百濟國 若有賢人者貢上 故 受命以貢上人名 和邇吉師 即論語十卷 千字文一卷 并十一卷付是人即貢進
古事記に出てくる一文です。大意は「百済国に賢人がいると聞いているので呼びなさいという命令(当時の天皇は応神天皇)で、百済からやってきた人物の名は和邇吉師(わにきし)という。この人は論語十巻と千字文一巻のあわせて十一巻を我が国に持ってきた。」というようなところでしょうか。
この和邇吉師というのが王仁博士のことで、千字文というのは、漢文の長詩ですが、1000の異なった文字が使われていて、子供に漢字を教えるための教材です。要するに王仁博士は「儒教」(論語)と「漢字」(千字文)を我が国に伝えたわけで、日本の国家形成に多大なる影響を与えた人物といえます。
この王仁博士のお墓が、かつて大阪市北区大淀あたりにあったそうで、その痕跡として、いまの浦江八坂神社境内に王仁神社というのがあります。また現在の町名の大淀に変わる前は、このあたりは「大仁」(だいに)と呼ばれていて、これも王仁博士にちなむとか。
王仁神社は現在では学問の神さまとして祀られていて、一願成就の神さまにもなっています。また王仁博士が大阪に来て、仁徳天皇の即位を祝して詠んだ歌が
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり いまは春べと 咲くやこの花
「大阪の海に、長い冬を越えて、花が咲いた。いまこそ春がやってきたと、花が咲いた。」というような意味です。この「花」は桜花ではなくて、梅花だといわれていて、古代の日本人にとっては、春を告げる花というのは桜花ではなくて、梅花だったようです。また、紀貫之が編纂した古今和歌集の仮名序にも選ばれていて、「歌の父母のやう」と、名歌として絶賛しています。
王仁神社。春の時期に訪れて欲しい、大阪の名所です。
※大阪あそ歩マップ
おしてるや 咲くやこの花 浦江・大仁 ~王仁博士も文人墨客も眺めた花と夕陽~
夕方に室堂に入って、山小屋で雑魚寝したあと、早朝3時半に起きて御前峰に向かって登り始めました。約1時間ほどで山頂に到達。吹きすさぶような山風に、気温10℃を切るような寒さの中で、じっと待つこと40分。東に見える、北アルプスの山々の頂きの彼方から、矢のような強烈な光を放ちながら朝陽が登ってきました。驚くほどに、美しい御来光。呆然とするぐらい圧巻でした。
記念撮影!ということで、
大阪あそ歩の旗と一緒に。「大阪あそ歩登山隊」が日本三大霊峰・白山に登頂した瞬間です(笑)
お盆休みをいただいて、大阪あそ歩の茶谷チーフプロデューサーと一緒に白山に登ってきました(参考リンク:白山 – Wikipedia)。
白山は標高2702メートルで、日本百名山のうちの一座です。古来から富士山、立山とともに日本三名山(三霊山)と呼ばれていて、山頂は加賀一宮・白山比咩神社(参考リンク:白山比咩神社 – Wikipedia)の奥宮にもなっています。
白山比咩神社は、社伝によれば、崇神天皇7年に手取川の要に位置する舟岡山に「まつりのにわ(祭を行なう場所)」として祀られたのが神社の始まりとか。当時の白山は霊山として入山禁止でしたが、養老元年(717)に泰澄和尚が神の啓示を受けて入山したところ、十一面観世音菩薩が現れて、それを伝え聞いた元正天皇が白山山頂に神社(奥宮)を創建しました。以後、日本全国各地に白山信仰が広まって、全国2000余社の白山神社の総本社です。
古代に大陸からやってきた渡来人たちは、船で日本列島にやってきます。命がけの航海をして、日本列島に近づいていくと、まず真っ先に見えてくるのが山の頂です。島根県の大山に向かって船を進めると到達するのが出雲国で、白山に向かって進むと越国にたどり着きました。どちらも渡来人たちの海上交通の目印、道しるべとなった山で、「霊峰」として尊ばれたのは、そういった歴史的背景があります。
