「文字」を手に入れたことで、ぼくらは堕落した。偉大なる口承文学の系譜。『古事記』を滔滔と語った稗田阿礼の神聖なる荘厳さは、もはや日本民族にはない。言葉には魂や霊が宿る。曰く言霊。この言霊の信仰は、中世よりも古代、古代よりも上古人に色濃くあった。稗田阿礼はすべての神々の名前を、先祖の記録を、いつなんどきでも口承で再現しえたに違いない。言葉をひとつでも間違えれば、神は神でなくなる。先祖は先祖の地位を失う。神や先祖と、我々をつなぐものは、ただ言霊だけだった。その名は一言一句も間違えることは許されない。また、そこには声色やメロディーや調子やリズムもあったに違いないのに、そうした言霊は「文字」によって代替されることによって、永遠に歴史の彼方にロストされてしまった。失われたものは、あまりに大きい。
「文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない」
中島淳『文字禍』より
文字は影。もちろん美しい影もあるけれども。
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ようやく桜が咲きはじめたと思ったら、この嵐。花に嵐のたとえもあるぞ。さよならだけが人生だ、ってか。
いや、しかし、桜の花弁は、散る時がくるまでは決して散りません。嵐がやってきても耐える。じつは意外にも、桜はしぶとい花なんですな。したたかといってもいい。「散り際がいい」なんていって桜に心情を託すのは人間さまのご都合ご勝手。桜をみて泣こうが喚こうが、売文屋が「屍体が詰まっている!」なんて告発しようが、桜はそんなことはまるで知らない。
そう。桜は桜。桜は桜を演じない。だから美しい。愚かしくも美しい。白痴のように美しい。
取り留めのない呟き。これすらも桜にはまったく関係ない話。永遠の平行線。それが桜と人の詩。
ムラビンスキー指揮、レニングラード交響楽団によるニコライ・オフシャニコ・クリコフスキーの交響曲21番。チャイコフスキーとロッシーニとモーツァルトとドビュッシーを足して4で割ったような世紀の傑作!
いやあ、最高ですなww
AAF事務局から「アサヒ・アート・フェスティバル2012 ネットワーク会議」のチラシが届きました。4月14日15日にキックオフミーティングを公開で開催。ぼくも参加します。関東の方、よろしければご参加を!アサヒ・アートスクエアでお会いしましょう!ww
昨日、いよいよ大阪あそ歩2012春がスタート!まずはプレ企画で中之島公会堂にて「大阪あそ歩特別講演会」。80名定員のところ、100名以上の方に集まって頂きました。感謝!
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むかしの人は「千軒あれば共過ぎ」といったとか。ひとつの集落に、1000軒ほど家があれば、他に依存しなくても、自立的にその集落は生活がなりたっていくという言葉です。核家族社会以前の言葉ですから1000軒いうたら5000人ぐらいでしょうか。それぐらいの人がいれば、寺(氏寺)や神社(氏神)をひとつぐらい保持できて、祭りができて、店が並んで、商人、職人の商工業が成り立って、芝居小屋ができて芸人なんかも暮らしていける。コミュニティが循環して生き生きと活動できる最小単位。「共過ぎ」はまた「友過ぎ」とも書いて、これは人口5000人ぐらいのコミュニティであれば、なんとなく顔が見える関係性で、日常的にふれあいが生まれて、ともに助けあって、ともに楽しむ人間関係が構築できる・・・友人として一緒に生活していくことが出来るという意味も込められているらしく、これまた考えさせられる言葉ですな。「コミュニティ」(または何かの企画、プロジェクトをやる場合)の範囲。規模感の設定の問題。経済的なものさし(儲かる儲けるということ)ではなく、コミュニティの充実度やクオリティ(友達を増やすとか仲間になる)ということを目的、維持しようと思うのではあれば「千軒」(5000人)というのはひとつのキーポイントだと思ってます。
税務署に電話したら「あと源泉所得税の納期の特例の承認に関する申請書兼納期の特例適用者に係る納期限の特例に関する届出書が必要ですね」とサラッといわれる。
源泉所得税の納期の特例の承認に関する申請書兼納期の特例適用者に係る納期限の特例に関する届出書。
他に言いようがないんやろか・・・。