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「大阪七墓巡り復活プロジェクトについて」陸奥賢(観光家/コモンズ・デザイナー/社会実験者)

2020 年 8 月 31 日 Comments off

大阪七墓巡り復活プロジェクトについて
陸奥賢(観光家/コモンズ・デザイナー/社会実験者)

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1 大阪七墓巡りとは?
かつて大阪には都市近郊の墓地を7カ所お参りして無縁仏を供養する「大阪七墓巡り」という風習があった。あまり詳しい史料などはなく、いつの時代から始まったのかよくわかっていないが、浄瑠璃作家の近松門左衛門が七墓巡りを盛り込んだ『賀古教信七墓廻』という作品を書いている。『外題年鑑』によると「元禄十五年七月十五日上演」とあり、こうした記録から推察すると元禄(1688~1704)の頃には、すでに七墓巡りの風習は成立していて、芝居の演目になるぐらいには、当時の大阪の町衆のあいだでも一般認知されていたものと思われる。

七墓巡りは盂蘭盆会の頃に実施され、近松の『賀古教信七墓廻』が「旧暦7月15日初演」なのも、そうした時期を意識してのことだろう。また初演時には地獄や賽の河原の情景などを人形で見せる趣向などもあったという。『正本近松全集』の「解題」では「惨酷無惨で奇怪極まる幼稚な作品」と酷評されているが、いかにも子供騙しの趣向に感じられ、実際に当時の観客も微妙な反応だったようで、『賀古教信七墓廻』は一度だけの上演で、これ以降の再演の記録はないという。

いろいろと謎めいた風習だが、七墓の所在地についても不明確な部分が多い。『賀古教信七墓廻』では第四段「夏野のまよひ子」の中に七墓が登場してくるが、その原文を抜粋すると「あだし煙の梅田の火屋」「短か夜を誰が慣わしの長柄川」「道のなき野原笹原葭原の」「泣き泣き歩む夏草の蒲生」「それとも知らで別れ行末は小橋の」「寺の鐘の聲高津墓所に夕立の」「煙知るべに千日の」「これぞ三途と一足に飛田の」と近松お得意の掛詞で調子よく次々と大阪の墓地が登場してくる。
しかし、よく読むと「①梅田」「②長柄」「③葭原」「④蒲生」「⑤小橋」「⑥高津」「⑦千日」「⑧飛田」と七墓巡りであるのに、なんと「8カ所の墓地」が紹介されている。

これは一体どうしたことか?と他の文献を調べてみると、大正15年(1926)発行の『今宮町誌』(編纂:大阪府西成郡今宮町残務所)の「木津の墓」に七墓の場所が記されていた。それによると「木津の墓は古来大阪の七墓、即ち千日前、梅田、福島、天王寺、鵄田、東成郡榎並と同じく七墓の一に加へられた場所」とあった。

他にも昭和10年(1935)発行の『郷土研究 上方』(編者:南木芳太郎)「上方探墓號」では、「その場所は時代によって多少の変遷があり、又振出の都合にて手近の墓所のみを巡った形跡もある。その場所を挙げると、北よりすれば梅田、南浜、葭原、蒲生、小橋、高津、千日、飛田辺りが古い時代のもので、明治になると長柄、岩崎、安部野辺りが加わっている、その他、安治川、大仁、野江等の三昧も七墓巡りの中に入れねば成るまい。もっと小さな墓所も場末にはあったであろう」とあった。

整理すると『賀古教信七墓廻』の8ヶ所以外にも「⑨木津」「⑩福島」「⑪天王寺」「⑫榎並」(以上『今宮町誌』より)「⑬南浜」「⑭岩崎」「⑮安部野」「⑯安治川」「⑰大仁」「⑱野江」(以上『郷土研究 上方』より)と合計18カ所の墓が七墓として紹介されている。他にも文献を渉漁すれば、その数はさらに増えていくのではないだろうか。

要するに盂蘭盆会に大阪市中界隈にあった墓を「どこでもいい」ので、7カ所巡れば大阪七墓巡りとして結願したと筆者は推測している。ルール(?)としては、非常にゆるやかで、おおらかな墓参りといえる。

