【福島県】一般社団法人Tecoさんからのご依頼で、今回のいわき滞在中に、いわきの中央台公民館にて人材育成セミナーを行いました。
まち歩き観光=コミュニティ・ツーリズムの方法論を用いることでコミュニティ(まち)のことを知り、語り、聞き、考える人が増えて、そこから自然発生的にコミュニティ作り(まちづくり)が始まりまっせ…といったようなお話。
一過性のうろんで無責任で身勝手な大衆=観光客を相手になにかをやるというのは大変です。なんせうろんで無責任で身勝手だからw そういう大衆(マス)の集客(観光客)を増やそうとするのがマスツーリズム(大衆観光)。数こそ正義、売上こそ正義であり、マスツーリズム=マスビジネスですな。
そういう観光客を集めるためには、わかりやすいキャッチなパッケージをしないといけない。大阪なら「YTT」(たこ焼き、吉本、タイガース)とか奈良なら「鹿と大仏」(せんとくん)とか。一種のコマーシャリズムに陥るわけです。大衆を扇動するための単純で単細胞で短絡的な観光戦略。
だから、まちなかにある伝わりにくい情報、文化、歴史、物語などは切り捨ざるを得ない。本当にまちにとって、地域にとって、コミュニティにとって大切なこと、大事なことというのは長くじっくりと誠実に伝えていかないといけないものなのに。
また、そうやって「わかりやすいパッケージ」で1回は大衆を呼ぶことに成功しても、なんせ大衆は移り気ですから。2度3度と果たして来るか?リピーターになってくれるか?といわれるとなかなか難しい。大体「去年、OSAKAいったから今年はTOKYOに行こう」とか「日本はいったから次が中国にいこう」となりがちです。残念ながら。
一過性の大衆を相手に何かビジネスをやるというのは、基本的には大変で、不毛であります。そういう観光客相手だけに地域を切り売りするを繰り返すと本当に地域は衰弱していくし、消耗しきってしまう。悲しいことに、いま、日本全国各地で、そういう短絡的で切り売り的な観光戦略で消耗、衰弱しているまち、都市、地方があちらこちらに見受けられます。
この手の不毛な観光振興、観光戦略へのアンチテーゼといいますか、そういう外需、大衆頼みの観光ではなくて、「内需の観光」「顔が見える相手(身内)と一緒に観光をやりませんか?」というのが、まち歩き観光であり、コミュニティ・ツーリズムです。
いわき時空散走は、いわきのサポーターが、いわきの参加者と一緒に、いわきのまちを自転車で巡って、いろんないわきの文化、歴史、物語を楽しむ。まさしく「地産地消の観光」です。
だから、いわき時空散走に参加する人たちは、一過性の関係に終わりません。ツアーに参加してサポーターさんと話をしたり、参加者と知り合いになると、そこからいろんな交流が芽生えます。
「あ。〇〇さんの知り合いですか?」「〇〇先輩とご親戚なんですね」といったような「友達の友達」「知り合いの知り合い」「遠い親戚だった」というような意外な関係性の発見、確認があったりして、そこから知人、友人としての、ちゃんとした人間関係が始まります。「地縁のもやい直し」です。
サポーターも参加者も同じいわきの人で、住んでいるのもいわき市内だから、ツアーが終わってからも、また別の何かの機会に会ったり、イベントで遭遇したり、企画を一緒にやったり…なんてことも起こったりします。仲間になっていくし、同志になっていく。
こういうのは、同じいわき市内の人と一緒にまちを巡るから生まれてくる派生効果です。仮にヨーロッパの観光客がいわきに来てくれても、そこから永続的で、恒久的で、日常的なおつきあいというのはなかなか難しいですから(絶対にナイというわけではないですが…)。
コミュニティ・ツーリズムは外需ではなくて内需喚起です。大衆ではなくて身内を相手にします。地産地消の観光だから、コミュニティが活性化していく。いわき時空散走を見てください。凄い勢いで、いわきのまちのプレイヤーたち、関係者が繋がっていくし、新しい地域活性化のムーブメントが発生していっている(田部君子フェスなんかはそのひとつの証左でしょう!)。
■田部君子フェス
https://jiku-sanso.jp/event/229/
間違った観光戦略で疲労、消耗していく地方が多い。それは観光の方向性、ベクトルが間違ってます。
「觀國之光利用賓于王」
國の光を觀る。
もって王に賓たるに利し。
國(コミュニティ)の光(長所、特徴)を觀よう。「觀」というのは「雚+見」と書く。そこを訪れて実見して、いろんな意見を語りあおう(雚=にぎやか。二羽の鳥が語り合っている)という意味です。そして、そういうことをする人こそが王(コミュニティを治める人)の賓客(ブレーン)になれる。まちづくりの優秀なプレイヤーになれる。
