。政治家から国民への大政奉還。それしかありません。
いま世界には230の国や地域はあるそうですが、どこの国、地域が、代議士制度を駆逐して、真の国民政治を実現するか?これ、実現できたところは人類史に名を刻みますよ。おそらく小さい国でしょうなぁ。ヨーロッパの小国かな?第3世界から出るかも知れません。実際にスウェーデンの「Demoex」やフィンランドの「Change2011」なんて運動、政党がすでに出てきてますから。
国という単位でなく、都市という単位で考えれば、もっと早いこと、直接民主制は実現するでしょう。それは、そんなに遠い日のことではないと思ってますが・・・。
天満八軒家浜より西を望む。大川と、おしてるや難波津の夕景と、高速ビル群と。まちを逍遥することで自分自身のアイデンティティを発見する。どうも人間存在は風土によって規定されていくものらしい。
「人間は異郷に生まれてくる。生きることは故郷を獲得することに他ならない」
Karl Ludwig Borne『断片と警句』
ぼくは大阪に生まれたから大阪人になったのではなく。大阪のまちを逍遥したことで大阪人に「なっていった」と思ってます。
来年の大河ドラマは平清盛。どうも日本史では清盛は嫌われ者ですが、あまりにも早すぎた天才とでもいいましょうか。日本史上でも稀に見る、突出した大英雄がじつは清盛です。なんせ彼は後白河法王(院政)と戦い、藤原家(摂関家、公家勢力)を倒し、東大寺の大仏(宗教権力)を焼き払いました。天皇と公家と宗教という三すくみの暗黒の中世時代を破壊して、武家社会の幕開けを切り開いた。
清盛は律令制、国群制、公地公民制に支配されるのではなく、自分の領地を所有して、そこを自分たちで治めるということを始めました。これは、それまでの権力の概念を覆します。どこそこの生まれ、母方が宮家といった血で収める政治や、仏罰が当たるぞ、神罰が下るぞ、といった迷信的な宗教的権威で政治をするのではなく、力で、富で、政治を行う。事実、清盛以降「一所懸命」の武士(源平)が誕生してきます。これはまさしく前近代の萌芽です。
また清盛は海がない京都を捨てて、海外進出しようと都を神戸・福原京に遷しました(治承4年・1180年)。日宋貿易を展開して富を得ようとしたんですな。
それ以前の国際交流といえば遣隋使や遣唐使です。それも菅原道真の建議(寛平6年・894年)以降は途絶え、平安中期以降の日本は鎖国体制でした。また遣隋・遣唐使は律令、経典などを大陸から日本に伝えるためのものでしたが、清盛は史上初めて富を得るために大陸に船団を送り込みました。日本史上で初めて「外交」ではなくて「貿易」を始めた男ともいえます。250年以上に渡る鎖国体制を打ち破って貿易を始め、力を、巨万の富を蓄えて、天下を牛耳った。
清盛はそのために自分の資本を擲って人工島「経が島」(兵庫津)まで開拓しています。このとき現代に繋がる国際貿易港・神戸の源流のようなものが芽生えたといえますし、その精神の有り様、ベクトルとして、日本史上初めての神戸っ子第一号は、まさしく清盛でしょう。
平家を倒した源氏は鎌倉に幕府を置きました。京都よりさらに東。大陸ははるか彼方。頼朝という男は一国二政府(京都と鎌倉)といったユニークな政治体制を作り上げましたが、どこか暗くて閉鎖的です。不思議なことに源氏の子孫を自称した家康にもそれがあります。また平家の子孫を自称した信長は、どこか清盛的です。ぼくは頼朝よりも清盛の開明性に強く惹かれます。源氏ではなくて平家政権がもう少し長く続いていたら、日本は来るべき大航海時代への足掛かりを掴んでいたかも知れません。平家、神戸、福原京の夢、可能性。そこが壇ノ浦で滅びました。それが惜しい。あまりに、惜しい。
ちなみに清盛は高熱の謎の奇病で亡くなっていますが、これは大陸性の伝染病=マラリアではないか?という説があるとか。これがもし本当であれば、清盛は昇殿から降りて、直に大陸の人間や異民族と触れあって交流したんでしょう。その好奇心、知的探求心が仇となって、不治の病に繋がった。歴史は因果なものです。
