【自転車利用環境向上会議in名古屋】いわき時空散走は陸奥と寺澤が分科会に登壇して、いろいろとお話させていただいた(ほとんど寺澤事務局長)んですが、サイト上で補足資料も公開しております。
https://www.jcc-nagoya.jp/
画像は、その一部を抜粋してご紹介。
いわきは驚くほど「クルマ依存率が高い都市」です。中核市レベルではなんと「日本一のクルマ依存の都市」だったりします。逆にいうと日本で最も「自転車利用が低いまち」「自転車に乗っている人が少ない都市」のうちのひとつです。実際に国土交通省さんのデータでは「いわき市の自転車分担率は3パーセント」という衝撃の数字が今回の名古屋会議で示されてました。正直、のけぞりました…。
そんな「日本最下位レベルの自転車利用者が少ない都市」のいわきで実施されているいわき時空散走なんですが、これが毎回、春と秋のフェスでツアーを告知、募集開始すると、あっというまに予約申し込みが殺到して、全ツアーが満員御礼になるぐらい凄まじい人気です。キャンセル待ちがでたりする。
しかもツアーの参加する人の7割が「いわき市民」。「普段、自転車に乗っていない、自転車利用していない人が、なぜかいわき時空散走には参加する(自転車持ってないからレンタサイクルで参加する!)」という魔訶不思議な現象が起きているわけです。
要するにいわき時空散走のツアー参加者はサイクリストではない。いわき市民。いわきのまちの人たちが、コミュニティの人たちが、時空散走に参加して、自転車ツアーを楽しんでくれている。
そもそも僕はサイクリストではないし、「まち歩きのプロデューサー」をずっと、かれこれ20年ほどやってきた人間です。だから、まち歩き=コミュニティ・ツーリズムの方法論といいますか、それに関しては、それなりに過去のノウハウの実績や蓄積があるわけで、それをサイクル・ツーリズムに導入してみたわけです。そうすると、以上のような素晴らしい成果が出てきた。「自転車によるまちづくり」の新しい形、先駆、パイオニアになると、ぼく個人は思っています。
最近はいわき時空散走の参加者で「自転車に目覚める」という現象が起こってきてまして。「自転車を買いました!」「電動自転車を買いました!」という方も増えてきています。めちゃくちゃ嬉しい現象です。こうして、徐々に、自転車乗りが増えていってほしい。ぼくはいわきを日本有数の自転車のまちにしたいのですよ。いわきが自転車のまちになれたら、日本全国どこでも、自転車のまちになりますから。それは一種の人流の革命です。
現状は、いわきの自転車環境は、ほんまに大変なんですが、しかし逆転の発想といいますか、「自転車分担率が3%」ということは、ある意味「自転車の魅力に気づいていない人が、いわきには97%いる」ということです。この97%を掘り起こしていけばいい。
そのためには超・初心者用の、短くて、難しくなくて、簡単で、容易で、便利で、ラクで、楽しくて、おしゃべりして、食べて、お友達ができて、面白い、お喜楽なサイクル・ツーリズムが必要で、それがいわき時空散走だったということです。
この、いわき時空散走のスタイルは我々だけで占有しようとか、これっぽっちも思っていません。日本全国各地の自転車、まちづくり、観光、行政関係のみなさんに知ってもらいたいし、ぜひともパクってもらいたいと思っていますw
それで、どうしたらやれるのか?という方のために、作られたのが「時空散走憲章」です。コミュニティ・サイクル・ツーリズム、時空散走の仲間に、ぜひともなってください。一緒に盛り上げていきましょう。
【東京七墓巡り復活プロジェクト】ジャーナリストの饗庭篁村がなぜ東京七墓巡りをやろうと思い立ったのか?は謎ですが、彼は劇作家でもあり、近松門左衛門の浄瑠璃作品にも当然、通暁して造詣が深い。
実際に明治29年(1896)に『近松時代浄瑠璃』を校訂しているが、その中には大阪七墓巡りをモチーフにした『賀古教信七墓廻』が収録されている。これは僕の勝手な想像だが、もしかしたら篁村は近松の七墓作品に感化されて、東京七墓巡りを思い立った…という可能性もなきにしもあらずだろう。