いわき時空散走、コミュニティ・ツーリズムはそのために行います。観光は、まちづくりのための必須のアクションです。
いわき時空散走フェス2024秋、はじまってます。平ツアー、赤井・平窪ツアーも超絶楽しかった。ほんまに素晴らしい。
これは僕の個人的な反省でもあるんですが、いままでのまち歩きやツアーはガイド(講師、先生、専門家、長老、えらいひとなど)が一方的に喋りすぎました。モノフォニー(単旋律、一声性)すぎた。
当然の話ですが、まち(コミュニティ)はガイドだけのものではないですから。みんなのものです。だから、まち歩きの参加者にも当然、まち(コミュニティ)を自由闊達に語る権利がある。
エライ先生がまちを語って、いろいろと教えてくれるもんだから、それにアッサリと上書きされてしまい、自分の口で「自分のまち」「等身大のまち」を語るという機会が奪われてしまう。とてももったいない。
参加者もまち(コミュニティ)の当事者なのだから、自分の経験やら雑談やら思い出話やら聞いた話やら噂話やらエビデンスなんかまったくない良い加減な都市伝説でも何でもいいから「わたしのまち」「わたしとまち」を語れるし、じつは語る行為によって、ようやく自分とまちとの関わり方、捉え方、関係性、認識が見えてくる。わかってくる。
その内容が歴史的事実と合っているとか間違っているとか、そういうことは一旦置いて、まず「まち語り」をするという経験によって、ようやく「まちびととしての当事者性」を回復すると僕は考えています。
まちづくりやまちおこしといった、何かまちで事を起こしたり、行動するに当たって、まず「自分こそがこのまちの当事者なんだ」という意識なくして、それらの活動は始まりません。起こせません。
だから、いわき時空散走では、参加者全員がそれぞれに、自分なりの「まち語り」をして、それを許容して、シェアするポリフォニック(多声性)なツアーにしたいと思ったわけです。なので「ガイドではなくてサポーターがいるコミュニティ・ツーリズム」のプロジェクトにしようと考えた。
いわき時空散走のサポーターは何度かいっていますが、ツアーの道案内はしますが、基本的にはツアー参加者の話を聞いたり、促したりするファシリテーターの役割です。「参加者(みなさん)自身がガイドですよ」と最初に宣言してツアーに参加してもらってます。おかげさまツアー参加者のみなさん、ようしゃべるようしゃべるw 大阪人以上にしゃべってますw
時空散走はヒストリー(歴史)だけではなくてライフ(人生)を語るツアーともいえます。思い思いに、自分たちのまちの思い出を語るのですが、そこには自ずと、その人のライフ(人生)が滲み出てくる。歴史の話はやはり少し遠いです。実感として、よくわからないところがどうしてもある。安藤信正公とか会ったこともないしw
しかし、ツアー参加者の「まち語り」は、リアルだから共感、共鳴、共振してしまう。自然とみんなが仲良くなっていく。ツアーが終われば、もう既に、そこに新しいコミュニティができあがっている。コミュニティ・ツーリズムの神髄、真価が時空散走にはあると僕は断言します。
また、いわきの人は、みんな自然と、それなりに、朧気ながらでも「わたしとまち」「わたしのまち」の「まち語り」ができるんですよ。それはやはり2011年に東日本大震災と福島原発事故があったからだろうと思います。
あの時、いわきの人(これは福島の人、東北の人全員にいえることですが)は、だれかれ問わず、等しく全員に「なぜこのまちはこうなってしまったのだろうか?」「これからわたしはこのまちでどう生きていこうか?」という問いを、眼前に、切実に、真剣に迫られた経験がありますから。
そういう経験があったいわきの人たちだから、どこの都市の人たちよりも「まち語り」ができるんだろうと僕は思ってます。それは凄いことなのです。ある意味、それこそが、いわきの可能性であるし、未来に繋がることだと思ってます。
参加者全員が「まち語り」をするいわき時空散走は、そういう意味でいえば、最もいわきらしい、いわきに適したコミュニティ・ツーリズムだろうと思ってます。いわきだから、これだけ盛り上がるんだろうとも。
時空散走フェス2024秋は、12月まで続きます。もうどのツアーも満員御礼ばっかりになってきましたが、あと1、2名ならなんとか…というコースもいくつかあります。ぜひともお早めにお申し込みください!