また七墓参りをすると「自分の葬式の時に晴れる」というご利益があったという。筆者などは自分はすでに死んでしまっているので、自分の葬式が晴れていようが雨であろうがどちらでも構わないように思うが、とても慎ましい(?)ご利益ではないだろうか。ちなみに堺の民話集『わがまちの今・むかし 南八下の民話』に「堺の七墓巡り」の記述があり、それによると「嫁さんが七墓巡りを7年間することで元気に暮らせる」といったご利益があったと伝わっている。「願い事が成就する」とか「良縁に恵まれる」といった現世利益と違って、「自分の葬式が晴れる」という微妙なご利益(?)もユニークに感じている。

2 七墓を巡っていた無縁の者たち
七墓巡りの場所も不明だが、参加者たちについても、正直なところ、どのような人物であったのか?というのは、よくわからない。「講社」のようなものがあったのかも知れないが、「無縁仏を供養する」ということは、死者との生前の交流の有無や関係性が問われない。誰でも参加可能な風習であり、「他者の集まり」「無縁者の集まり」によって実施された風習といえる。

参加者に関して何か記述はないか?と『郷土研究 上方』の「上方探墓号」を調べてみると、「今は途絶えたが、貞享、元禄の昔より明治初期に至るまで久しい間、大阪では盂蘭盆になると心ある人々は七墓巡りと称して、諸霊供養のため七カ所の墓地を巡訪して回向したものである」とあった。つまり、無縁仏を供養する人々というのは、仏教心に厚い、慈悲の精神を持った「心ある人々」だということだろう。確かに現代の墓参りは基本的には近親者や知人、友人といった自分と何かしらの関係がある「有縁の死者」を墓参りするものだから、わざわざ「無縁の死者」を墓参りするのは、「心ある人々」のように感じられなくもない。

ところが「無縁者の集まり」なだけに、ちゃんとしたお参りの統制(?)などもとれなかったようで、延宝8年(1680)刊行の『難波鑑』(一無軒道治著)の「法善寺墓参」には「いつのころよりか、この寺の墓参りとて、7月1日より、その月のくるるまで、毎夕大坂の男女、老若貴賤によらず、この寺に詣できたるありさま(中略)わかき人々は色にそみ、あるひは酒宴なんどを催しざれめき遊ぶ人がちにして、あるひはいきほひ猛にののしり、はては喧嘩して法場をけがす人あり(中略)かかることをしても物詣と、いふべきや、をそるべくつつしむべし」と非難する記述が残されている。

「法善寺墓参」なので、これは七墓のうちの1つである千日墓地界隈の光景だろうと思われるが、若者たちは遊女と戯れたり、酒宴で羽目を外して墓場で喧嘩をするなど、乱痴気騒ぎもあったという。どうも七墓巡りをやっていたのは、宗教心に突き動かされた、殊勝な「心ある人々」だけではなかったことがわかる。

また七墓巡りの参加者は、鐘や太鼓を鳴らして歌舞音曲と共に巡ったそうで、これは『郷土研究 上方』の挿絵「盂蘭盆会七墓巡り之図」(長谷川貞信)をみても、陽気な一団が街中を練り歩いている様子が伺える。

供養というようは一種の演芸、遊興、娯楽のような晴れやかな雰囲気が感じられ、現在でいえば「盆踊り大会」のようなものに近い。筆者も子供の頃に盆踊り(先祖供養)よりも屋台が楽しいと思った記憶があるが、七墓巡りも無縁仏の供養を一種の大義名分にして、町衆のレクリエーション、エンターテイメントといった要素が強かったように思われる。

また、夏の暑い盛りであるので、七墓も徒歩だけではなくて舟を使って巡っていたと思われる。江戸時代の大阪はどこにでも川が張り巡らされていたし、芸妓衆を共にして、優雅に舟遊びをして、一種の肝試し、余興として七墓を巡るような連中もいたのではないだろうか。

実際に、筆者は大阪七墓巡り復活プロジェクトで毎年、七墓を巡っているが、総距離は20キロを優に超える。徹夜で歩いたこともあるが、これはかなりの苦行で、参加者はどんどんと脱落していき、最初は50名ほどいたのに、ゴールする頃には15名ほどに減っていた。昔の人は健脚だったというが、20キロの距離は、さすがに酒などを飲んで巡れる距離ではない。やはり舟なども使って、悠々自適に巡っていたと思われる。