ただ近松作品で七墓巡りの風習を知っていたとしても、なぜ、それを実施したのか?の確かな動機まではわからない。しかし、いろいろと当時の時代背景などを調べていくと、じつは篁村が東京七墓巡りを実施した明治22年(1889)の東京は、いろいろとエポック・メイキングで、激動の年であったことがなんとなく推察できる。
まず最も大きな出来事としては同年2月11日に本邦初、東アジア初の近代憲法である「大日本帝国憲法」が発布されている。欧米列強諸国と対等の関係を築くために近代国家としての礎である近代憲法の制定と発布は明治政府の宿願であり、それがついに成されたのが、じつは東京七墓巡り実施の年なわけです。
このときは東京中が祝賀ムードのお祭り騒ぎで、憲法の発布式では明治天皇の眼前で初めて「万歳三唱」(ここから万歳三唱が広く人口に膾炙する)が行われ、臣民(国民ではなかった)も猫も杓子も「ケンポーケンポー」と宣ったらしいが、肝心の憲法の中身については大部分の人はよくわからずで、知らなかったという。中身もわからないものを、意味もわからずに、ありがたがってる帝国臣民どものアホさ加減ったらない!とジャーナリストの宮武外骨なんかは当時の世相を痛烈に批判しております。さすが外骨。
こうして訳もわからずに近代国家への道をひたすらに突き進んでいく時代的潮流の中にあって、しかしそれにちょっと竿を挿すような面白いイベントも催されていて、それが同年8月26日に寛永寺(徳川将軍家の菩提寺である)、上野恩賜公園で開催された「江戸開府300年祭(東都徳川家康入国開府300年祭)」。
文字通り徳川家康が江戸に入った年(1590年)を褒め称えるべし!と前島密ら旧・幕臣を中心とした「江戸会」が企画したもので火消しの梯子乗り、猿若狂言、吉原芸妓や新橋芸妓による手古舞、鍵屋の花火など、アナクロニズム的だが、古き良き江戸文化の一大祭典であったという。
こうした古式ゆかしい「江戸万歳!」の祭典が実施された背景には、近代東京の目覚ましい発展ぶりと、それに反比例するかのように、急速に失われ、忘れさられつつある江戸文化への憧憬、追想、回顧の時代精神も併存していたのだろうと思わされる。とくに近代東京を苦々しく思っていた旧・幕臣たち(要は負け組である)には屈折かつ鬱積した感情が渦巻いていたことだろう。
饗庭篁村という人は安政2年(1855)の生まれで明治維新(1868)のときは13歳。江戸時代の人は5歳ともなると丁稚奉公(大人の仲間入り)していたというぐらい社会的に認められていたが、13歳の篁村は10代の多感な若者でありつつも、また社会人(実際に日本橋の質屋で丁稚奉公していた)であり、ちゃんと「江戸」を知っていたと言っていい。
また質屋の主人が芝居好きで、篁村は聡い丁稚であったので、よく可愛がられて芝居などにも御相伴で付き添ったという。また主人所蔵の本、書物なども自由に読むことを許されたそうで、この恵まれた日本橋丁稚時代に篁村は芝居修行、文学修行をして、のちに文筆で身を立てていくさいの一助となった。
篁村よりも一回りほど下の世代…夏目漱石(1867年生まれ)や幸田露伴(1867年生まれ)、尾崎紅葉(1868年生まれ)となると、やはり「江戸」を知っていたとはいえない。彼らは東京の、近代日本文学の作家である。
しかし篁村は違う。篁村の面白さは、僕が思うに「最後の江戸文人」であることで、「江戸」にこそ自分のアイデンティティや立脚点があるという自尊や矜持を持っていたのではないだろうか。
実際に篁村が選んだ東京七墓巡りの故人が江戸文化の花形で粋人すぎるんですな。新井白石、平賀源内、四世鶴屋南北、葛飾北斎、山東京伝、十返舎一九、安藤広重、五世坂東彦五郎。これでもか!というほど超大物で、篁村が「江戸万歳!」と叫んでるかのような高揚を感じます。
篁村が東京七墓巡りを思い立って上野・寛永寺の観音堂で「根岸党」の文人仲間たちと話し合って東京七墓巡りの偉人を決定し、実際に巡り、その記事を読売新聞附録に発表したのが10月2日です。
2月11日 大日本帝国憲法発布
8月26日 江戸開府300年祭
10月2ニ日 東京七墓巡り
すべて明治22年(1889)のこと。まさに疾風怒濤。明治はオモロイなあ。Sturm und Drang!