■いわき時空散走・イベント
https://jiku-sanso.jp/event/
※画像はリケンさんのTwitterより。いい写真やなぁ。さすがリケンさん。ありがとうございます!^^
【福島県】田部君子フェスティバルのトークイベント「田部君子をはじめて知ったとき」。いわき・小名浜出身で、いまは東京で活躍なさっている歌人の井上法子さんをお招きして、いろいろと君子の短歌についてお話しして頂きました。
君子の短歌の特徴のひとつとして場所や状況を特定するような固有名詞などは実はあまりなく、それよりも「含みのある言葉」が使われていて、それが読む人それぞれの多種多様多彩な解釈を産む余地となり、だから時間や空間(時空!)を飛び越えて君子の短歌に共感、共鳴、共振してしまうのでは?という井上さんの解説に納得でした。
含みがある言葉を使いながら、それでいて巧みに本歌取りをしていたり、言葉の音律で面白おかしく遊んでいたり、現実と虚構が交錯するような幻視的な言葉を組み合わせていたりと、君子の歌人としての天才性、その妙味や奥深さにも気づかされました。とんでもない歌人です。ほんまに。生まれた場所や時代が違っていたら、どれほどその才能が開花していただろうか…と思わずにはいられない。もしかしたら草野心平級の歌人になっていたかも知れない。そうなっていたら、いわきの文学世界ももっともっと広がっていたことでしょう。あまりに、あまりにも早逝が惜しまれる。
また個人的に、なるほど!と膝を打ったのが井上さんが「私がこの短歌を作りたかった」と君子の短歌を評したこと。これはなかなか凄い言葉で。君子との邂逅の衝撃や羨望や賞賛がありつつ、しかし井上さんの歌人としての在り方や矜持、美学のようなものも感じ取れて、いやあ、痺れましたw
いわき時空散走のリサーチで田部君子という先人を知れたのは嬉しいことでしたが、そのことがキッカケで井上法子さんという現代のいわきの歌人(井上さんはそういわれることに戸惑いがあるかもしれないですが…)と出会えたことも二重の喜びでした。また何か時空散走と短歌ワークショップのコラボなど企画したいなあと思っています。井上さん、よろしくお願いしますw
トークイベントの会場には、井上さんの高校時代の恩師や、田部君子を最初に発掘してくれた勿来関文学歴史館のみなさん、時空散走メンバーも大勢きてくれて、いろんな出会いがあったようで良い場になったように思います。本当にありがとうございました!( ´ ▽ ` )
※画像はトークイベント後の打ち上げで訪れた「漁夫」。秋刀魚と鰹の刺身。常磐もの、美味すぎる…。参りました。「漁夫」も大阪に欲しいw
大阪市立図書館さんから返却催促メールがきて明日からいわきなんで慌てて深夜1時にチャリで図書館にいって本を返却する。いや、ちゃんと返却してなかったワイが悪いんやけど。すすすすいません!