画像は神戸市兵庫区の荒田八幡神社にある「福原遷都八百年記念碑」。
大阪城の鎮守・玉造稲荷神社にて。秀頼公の銅像が出来てました。いつのまに?驚いたww
太閤秀吉は無類の女好き(戦国時代は男色も盛んだったんですが秀吉はそっちの方のエピソードは皆無。一度、美形男子をお世話役にしたら「お前に姉妹はいないか?」と質問してまったく手をつけなかったとかw)で、色んな女性に手を出しまくってますが、明確に懐妊したのは淀殿だけ。明らかに怪しい。「もしかして秀頼は秀吉の子ではないのでは?」というのは当時から噂されていたことでした。また秀頼は2メートル近い大男で、禿鼠、猿みたいな秀吉とはまるで似てなかった。では誰の子か?諸説ありますが、淀殿の幼馴染の大野治長あたりが可能性として考えられるとか。真相は不明ですが。
ただただ哀れなのは、おそらくは秀頼は実子ではないと知りながらも、よろしく後見をお願いすると家康以下の五大老の手を取り、泣く泣く頼み込んだという病床の秀吉。「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪花のことも 夢のまた夢」。夏の陣による豊臣家滅亡、大坂城炎上を予感していたかのような辞世の句が、これまた儚い。そこに天下人の気概はなく、人の子の切なさのみが残る。じつは大阪人が好きなのは、太閤秀吉のサクセスストーリーとか「成り上がり」ではなく、この「成り下がり」だとぼくは思ってます。判官贔屓。
堺の某地域新聞で堺のまちを紹介する連載を担当してるんですが、読者アンケート結果ではえらく好評だとか。嬉しい話ですが、これはみんな自分のまちを知らなさすぎる、ということの証左でもあります。そう考えると複雑ですな。
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新しい高層マンションの住人たちが、古くからある神社の祭礼の地車囃子の「夜練習がうるさい!」とクレームを入れる。マンションは住民の数も多く、民主主義では数が多いほうが強い。神社は対応に苦慮して、結局、マンションに頭を下げて謝罪する・・・こういう問題が日本全国どこでも展開してますが、これはそのまち、土地、コミュニティの文化、歴史、伝統などを、なんら勘案しようとしない「横の民主主義の悪弊」です。
この「横の民主主義」に対して、まち、土地、コミュニティが含有している文化、歴史、伝統などを・・・これは即ち、過去人=我々の祖先、先達、先人、死者たちの物語です・・・を尊重しようとすることを「縦の民主主義」といいます。
過去人たちはモノをいったり、投票したりすることはできませんが、過去人たちの思いや願いを推察して、現在進行系の問題、懸案を考えようとする。これは過去人のみならず、未来人(子孫、後輩、後進)への義務、責務を、深く考察しようという態度ともいえます。「空間的な民主主義」と「時間的な民主主義」ともいえますし、イギリスの小説家G・K・チェスタトンはこれを「生者の民主主義」と「死者の民主主義」と提唱してます。
現代日本民主主義は「横」「生者」「空間」ばかり尊重して、まるで「縦」「死者」「時間」を尊重しようとしない。「国債1000兆円を後代にツケとして残す」「数万年に渡って放射能汚染された土地を作ってしまう」なんて問題は、生者の奢り、傲慢以外のなにものでもなく。「横の民主主義」だけではなく、「縦の民主主義」を考えること。「縦」と「横」のバランス、調整、帳尻合せが、今後の我々の政治、まちづくりなどの緊急課題です。そのためにも、我々は「死者の物語」を、まち、土地、コミュニティの文化、歴史、伝統を、もっともっと深く知らなければいけない。(そのためのコミュニティ・ツーリズム=まち歩き=大阪あそ歩です。と声を大にして宣伝しておきます。笑)
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「伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない」
G・K・チェスタトン『正統とは何か?』