ちなみに白山比咩神社のご祭神は菊理媛神(くくりひめのかみ)。日本書紀によればイザナギとイザナミを仲直りさせた神で、縁結びの神とされています。渡来人の海上交通の目印となった山が「括りの神」「結びの神」として祭られたのは、なかなか意味深な話です。
花の山としても知られていて、高山植物の宝庫。じつに美しい山でした。
先週8日ですが、E-よこ会の杉本さん、いちびり庵の福岡さん、大阪商業大学講師の横見さん、司会は大阪市史料調査会調査員の古川さんで、座談会をやりました。議題は「大阪の観光について」。大阪春秋さんの秋号(136号)にて座談会の模様が掲載されます。
10月に発行されます。よろしければ買ってください。立ち読みはあきまへんで(笑)
憧れだった壱岐の月讀神社にいってきました。アマテラス、スサノオと並ぶ、三貴子のうちの一柱、ツクヨミさんの総本社です。
ツクヨミさんといえば、京都・松尾にある月読神社が有名ですが、日本書紀によれば、顕宗天皇3年(西暦487年)に、阿閉臣事代が任那に遣わされたさいに、壱岐で月読尊の神託があったので、これを天皇に奏上して、山城国葛野郡歌荒樔田の地に神領を賜って、壱岐県主・押見宿禰に祀らせた…というのが創建の由来とされています。要するに、壱岐の月讀神社こそが日本全国の月読神社の元宮というわけですな。
また押見宿禰の子孫(壱岐氏)はのちに「卜部氏」と名前を変えて代々、神祇官(神職)をつとめたそうで、大和王権に神道が根付くきっかけを作りました。壱岐・月讀神社は、日本神道の名門・壱岐氏の祖霊社なので、「神道発祥の地」とも呼ばれています。創建年代については不詳ですが、京都・松尾の月読神社が西暦487年に勧請されたので、少なくともそれ以前で、日本でも最古級の神社ということになります。
昼というのに、なぜか薄暗く、すこぶる厳かな雰囲気で、神秘的な神社でした。ひとことで言うと、ぼくはツクヨミのリアルさに心打たれました。原始的ですが、真摯で誠実な古神道の、「ほんまもんの信仰」がここにはあります。壱岐のツクヨミは、決して、記紀神話の中空構造のような、無為な神ではありません。
色々と考えさせられる神社です。もっともっと知られて良い神社です。参りました。
緒方洪庵は医者でした。洪庵が経営した適塾は医学塾でしたが、洪庵は当時珍しい蘭学医者でもあったので語学塾としての傾向も強くありました。語学や言葉を学ぶことは西洋思想そのものに触れることに他なりません。そこから日本陸軍の父ともいわれる大村益次郎、外交官として活躍した大鳥圭介、衛生学の泰斗長与専斎、思想家の福沢諭吉、官僚の花房義質、赤十字を作った佐野常民、手塚治虫の祖父で医師の手塚良庵など、綺羅星の如くの人材が輩出されました。
緒方洪庵と並ぶ幕末の啓蒙家・教育家として名前が上げられることも多い吉田松陰の松下村塾の運営はわずか3年の短さでしたが、適塾は26年間も続きました。また松下村塾はほとんどが長州藩出身者でしたが、適塾は北海道から九州まで、広く門下生が集まっていました。その数は3000人を越えるといいますから、単純に計算すれば、年間100名以上の門人を受け入れて育成したことになります。数もさることながら、活躍した分野、地域の多彩なことも特筆すべきことで、まさに百花繚乱。圧巻です。
適塾のみならず、適塾以前から大坂は私塾の集積地でした。懐徳堂、絲漢堂、先事館、思々斎塾、洗心洞、真空館、青山社など。これはすべてが町民、町衆が資金を出し合った民間塾で独立独歩で運営していた。日本全国に「藩校」というのはありましたが、この手の「私塾」の集積は大坂が随一でした。