図書館がないと僕の仕事は成立しない。郷土資料の類には常にお世話になっている。貴重書も多い。マニアックなことを調べていたりするので僕が読みたい本、資料の中には1年に1回借りられるかどうか?というような本もあるだろう。ひょっとしたら10年に1回みたいな珍しい機会だったりするかもしれない。
図書館の本当の価値、凄さというのは「100年に1回しか借りられなかった」というような本が何冊あるか?だと僕は思っている。100年に1回だけの需要。100年に一度現れた、その本を読みたい!という奇特(?)な人がいて、その人のお役に立つこと。それこそが図書館の図書館たる由縁です。公共財(コモンズ)としての図書館の存在意義です。
村上◯樹の新作みたいに読みたいという人がいっぱいいて予約が殺到する本なんてのがいっぱいあることが図書館の価値ではないということです。「貸出率」みたいなことで図書館の本をセレクトするとベストセラーしか置かない無味乾燥な図書館になる。
昔、どっかのTSU◯AYA図書館がまさしくそれをやって、もはや図書館にしか置かれていないという貴重な郷土雑誌のバックナンバーを「あんまり貸し出されないから」と廃棄処分にして大問題となった。おいおい。レンタルビデオやないんやから。そういう「貸出率の低さ」みたいな数字で本の価値を測られると、とんでもない文化的損失を犯しかねない。
人類が多少なりとも他の生物よりも文明的な存在だとするならば、それはつまり文字、記録、資料、本を残しているからなのですよ。100年に一度しか貸し出されない本や資料を保存するというのはタイパ、コスパ重視の新自由主義者からしたら馬鹿らしい非効率的な行為なのかもしれないが、文字、記録、資料、本を簡単に破棄する行為は人類史への冒涜であり、歴史的愚挙であります。
焚書坑儒で秦が滅亡したように、反ドイツ主義の焚書によってナチスが崩壊したように、「本を焼く者は、やがて人も焼くようになる」というハイネの警句は達見です。
ちょっと話は飛びますが、奈良県知事(維新系)の民俗博物館の資料廃棄の検討も僕は非常に危惧しています。我々は焚書的愚行に常に抗わないといけない。それは我々自身を滅ぼすことに繋がりかねない。
【いわき時空散走】関係者、サポーター、スタッフのみなさまのおかげで、ついに公式サイトができました!本当にありがとうございます!
5つのエリアのマップも無料で公開されています。「いつでも、どこでも、だれでも自由に使っていい」というコモンズ・デザインです。マップを使って自転車で巡るもよし。まち歩きに使うもよし。学校の探求の授業で使うもよし。会社の研修に使うもよし。まちづくり、まちおこしのツールに使うもよしです。
8エリア、9ツアーの募集も開始され、予約がどんどん埋まっています。おそらく全ツアー満員御礼になりそうです。お早めにお申込みください~!^^
詳細は以下公式サイトよりm(_ _)m
■いわき時空散走
https://jiku-sanso.jp/
■四ツ倉駅:大野・玉山
忍夜恋曲者!滝夜叉姫ゆかりの地を求めて~玉山鉄道跡からいわき最大の前方後円墳・玉山古墳へ~
https://jiku-sanso.jp/area/19/
■植田駅:植田・佐糠・金山
勿来発電所の集合煙突を仰ぎ見ながら~植田宿、佐糠薬師堂を経て安寿と厨子王伝説の金山をゆく~
https://jiku-sanso.jp/area/47/
■小川郷駅:小川郷
何事かを為せ!小川郷に生まれたる者たち~ライス・キング、櫛田民蔵・ふき夫妻、草野心平ゆかりの地をゆく~
https://jiku-sanso.jp/area/49/
■赤井駅:赤井・平窪
夏井川から霊峰・閼伽井嶽薬師を望む~赤井凱旋門から鬼馬童子、からし坊主、龍燈伝説の地へ~
https://jiku-sanso.jp/area/45/
■いわき駅:城山・平
天下の名城・磐城平城から城下町・平を巡る~磐高、磐女の青春の舞台から歌人・田部君子ゆかりの地まで~
https://jiku-sanso.jp/area/32/
えびのは江戸時代、薩摩藩領であった。調べると薩摩藩の年貢率はなんと「八公ニ民」であったという。
一般的な藩の年貢率は「五公五民」で、天領(幕府領)などは「四公六民」であったから、それらと比べると薩摩藩の年貢率はベラボーに高い。辛い。苦しい。厳しい。薩摩藩の農民は当然、貧しく大変で「生活はなく生存しかなかった」などといわれるほど酷い有様であったらしい。
なぜこれだけ薩摩藩の年貢率が高かったのか?というと薩摩藩は武士が多かったからで江戸時代、各藩の武士の人口比率は全国平均では約7%ぐらいだが、薩摩藩では約30%と全国平均の4倍以上も武士が多かったらしい。
薩摩藩はやたらと武士偏重の戦闘国家(戦闘藩?)でこういう武闘派集団が官僚的、事務的、平和的(?)な幕府を倒して明治維新を迎える。わかりやすい話ですなぁ。
えびのは、やたらとタノカンサァ(田の神さま)が多い。えびの市内だけで150体以上ある。しかしこれは別にえびのだけに多いのではなくて薩摩藩領全域に多い。タノカンサァは薩摩藩内の農民たちに特に篤く信仰されたように思われる。