※…というわけで東京七墓巡り復活プロジェクト2025は明日ですw 現在10名ほどの参加者がいます。飛び込み参加も大歓迎!ぜひとも〜( ´ ▽ ` )
【いわき時空散走】いわきでリサーチしていると驚くのが「あちらは泉藩だから」「あそこは笠間藩だから」と藩領で話をする古老、長老がそれなりに、ごろごろ、いはることw
日本も近代国民国家を始めて150年ぐらいになりますが、なんせ幕藩体制時代は270年続きましたから。まだまだ土地や共同体や人の意識、無意識に、幕藩体制時代の名残り、影響、作用は強くあるようです。
いわき市誕生の「14市町村(5市4町5村)合併」も凄いんですが、また幕藩体制時代のいわきがこれまた複雑怪奇で。幕末時では平藩、湯長屋藩、泉藩、幕府領(小名浜領)、棚倉藩、笠間藩、多古藩、飯野八幡宮領、旧窪田藩領などがあったことが資料で確認できます。
仙台藩(伊達)、米沢藩(上杉)、会津藩(松平)、水戸藩(徳川)のような大藩で地域がまとまっていたら話はわかりやすく、それなりに藩の特性、性格、ベクトル、イデオロギー、カラーも統一的になりますが、いわき地方は継ぎ接ぎ、チグハグ、飛び地だらけ。まったく、そこに、統一性など、ないw
東北の藩といえば戊辰戦争の悲劇で「そうだオレたちには奥羽列藩同盟の固い絆があるじゃないか」と思うんですが、これがまたいわきの場合はグラデーションがありまして…。笠間藩なんかは新政府軍側についておりますし、小名浜領民(幕府領で幕府は遠いので結構、地元民の自由裁量があったようです)は新政府軍を手引きした…というような話もあります。結局、まとまらないw
もともと戦国時代にいわき地方を収めた岩城氏という中世からの豪族がいるんですが、この岩城氏があまり強権的な武家ではなかったようです。どちらかというと小競り合いをして、テキトーなところで手打ちして、外交やら政略結婚(伊達や佐竹とも親戚です)やらで地域を取りまとめていった。合従連衡的に地域の豪族たちが繋がって、それでいわきをまとめたというような調整型で、交渉型で、賢い武家ともいえます。
だから江戸時代にも、いわきには大藩がなかった。大体、戦国時代の地方覇者が、江戸時代の幕藩体制下となると外様の大藩の支配者となりますから。岩城氏(関ヶ原で日和見して家康から領地没収されたんですが…)は伊達氏や佐竹氏、上杉氏のような巨大な権力者ではなかった。
中世の岩城氏の分権的統治。近世の小藩乱立。近代の14市町村。いわきは、いつの時代も、基本的に、バラバラであったといえますw
いわき時空散走は、いわきの百花繚乱の文化、歴史、物語を伝えるものですが、そのマトリックスは、たぶん、これです。強い巨大な権力が、あまり、この地には君臨しなかった。それがゆえの、いわきのカオスモス。自由。
【いわき時空散走】1966年、いわき地域の14市町村(5市4町5村)合併。これでいわき市は日本一広い市(合併当時)となった。
「新産業都市を作る」という国主導の地方行政改革のプロジェクトで誕生したんですが、よくみると郡境(双葉郡)を越えて合併していたりもする。時代ですなあ。とんでもない規模の合併やな…と思いますが、このカオスモスぶりが、いわきの面白さ。醍醐味。凄さ。
いわき時空散走は日本初のコミュニティ・サイクル・ツーリズムで、それぞれのコミュニティ(地域、まち、集落)の歴史、文化、物語を伝えようとするプロジェクトです。そのために、いわき市内30ヵ所で時空散走マップを作成しようと動いています。
来年2026年のいわき市は市制60周年。いわき時空散走のような全史的な取り組みが誕生して、それぞれのエリアのみなさんに、めちゃくちゃ好意的に受けとめられているのは、非常に興味深いことではないでしょうか?