藩校と私塾では学問の分野や方向性、ベクトルが違います。藩校で勉強するのは儒学(その多くは朱子学。稀に陽明学)であって、しかし大坂の私塾は儒学もあれば蘭学、医学、漢学、天文学、和算など、ごった煮のグチャグチャでした。各自が各自のやり方で、自由闊達に、やりたい放題やっていた。有名な懐徳堂なんかは世間から「鵺学」と揶揄されたほどで、鵺というのは妖怪で、顔は猿、胴体は狸、手足は虎で尾は蛇。要するに「キメラ」(合成獣)なんですが、懐徳堂が蘭学、医学、漢学、天文学、和算などゴッタ煮で、意味わからん学問をやっていたので「あそこは鵺学や」と呼ばれたんですな。藩校ではこんなことは先ずありえません。しかしそのおかげで鵺学の懐徳堂から、哲学の根源理論を看破した加上論の富永仲基や、宇宙モデルを説いた唯物論者の山片蟠桃(旧ソ連の科学アカデミーからマルクスの先駆者として高く評価されました)といった学者が登場してくるわけです。既存の学問体系の枠組を越えた大天才たち。
江戸時代の大坂は、まず間違いなく、日本最大の学問都市で、文教都市でした。来年は緒方洪庵生誕200年記念ですが、この知の系譜はもっと深く省みる必要があると思っています。
銀座・ルパンにいって、空いてる席に座ったら、そこが「安吾席」でした。マスターに教えてもらって気づきました。
記念に目の前のランプを撮影。上の安吾の写真と見比べてみて下さい。ランプの形状が一緒でしょ?(笑) 偶然ですが、嬉しかったなぁ。
記紀神話の中では、「三貴子」として、アマテラス、スサノオと比肩する偉大な神なのに、まったく無為の存在として描かれているのがツクヨミ。それを捉えて、日本人の心性を解き明かそうとしたのが河合隼雄氏の名著「中空構造日本の深層」。
「中空が空であることは、善悪、正邪の判断を相対化する。統合を行うためには、統合に必要な原理や力を必要とし、絶対化された中心は、相容れぬものを周辺部に追いやってしまうのである。空を中心とするとき、統合するものを決定すべき、決定的な戦いを避けることができる。それは対立するものの共存を許すモデルである。」
「わが国が常に外来文化を取り入れ、時にはそれを中心においたかのごとく思わせながら、時がうつるにつれそれは日本化され、中央から離れていく。しかもそれは消え去るのではなく、他の多くのものと適切にバランスを取りながら、中心の空性を浮かびあがらせるために存在している。」
セイゴー氏は「いささか性急な思いつきでは?」と諫めていたりもしますが、こうした思いつき、直感的な提言というのはぼくは嫌いではありません。ときにインスピレーションは万巻の書物よりも真理を照射します。
ツクヨミは伊勢・内宮別院、外宮別院、京都・松尾大社などに祭られていますが、総本社は壱岐の月讀神社。じつは来週ですが、とある仕事で壱岐に行くことになりまして。いろいろと壱岐の名所を巡るのですが、ぼくが最も気になっているものの1つが、この壱岐の月読神社なんですわ。
中空構造の神は、果たして壱岐においても中空的存在であるのかどうか? 壱岐島民にとって非常にリアルな、実存的な神として信仰されているのであれば、いつ、ツクヨミは記紀神話の体系に組み込まれて、奇妙な中空的存在となったのか?
日本人の心の深層が形成される過程や経緯を解き明かすカギが、壱岐の月読神社にはあるのかも知れません。
夜8時。堺の新金岡駅から自宅に向かって歩いていると、地面を丸い半透明の物体がころころと転がってきて、「なんやこのカプセルみたいのは?」と思っていたら、風もないのに、ふっと地面から浮き上がりまして。
「え?シャボン玉!?」
と思って、よく見てみると、しかし、どう見てもシャボン玉ではなくて、「半透明の丸い物体」とでしかいえないもの。地上1メートルぐらいのところを、ふわふわと漂いながら、ぼくの横を通り過ぎて、去っていきました。
…なんや、あれ?
自分でいうのも何ですが、ぼくは理知的な男で、こういうオカルト的なものは信じません。信じないけど、よくこういう現象には遭遇したりします。面倒なんで、いつもは記録したりしないんですが(こういうことばっか言ってると変な男だと思われるので)まぁ、たまには記録しておきます。
ちなみに昨夜は一滴も飲んでませんよ(笑)
式内社(名神大)。出雲国一宮。官幣大社。勅祭社。別表神社の出雲大社に正式参拝させていただきました。写真は古代神殿心御柱。