タノカンサァは、また神さまなのに祟らないという神さまだという。蔑ろにしたり、汚したり、蹴ったり、踏んだり、転がしたり、こどもの遊び道具にしたり、割れたり、欠けたり、盗んだり、小便をかけたりしても、決して祟らない。
恐ろしく厳しい薩摩藩の武士と、どこまでも優しく田んぼを見守ってくれるタノカンサァ。この両者は、ある意味で対称的な、シンメトリカルな存在ではないか?という気がする。
庶民の、しいたげられた農民たちの知恵であり、したたかさ、しなやかさなのかもしれない。タノカンサァは今日もトボけた顔をして、そこにいる。
今年の全国散走フォーラムのテーマは「散走の担い手」の話。
散走は「散歩のように自転車で巡る」ということを提唱した堺の自転車メーカー・シマノさんの造語です。「散歩のように」というのは僕なりの解釈では「逍遥」(=無目的にフラフラとまちを巡る)と同義であろうと思う。
そうやってフラフラとまちやふるさとを巡ることで、スローな逍遥によって、普段の日常生活では訪れない道や場所や人やモニュメントや風景や店や寺社仏閣や自然や異類や物語やらに偶然、出会い、自分のまち、わがふるさとを新発見して再確認して愛郷心、郷土愛、地元愛を涵養する…というのが散走のひとつの意義であり、醍醐味でしょう。
愛郷心、郷土愛、地元愛に目覚めたら自然と自分たちのまちやふるさとをより良くしようと考えるし、そのための活動も始める。そういう意味でいえば散走は、ある種のまちづくりであり、コミュニティのプレイヤーを育成する実践的手段ともいえます。
しかしガチのサイクリストの中には、こういった地元や地域、コミュニティ、まちづくりなどには、それほど興味関心がない層も多いとか。
どちらかというと「どれだけの距離を走ったか?」「どれだけのスピードが出たか?」「どれだけの坂を登ったか?」「どれだけのカロリーを消費したか?」といった「数値」を気にしている。自分の肉体改造であり、身体的なバロメータの上昇が目的で、散走的な取り組みや目指しているベクトルとは大分、隔たりがあるらしい。
この手のサイクリストは、だから地元の美味しい店などにも行かないそうです。大体、プロテインを購入して、それを飲みながら走るので地元のお店にお金も落ちないとかw なるほどなあ。
要するにどこでもいいから兎に角、長距離やアップダウンを走りたいという人たちということなのだろう。こういう人たちは確かに散走の担い手としては難しいかも知れない。
いわき時空散走の担い手…我々がいうところの「サポーター」のみなさんは基本的に自転車乗りではないw そもそも「普段、全く自転車に乗っていない」「自転車を持っていない」というような人も多いw
いや僕自身、基本的には「まち歩きの人」であって、いわき時空散走のプロデューサーをはじめた時には自転車を持ってないし、乗っていなかった。いまは心を入れ替えて(?)電チャリを買って大阪のまちなかを乗り回してますが。殊勝やなあ、おれ(そうなのか?)
要するにいわき時空散走の担い手=サポーターは「自転車乗り」ということよりも「その地域、地元、コミュニティで活動をしている人」「郷土愛、地元愛、愛郷心のある人」にお願いしているから、自然とそういう結果になる。
いわきは自転車乗りは少ないです。メチャクチャ少ない。圧倒的に少ない。なんせ日本で最も車依存率(79.2パーセント!)が高い中核市ですから。そんないわきで自転車のプロジェクトをやるなんてのは、はっきりいって無理、無茶、無謀なんですよ。わかりますか!?みなさん!?僕の苦労苦心苦悩のほどが?!
しかし、いわきは「郷土愛、地元愛、愛郷心に溢れて活動している人」「コミュニティのプレイヤー」はあちらこちらにいます。どこにでもいる。これはやはり2011年の東日本大震災と福島原発事故が影響しています。
あの時、福島、いわきの人たちは、みんな誰彼構わず、否応なしに問答無法で「このまちで暮らしていくのか?暮らしていいのか?どうやって暮らせばいいのか?」ということが問われましたから。「まち」や「ふるさと」の存在意義や意味が問われた。実際に、まちやふるさとを喪失し、ロストして無念にも移転や転居せざるを得なかった人もいっぱいいたわけです。
かつてない未曾有の天災と人災によって、しかし「このまちをなんとかしないといけない」「我がふるさとをどうすればいいのか?」と真剣に考え、悩み、行動し、立ち上がる人も無数に現れました。そういうまちづくり、コミュニティ活動のプレイヤーが日本でいちばん多いのが福島であり、いわきでしょう。それが福島、いわきの最大の武器であり、財産です。可能性です。
いわき時空散走はサイクル・ツーリズムであり、地産地消の観光ですが、僕は何よりもまちづくりやコミュニティ再生のプロジェクトとして捉えています。だから、そういう意味でいえば、いわきには「担い手不足」なんてことはないだろうと思ってます。むしろ素晴らしいプレイヤーがあちこちにいるという実感と予感しかないです。
実際にいわき時空散走をやりだしてまだ1年ほどですが、すでにいろんなまちやコミュニティの人から「うちでもいわき時空散走をやってほしい」とか「いわき時空散走に参加したい」という声を聞きますから。本当にありがたいことです。次々とプレイヤーが現れて、ほんまにいわきはすごいんです!とんでもないんです!