ニッシーのご案内とご紹介で阿賀町役場にいき、いわき時空散走と歌垣風呂について説明。その後、新潟市役所も訪問して、まちなか観光の担当者の方に、いわき時空散走について話をする。ありがたいことに反響は良かったと思います。嬉しい( ´ ▽ ` )
福島も新潟もやたらめったら広い。広いからどうしても車社会になってしまう(いわき市は日本の中核市の中で最も自動車依存率が高い都市です)。しかし時速50キロ、60キロみたいなスピードで車移動をしていたら地域、地元、ふるさと、コミュニティなんかまったく見えてこない。わからない。何も知らない。それで「自分のまちには何もない」なんてことを平気でいってしまう。
まちの歴史、文化、物語、魅力に触れないから愛郷心が寛容されず、「地方には何もない」なんていう哀しい若者になり、だから都会に出ると、自分のふるさとに帰ってこない。車社会の弊害、悪影響は地方都市の人口流出の問題なんかにも繋がっています。
こういう地方都市の車社会偏重、重症的な車依存の構造から脱却するためのツール、手段として自転車(電動自転車)という交通インフラの整備と普及は必須、当然であるし、「地方都市×自転車」という組み合わせは、時代の要請もあれば、地方都市再生のキッカケ、一助になると僕個人は思ってます。
地方の衰弱こそが日本の衰弱です。なぜ僕がいわきやえびので時空散走、自転車観光、コミュニティ・サイクル・ツーリズムをやるのか?というのも、そうした社会課題への挑戦です。
ずっともうかれこれ18年ぐらい僕は大阪で「大阪の人が大阪のまちを歩く、楽しむ、遊ぶまち歩き、地産地消の観光、内需の観光、コミュニティ・ツーリズムをやりましょう!」といって実際に実践もしてきましたが、維新政治でコミュニティ・ツーリズムのプロジェクト(大阪あそ歩は観光庁長官表彰も受賞して、大阪は日本でも有数のコミュニティ・ツーリズムの都市になる可能性はあったのに…)は予算ゼロになって僕はめでたく卒業(失職だけどw)になったし、その後、大阪市政は完全にインバウンド観光に振り切ってカジノ万博を開催して、もうまちなか、道頓堀なんかにはほんまに日本人がいない。歩いていない。インバウンド客だらけで道頓堀はジェントリフィケーションの問題がおこり(松竹座閉館もその流れやないですかね?)、オーバーツーリズム、観光公害の実態や危険性にようやく少し気づき始めて「あれ?これ?まずくない?」というのが一般の方々にも周知、認知されるようになってきた…かな?まだ、この外資依存、外需頼みの路線、続けますか?日本の内需やら地産地消を成長、促進させる方向に社会を、経済を、産業を転換しませんか?