ちなみに七墓巡りの参加者がどれぐらいいたのか?その数なども不明だが、七墓のひとつである南浜墓地近くの浄土宗寺院・源光寺境内には「七はか道」と刻まれた貴重な石碑が現存している。こうした案内の石碑が必要なほど、大勢の参加者が七墓を巡った…ということなのかも知れない。

3 無縁仏には夏の陣の死者が含まれる?
さて、こうした「無縁仏の供養」という不思議な風習が、江戸時代の大阪で成立していたことは非常に興味深いが、これはまず第一に都市という「場」(トポス)の影響が大きいだろう。

例えば、村落の風習などは、基本的には先祖代々の土地に生きる人々の中で育まれる。その風習の多くは有縁の村落社会の繋がりを再確認する仕組みとして機能している。宮座や講社があったりして、外部の者、余所者、他者は、村の神輿や山車、太鼓などには触ったり、担いだりはできない。有縁の、同一の価値観、共通の世界観の持ち主だけが許容されたり、尊重されたりして、無縁の、異なる価値観や理解できない世界観の他者には、自然と排他的な構造になっていることが多い。

しかし都市はそもそも無縁の人々の集まりで構成される。戦後の日本社会でもベビーブームを迎えて爆発的に人口が増えたが、長男は家や田圃を受け継ぐが、次男、三男などは受け継ぐ家や田圃などはなかった。結果として長男以外の息子や娘たちは、夜行列車に乗って、東京や大阪、愛知といった大都市に移住して、高度経済成長の担い手(俗にいう「団塊の世代」。当時は「金の卵」などといわれた)になっていった。

そういった大都市では流入人口が多いので、他者だらけになり、「隣に誰が住んでいるかわからない」といった環境が自然発生するが、じつはこの「他者性」「無縁性」こそが、都市の都市たる基礎条件となる。みんな同じような他者であり、無縁の存在であるからでこそ、都市で自然発生する風習は有縁や無縁ということに、それほど頓着しない性質を帯びるのではないだろうか?

そして、このような戦後大阪の「隣に誰が住んでいるのかわからない」という社会状況は、じつは江戸時代初期の大阪でも起こった。ご存じのように大阪は桃山時代(1583~1598)には豊臣武家政権の首都であったが、大坂夏の陣(1615)に徳川方に敗北して、すべてが灰燼、焦土と化してしまった。

当時の様子を伝える古文献によれば「大坂にこもりたる衆は、命ながらへたる衆は、ことごとく具足をぬぎ捨て、裸にて女子もにげちる」(大久保彦左衛門『三河物語』)とあり、つまり戦闘員だけではなく大阪城周辺にいた非戦闘員(町衆、女、子供など)も惨殺されたと記述されている。

また、「多くの人は約10万人が死んだと言い、町の中で殺された人々のほか、合戦が行われた周辺も死体で埋まっていた。大坂の川(大川)は水が豊富で非常に深いだけに、敵の武器や火事を免れようとした多くの人々のために、かえって墓場と化した。川底は死体で埋もれ、向岸へ渡ろうとすれば、その上を歩かねばならないほどであった」(『切支丹研究第17集 耶蘇会史料』)といった記録などもある。

大阪は古くは蘇我・物部の争いや、戦国時代の石山本願寺の戦いなど、歴史上、何度も戦乱にあっているが、中でも太平洋戦争時の大阪大空襲の被害は甚大だったとよく語られる。昭和20年(1945)10月の大阪府警察局の調べでは大阪府域では死者1万2620人、行方不明者2173人で、約1万5000人もの犠牲者が出たと記録されている。大変、痛ましい悲劇だが、しかし大坂夏の陣では約10万人(どこまで事実であるかわからないが)もの人々が殺されたというのだから、じつは大阪大空襲よりも大坂夏の陣こそが、大阪という都市が経験した史上最大のジェノサイドだったといえるだろう。まさに大阪は、どこを歩いても血で汚され、累々たる死者が横たわる「ネクロポリス」(死者のまち)となってしまった。

その後、江戸幕府の主導で、大阪復興が行われるが、そのさいに日本全国各地から集団就職のように町衆が集まってきたが、彼らの多くは、戦国時代の長い戦乱によって、主君や土地を失った武家だった。