…というようなことを全国散走フォーラムの後の飲み会でクダを巻いて捲し立てておりましたw
明らかに僕は全国散走フォーラムの時よりも飲み会の時の方が良い話をしていたような気がしますが、まあ、そういうもんですよね。御相伴頂いた皆さん、クダをまいてすいませんでした!そしてありがとうございました!
いや、でも、いわき時空散走はマジですごいので面白いのでぜひとも遊びにきてください!秋にまたフェスをやりますから!
※飲み会の時の写真はないのでマジメなフォーラムの時の写真をw
#いわき時空散走
大阪市文化財協会が維新行政、大阪市によって解散させられようとしているとか。寝耳に水で驚いた。やりかねないとは思っていたが…。大阪府文化財センターと統廃合する予定という。
しかし大阪市文化財協会の仕事と、大阪府文化財センターの仕事は、方向性や性質、性格が違う。統合するとしても予算は現状維持にはならず、大幅カットされるのではないか。そうなると大阪市文化財協会にとっても、大阪府文化財センターにとっても改悪である。大阪の文化的損失は計り知れない。
残念ながら大阪は、経済的に凋落、没落の一方である。それも一朝一夕のことではなくて、遡れば戦前の挙国一致、大政翼賛体制によって東京一極集中化が国策によって強烈に推し進められた時代から、そういう流れは続いている。戦後日本も基本的に、そうした東京一極集中化路線(東京は頭脳、地方は手足に過ぎない)を踏襲してきたが、地方都市ナンバーワンの大阪は、ある意味、最大の犠牲者であり、その活力を根こそぎ奪われてきた。1970年の大阪万博なんてのは大阪財閥の実力でもなんでもなく、栄光の大阪財閥が官僚統制に屈したことの歴史的敗北の象徴でしかない。だから僕は嫌いです。大阪万博w
東京一人勝ち、大阪一人負けの状態(結局、地方都市は全て負け続けているが)。そのルサンチマンから大阪都(副首都)構想が生まれてきたのも、わからないでもない。わからないでもないが維新が提唱して推し進める大阪都構想の実質的な政策や中身は建設的な副首都構想でもなんでもなく、ただ単に外資のハゲタカに悉く行政インフラを売り飛ばすだけの売国政策であった。
結果、維新による大阪の経済振興は外資カジノ一本槍である。某大リーガーの通訳がハマっていたが、時代はオンラインカジノの時代であって、今更、日本の大阪に大型カジノを作って、そんな収益など上がるわけがない。仮に儲かるとしてもその大部分は外資に渡り、弱冠のオコボレが一部の維新政治家の癒着企業に渡るだけであろう。大阪全体の経済振興にはなりえない。結局、維新はいうてることと、やっていることが違いすぎる。羊頭狗肉すぎる。
維新行政の失政によって経済都市としてどんどんと劣化、転落していく大阪だが、しかし大阪のポテンシャルは経済的な部分だけではない。むしろこれからの時代に可能性があるとすれば、文化や歴史という部分だと個人的には考えている。
例えば現在、日本全国の研究機関で保管されている埋蔵文化財の出土品は約630万箱(出土品量を60cm×40cm×15cmの箱で換算するとか)だが、考古学も進化し続けていて、いまや年間、約30万箱づつ増加しているとか。
そして面白いのが日本最大の出土遺物量が多いのが実は我が大阪であり、その数はなんと約87万箱に及ぶという。次が福岡で約49万箱。その次が千葉で33万箱。京都27万箱、兵庫23万箱・・・と続く。
意外なランキングだが、しかし、大阪の文化財、歴史的遺物の出土量は、紛れもなく、この土地の古さと歴史と文化の厚みを物語っている。不思議なことだが記紀神話の舞台である出雲とか伊勢とか奈良とかは、そうした出土品は意外にも少ないとか。じつは人の営みの歴史としては、それらの土地は浅いということなのかも知れない。記紀神話は結局、勝者による歴史編纂(歴史改竄?)なので、それを読んでいるだけでは、こういう物証の事実はわかりませんな。