まあ、僕は、愚直に、実直に、淡々と、大阪で、まち歩きし続けますよ。大阪でのまち歩きは、もはや僕なりのレジスタンス、引かれ者の小唄、滅びの美学であります。
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インバウンド政策に市民の怒り「自国民は置き去り」「効果感じられず」 経済専門家が「観光立国は無理」とする決定的理由(AERA DIGITAL)
https://news.yahoo.co.jp/articles/6e257f40b8bb2d3a17422f0e997cc5dbd8a1bc63
https://news.yahoo.co.jp/articles/6e257f40b8bb2d3a17422f0e997cc5dbd8a1bc63
■「観光立国」は成り立たず
経済のプロはどう見ているのか。作家で社会的金融教育家の田内学さんはこう指摘する。
「経済の視点から見て、観光立国は成り立ちません」
なぜなのか。そのボトルネックは「人手不足」だという。
背景から見ていこう。日本は衣食住に欠くことのできない資源の多くを輸入に頼っている。エネルギー自給率は15.3%(2023年度)。食料自給率(カロリーベース)も38%(同)にすぎない。
「外国からエネルギーや食料を購入するためには外貨が必要です。では、どうやって外貨を稼ぐのか」(田内さん)
■観光産業には「労働力」が必要
現在、日本は資源エネルギーの輸入にかかる約24兆円の大半を、自動車の輸出(約20兆円)で賄っている。一方、家電メーカーは衰退し、稼ぎ頭だった家電や電子機器の輸出は世界でシェア争いに敗れ、低迷している。
さらに少子化が進み、どの業界も慢性的な人手不足だ。できるだけ少ない人数で、効率よく外貨を獲得する必要があるが、観光産業は労働集約型で、人間の労働力を多く必要とする。
「観光産業が大きくなれば、さらに人的リソースが必要になり、人手不足がさらに深刻化します。すでに観光産業に人材を吸収されて、観光地では介護などの分野でサービスが受けられないことが起きています。別の方法で外貨を稼がないと生活基盤が支えられなくなる」(同)
■日本経済は成長するどころかしぼむ
日本は資源エネルギーだけでなく、デジタルサービスも海外から購入し、貿易サービス収支は慢性的な赤字になっている。
「人手が足りない中で、外貨を効率よく稼ぐには先端技術に力を入れる必要がある。もちろん観光産業での外貨獲得も必要だが、それで“立国”するのは無理がある。日本経済は成長するどころか、しぼんでしまうでしょう」(同)
状況は厳しい。いま、世界を席巻するのは、グーグルやアマゾンのようなプラットフォーム企業で、少ない人数で多額の外貨を得るビジネスモデルの典型だ。
「寡占状態のプラットフォームビジネスにこれから打って出て、収益を上げるのは困難でしょう。だからといって『観光立国』という戦略は根本的に間違っている」(同)
■人手不足の実感が政治家に希薄
なぜ、日本は観光立国に突き進もうとしているのか。
「数十年も前の人が余っていた時代に慣れてしまい、『人手不足』の時代にいるという実感が政治家にはないのでしょう。かつての前提条件で思考する人は、専門家も含めて少なくないと感じています」(同)
田内さんはこう総括する。
「観光立国で、確かに一部の産業に『光』はあるとはいえます。それ以上に『影』が濃いのです」
国民は「観光立国」が落とす深い影を、肌身で実感している。
次から次に「場」(トポス)を作る人はいるが維持が大変で。僕はハード的な場作りではなくソフト的な「型(エトス)作り」を考えた。それがまわしよみ新聞などの一連のコモンズ・デザインです。多種多様な人的交流を促すコミュニケーション・ツール(型)が「場」を活性化させる。
日本経済新聞から。日本人は中学、高校までは世界的にも知的レベルは高いらしい。しかし大学で停滞し、社会人になると、どんどんと知的レベルが世界水準よりも低下していくという。
どうも日本人の大多数は社会に出ると…会社で働いたり、家庭を持ったりすると、途端に仕事や生活、子育て、親の介護などに追われてしまい、学びの機会がなくなる。また会社側や社会側も多くの社会人に対して、そうしたリスキニングやリカレントの機会や場、時間を提供、準備、用意していない。
以下は僕の実感で、この記事にはないんですが、実は会社をリタイヤしてから、子育てが一段落してから、シニア世代になってから、また学びだす人は多い気がしています。