実際に、元禄時代に、あまりの財力で商人の分限を超えていると幕府から咎められて闕所(財産没収)処分を受けた伝説的な大阪豪商の淀屋は元は信長に滅ぼされた岡本家の子孫であったし、また現在まで財閥として現存している住友家は秀吉に滅ぼされた柴田勝家の家臣の子孫であり、鴻池家もまた毛利氏に滅ぼされた山中鹿之助の子孫であった。

こうして先祖伝来の土地や故郷を奪われた無数の敗北者たち、流れ者たち、無縁者たちの懸命の働きによって、江戸時代の大阪は、商業流通都市「天下の台所」として、劇的に復活、発展していく。夏の陣(1615)から「浮世」と浮かれ騒いだ元禄時代(1688~1704)に至る経済成長のダイナミズムは、じつは戦後の高度経済成長に匹敵するほどの規模とエネルギーであったのかも知れない。

ただ、江戸時代と戦後と決定的に違うのは、江戸時代は絶対封建社会の世の中で、商人階級は社会的に差別、抑圧されていた存在だった。なにか商人が武士に対して不届きなことをすれば、「無礼打ち」をしても許される(『公事方御定書』71条)という恐ろしい時代で、どれだけ富を蓄積しようとも、本質的に商人の社会的な立場は弱かった。幕府の財産没収の命令で、有無を言わさずに、あっというまに潰されてしまった大豪商の淀屋などは、わかりやすい事例だろう。

そして筆者が思うに、こうした社会的弱者の最たるものが、誰にも供養されない死者=無縁仏であるので、当時の大阪の町衆が無縁仏にシンパシー(同情)やエンパシー(共感)を持つのも不思議はなかったと推察している。そういった商人の社会的抑圧から無縁仏を供養する大阪七墓巡りの風習が起こったということも考えられる。

また七墓のひとつとして挙げられる野江墓地は、仕置き場(刑場)でもあり、ここは夏の陣の跡に豊臣の残党を処刑した場所であるという。であるならば、七墓巡りで供養する「無縁仏」というのは、じつは「豊臣方の死者」も含まれてくる。江戸時代は徳川の天下であるので、公に「豊臣家の死者供養」はできない。なので大阪の町衆たちは「無縁仏を供養する」といいながら七墓を巡りつつ、じつは「豊臣方の遺恨」や「非戦闘員の大量虐殺」といった「ネクロポリスの記憶」を密かに伝えていくといった意味や意義も七墓巡りにあったのではないだろうか? 

とくに当初、七墓巡りをはじめた町衆たちの中には豊臣方の武家、豊臣の関係者の子孫も数多くいたと思われる。まだそれほど夏の陣から時を経ていないので、夏の陣のジェノサイドの記憶は新しく、より七墓巡りには豊臣方の死者の供養の意味合いが強かっただろう。それが元禄時代(近松が『賀古教信七墓廻』を書いた頃)ぐらいから、多様な人々が参加してきて、演芸化、遊興化、娯楽化していったのではないか?と、筆者は推察している。

4 七墓巡りの謎の消滅
こうして江戸時代に一世を風靡した七墓巡りだが、明治以降は一気に廃れて、昭和には完全に影も形も無かったという。なぜ、なくなったのか?の理由も不明な部分が多いが、大阪が近代化するに当たっての都市改造で、墓地の移転や統廃合されたことの影響は大きかったと筆者は推測している。

例えば大阪市域の北側にあった梅田、南濱、葭原の墓地などは、長柄墓地(現在の大阪市移設北霊園)に移り、小橋、千日、飛田などの大阪市域の南側に位置する墓地などは阿部野墓地(現在の大阪市設南霊園)に移転された。

墓が点々とあるから、それらの点を繋ぐライン(線)が巡礼の街道となるが、点が集約されてしまうと、ラインがそもそも発生しない。結果として巡礼がなくなると、道中の遊興がなくなる。歌舞音曲で練り歩いたり、酒を飲みながら舟を出すといった「遊び」が成立しなくなることで、七墓巡りは人気を失ったのではないだろうか。