いずれにせよ、大阪は日本最大の古代都市であり、歴史都市であり、文化都市であるということです。文化財の出土量がそれを物語っている。そして、そういう文化財の発掘、保管、整理、研究、検証を行うのが大阪市文化財協会であり、大阪府文化財センターなわけです。
大阪という都市の可能性は、他都市にはない、日本有数の歴史の厚みや文化の多様性にあります。しかし、そういうイメージで大阪を捉える人がほとんどいない。非常に残念なことです。そして、そういうイメージであるので大阪市文化財協会の仕事や大阪府文化財センターの仕事も浮かび上がらない。
大阪は常に誤解され続け、間違い続け、失敗し続けている。いい加減、自分たちの足元をよく見て、その豊かさを知り、大切に継承し、守っていかないといけない。
いや、しかし、これだけ誤解して間違って失敗してるのに意外と飄々としているのも大阪の凄さではあるか。大阪的オプチ、偉大なりき。アホなだけかな?w
本日は阿波座、江之子島、川口、松島まち歩き。途中、トラブルでルート変更に。時間があったので予定にはなかった竹林寺へ。金漢重の墓を案内して、みなさんでお参りした。
明和元年(1764)、11回目の朝鮮通信使のメンバーであった金は大坂で病に臥せて竹林寺で亡くなった。本国の朝鮮には妻と2人のこどもがいたが「こどもに逢いたい」と泣きすがる金の姿に大坂の町衆たちは心を痛め、同じ年頃の日本のこども2人を金の枕元へ呼んで我が子に見立てて看病させたという。
かつて竹林寺の側には尻無川が流れていた。この尻無川は唐人澪(とうじんみを)とも呼ばれ、朝鮮通信使の船の公式航路であった。尻無川から大阪湾に出て瀬戸内海、関門海峡、壱岐対馬を経て釜山、朝鮮半島に繋がる。
いまはもう川が埋め立てられたので竹林寺と朝鮮半島の結びつきがわからない。
久しぶりの猪飼野まち歩き。トルハルバンおじさんの像が御幸森第2公園にできている。済州島と大阪の直接航路(君が代丸)就航100年記念として2024年1月に建立された。
昔、韓国の人(慶州出身者でした)を猪飼野案内したさいに御幸森商店街でトルハルバンを発見して「え?なんでトルハルバンがこんなところに?」と驚かれたことがある。トルハルバンは済州島の守り神で、非常にローカルな神さま。大阪人は猪飼野のコリアンタウン(済州島出身者が多い)がスタンダードだと思っているので、韓国にいったらどこにでもトルハルバンがいるものと思っていたりするが、実は韓国の本土では珍しいとか。
済州島は火山島で、だから独特の土壌をしている。トルハルバンも色味は暗く、多孔質なんで、どうみても火成岩だなとすぐにわかる。島全体が火成岩であるので、なかなか田畑は難しい。芋ぐらいは育つかもしれないが基本的に土地は痩せている。かつては流刑者の島であったというのも土地の貧しさ、生活条件の厳しさゆえであろう。
田畑がダメなので、主な産業は漁業であり、素潜り漁が古くからあったという。済州島では海女が発達し、いまも活躍している。昔は海人・海士(男性の素潜り)もいたらしいが儒教が発達した朝鮮社会では「士大夫たるものは肌を他人に見せてはならない」という考えが強く、だから男は海に潜らなくなり、代わって女性の素潜り…つまり海女が隆盛したという。
済州島では男は昼から焼酎を飲んで暴れているロクデモナシばかりで、女が働き者で海女をして稼いでいた…というような戯言を聞いたこともあるが、さて、実際はどうであったのだろうか?
いまはリゾートアイランドで大手資本の開発で、「韓国のハワイ」と呼ばれている。今(ハワイ)と昔(流刑地)でイメージが違いすぎて戸惑う。いつかいってみたいと思っているが、なかなか行けていない。