実際に僕は生涯学習、カルチャーセンター、市民大学系の仕事をあちらこちらでしていますが、30代〜50代の人は、まあ、ほぼ、来ない。ゼロに等しいです。その代わり60代以上のシニア世代はめちゃくちゃ多い。70代80代、なかには90代でも参加という方もいる。
そういったシニア世代の「学び直し」への意欲の高まりには正直、驚かされます。めちゃくちゃ学習、勉強をすることに熱心で、興味関心が高く、僕も講師をやっていて、自然と力が入る。講義を受ける側が前向きだから、僕も手を抜けない。本気になります。だから面白い。
ただ、シニア世代の、そのちょっと「異様」なまでの学習意欲の高まりの背景、裏側には、ある種の「渇望感」「飢餓感」を感じたりもします。つまり人生の最盛期、キャリアピークである30代〜50代(古代インド人がいうところの「家住期」)に「学びの時間を持てなかった」「学びを奪われてきた」という後悔や欠落を感じるんですな。
海外の市民講座や生涯学習、カルチャーセンターは30代〜50代の現役世代が大半なんだとか。そうやってリスキニングやリカレント、学び直しの時間があることで自分の人生設計も自然と変容していく。
自分の中に新たな才能や得意分野を発見して、それをさらに追求したり、研鑽を積むことが可能となる。そこから学問的、アカデミックな業績に繋がったり、社会的な活動を始めて、副業や転職、起業したりなんてことも往々にしてあるとか。
大体、10代20代で、自分の将来、仕事や職業を規定するなんて、あまりにも無謀すぎまっせ。それが自分の性質、性格、特性、パーソナリティと合致しているなんてわからないし、むしろ不一致であることの方が多いでしょう。
そういったさいにもう一度、「学び直し」ができる環境、再チャレンジが許容される状況にあることが、どれだけ社会的に有用で、大切であることか。
日本人のシニア世代の学習意欲の高まりは素晴らしいことですが、惜しむらくは、学んだことを、なかなか社会的な活動や貢献に繋がることは難しいということです。体力的に、健康的に、年齢的に、どうしてもそうなります。
基本的に、だから、シニア世代の学び直しは、どうしても「余暇的な学び直し」「趣味的な学び直し」になってしまう。それがダメというわけではないんですが、もっと早くに、50代に、40代に、30代に、生涯学習やカルチャーセンター、市民大学などに参加していれば、人生にまた違う彩りが、豊かさが生まれていたかもしれない。
シニア世代の受講生が、みんな口癖のように「もっと早くに学びたかった」とほんまにいうんですよ。みなさんも惜しいんですな。「しまった!」と思っている。僕もそう思います。早くに受講の機会があれば、いろいろと可能性があったかもしれない。実に惜しい。
30代や社会人になってから、学び直しの機会がないこと。リスキニングやリカレントに参加する社会人が圧倒的に少ないこと。これは日本社会全体の教育システム不全であり、重大な社会的損失です。
人生は常に学び続けないといけない。学びを辞めてはいけない。生きるということは、常に学ぶということです。学びを辞めては、止めては人生が、社会が停滞する。
学びの機会がないわけではないと思うんですよ。実は、そういったリスキニング、リカレントの場や機会自体は、いろいろと行政や民間会社によって提供されてはいる。いちょうカレッジとかいずみ市民大学とかよみうりカルチャーとか毎日文化センターとか、いろいろあります。全部、僕が講師してるところですがw
そこに参加する人がシニア世代ばかりで偏ってしまっている。30代〜50代の現役世代がどうしても少ない。いろいろと生活やら暮らしで忙しいというのはわかりますが、やっぱり、これ、勿体ないことです。
社会全体に、学びのキャパシティが担保されていない。かなり憂慮すべき現代日本社会の事態ではないかと思います。いや、ほんまに。
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◾️ 日本人の知力、24歳で頭打ち 「学べぬ大人」手薄な支援
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE054IG0V01C24A2000000/
【学事出版】新刊『読書活動・探究学習を支援する 学校図書館を活用した楽しい読書ワーク』(木下通子編著)を木下さんよりご恵贈いただきました。ありがとうございます!
興味深い読書ワークがいろいろと収録されていますが、その中に「まわしよみ新聞」もご紹介されております!うれしいな~^^
教育関係者や図書館関係者のみなさん、ぜひともご購入ください~!m(_ _)m
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■読書活動・探究学習を支援する 学校図書館を活用した楽しい読書ワーク
https://www.gakuji.co.jp/book/b10136442.html
「日本人ファースト」の裏側には「自分たちこそ冷遇され、無視され、差別されてきた」というルサンチマン的な憤怒、怨嗟の感情があるのは否めないでしょう。
実際に「日本人ファースト」を支持しているのは40代、50代の世代らしく、この世代は、まさしく就職氷河期で、ずっと苦しめられ、棄民され続けてきた世代です。バブル崩壊後の1993年~2004年頃に就職活動を行った人たちで、全国では約1700万人ほどいるとか。
何十社と面接を受けるが落ち続けて、ようやく就職できたと思ったらブラック企業でパワハラの被害者になったり、非正規労働、派遣労働者になるしか方法がなくて雇用は安定せず、また雇止めやらで正社員にはなれずに、生活は非常に厳しい。精神的な疾患を抱えたり、ひきこもり、自死、自殺なども多い世代です。
僕自身が1978年生まれで「大卒就職率が60%もなかった」という世代ですから。僕は生まれた家がカルト宗教の家で、親・親戚との関係をこじらせていたから、もう中卒で進学などはせずに16歳から働いておりましたが、知人、友人たちは大学までいったのに卒業後40%が最初から派遣労働やアルバイトやったわけで、本当に今では考えられないぐらい酷い状況であったなぁと思います。キャリア形成の第一歩から既に躓いている。僕は、そういう世代の、まさしくド当事者なので、正直、めちゃくちゃ同世代の人間が抱える「生きづらさ」は、肌感覚でわかっているつもりです。
ただ、じつは「世代格差の問題」というのは、その世代の真っ只中にいると、なかなかわからない。自覚できない。なんせ本人としては他の世代を生きたことがないので比較することができないんです。「与えられた土壌の中で咲くしかない」といいますか、「世の中そういうもんなんやろう」という諦観があるわけです。
しかし、どうも自分たちの世代は不遇で、不運で、不当に扱われて搾取され続けてきたらしい…という「世代間格差」問題への自覚が芽生えてきたのは、じつは、ここ数年のことではないかと思います。そして、そういう問題意識を覚醒させたのが、そのキッカケとなった一因が、僕が思うに海外からの観光客、インバウンドという「目に見えて裕福そうな外国人の存在」ではないか?と思うんですな。
日本が経済的失政(消費税を上げて法人税を下げる)を繰り返し、わずか30年で坂道を転がり落ちるかのように没落していき、すると外国人から「日本は安い」と大量に海外からインバウンドがやってくるようになった。
それは日本の政治家や官僚、大企業などによる政治操作、経済的失政の影響なんですが、人間というのは、そういう経済やら政治やらというような目に見えないものの問題はなかなか認知できません。それよりも目の前にあって、わかりやすくて認識しやすい存在の問題に先ず飛びつくし、囚われる。
とくに幸福そうで裕福そうで経済的に繁栄を謳歌している中国、韓国、アジアなどから日本に来る「同世代」や「若者たち」を見て、その爆買いの様子なんかを見て、観光地に大量に群がるオーバーツーリズムの状況をみて、就職氷河期世代の40代50代は「なぜ自分たちはこんなに貧しいのか…」と比較してしまったのではないか?
「日本人ファースト」という言葉に共振、共鳴、共感する裏側には「日本は日本人ファーストではない。外国人ファーストである」という被害者意識があります。自分たちの生きづらさの問題、自分たちを追い込んでいる「敵」として、「外国人」が「認知しやすくて、わかりやすい」存在だったのではないか?
他者と比較する人間ってのは、大抵、不幸になります。他者、他人と比べて「上だ」「下だ」とかいって一喜一憂する人間は結局、自分の中に価値判断基準がないんです。自分の存在価値がわからない。アイデンティティをロストしていて、自己肯定感がない。
そういう自己肯定感が少ない人間、ない人間が、大量に溢れかえっているのが現代日本社会ということなんでしょう。それは本人の資質や性格もあるかもしれませんが、やはり置かれてきた環境や社会状況などが影響していると僕は思ってます。それが就職氷河期世代を棄民してきた日本政治、日本社会に対する復讐、報復のマトリックスになっている。
棄民されたものが、棄民する。差別されたものが、差別する。不幸の再生産です。こういう不幸の連鎖を、なんとか断ち切る社会にしないといけない。
排外主義者を生み出すような社会は、結局、どこか歪なんです。その歪さをちゃんと把握し、認識しないと、我々の社会は、よりよいものに、先に進めることはできません。