さらに江戸時代は町の管理だった墓地が、行政の監理になったので、七墓巡りなどは旧弊な悪習と見なされて排除されたことも考えられる。近代国民国家や近代都市というのは住所不定の流民などを嫌う。税の徴収や兵役の義務を課すためには、必ず国民一人一人を住所などで管理することが必要で、七墓巡りのような「無縁者の集まり」などは、いかにも反社会的(反近代的)で、けしからん行事と目される。無縁者の集まりで、講社のような組織がなかったことも、七墓巡りの風習があっというまに廃れ、雲散霧消することにも繋がったように思われる。

また、「豊臣方の供養」という意味合いが七墓にあったのだとすると、時代が徳川の時代から明治維新で変わり、正々堂々と豊臣の供養ができるようになった影響も大きいのかも知れない。明治新政府は幕府否定、徳川否定のために、逆に秀吉や豊臣方の人物を大いに褒め称えて顕彰したりもしたので、豊臣方の関係者の子孫は「無縁仏を供養する」なんてことを隠れ蓑にして七墓巡りをしなくてもいいようになったし、先祖、祖霊の名誉回復によって、溜飲が下がる思いをしたことだろう。

いま現在、七墓のほとんどは繁華街(梅田、千日)や住宅地(葭原)、公園(小橋)、道路(飛田)などに変貌してしまい、地元住人も自分のまちが元墓地であったことなどすっかり忘れてしまっていることが多い。

ちなみに、よく聞かれるのが、なぜ「七つの墓」なのか?「七」という数字の意味は?という謎なのだが、これも正直、よくわからない。

しかし、かつて七墓のひとつの千日刑場の前には蓮登山自安寺があった。この自安寺は妙見堂や能勢妙見遥拝所を構える妙見信仰の寺院だったという。妙見信仰というのは北極星、北斗七星を崇める星辰信仰で、妙見菩薩はその中心に位置する北極星の象徴仏という。北極星は北の夜空にあって、決して、位置が変わらない。茫洋たる海洋で、全く目印がない海の民や、木々に覆われて方向がわからなくなる山の民にとって、「道しるべ」となる有難い星であり、スターナビゲーターだった。その北極星への信仰(妙見信仰)が、都市に入ったさいに、この世で道を誤った迷い人たちを導く星であり、神仏であるという信仰へ変容したのではないだろうか。

この「道を誤った人たち」というのが、すなわち罪人や流れ者、無縁の者たちで、それがゆえに千日前に妙見さんが安置されたのだろうと筆者は推測している。つまり七墓巡りの「七」というのは、北極星を取り巻く「北斗七星」を意味しているのではないだろうか?

なぜ、無縁仏を供養する祭礼の「大阪七墓巡り」で「七」という数字が選ばれたのか?・・・この「七」という数字にも、当時の人々の、何かしらの信仰や霊性の働き、宗教心が込められていると考えられる。実際のところは不明であるが、筆者の一つの直観として記しておく。

5 東日本大震災から生まれた「死生観光プロジェクト」
さて、以上は江戸時代に行われていた大阪七墓巡りの簡単な紹介であったが、筆者は普段は観光やまちづくりのプロデューサーとして活動している。仕事柄、大阪のまちを案内することが多く、その中で大阪七墓巡りの風習を知ったのだが、その後、個人的な興味で七墓の場所を訪ね歩いたりしていた。

それを自分一人だけではなくて、いろんな参加者を募って歩いてみようと考えて、2011年の春に「大阪七墓巡り復活プロジェクト」という団体を立ち上げ、同年の盆に、有志で七墓巡りの跡地を辿るツアーを行った。なぜそんなプロジェクトを立ち上げたのか?とよく聞かれるが、これは実は2011年3月11日の東日本大震災による福島原発事故の衝撃と、その個人的な内省が非常に大きい。

いま、日本全国各地に原発が建っているが、それらは地元住民の賛同の下に建てられている。もちろん地元住民全員が賛同しているわけではなくて、反対の住民もいるだろうが、最終的には「多数決」という選挙の結果で誘致が決定したところが大半だろう。

しかし、筆者は「生きている住民の賛否だけで原発誘致を決めていいものなのだろうか?」という疑問を頂いたのだ。なぜならば、仮に原発に重大な事故が起こると(その懸念が現実のものとなったのが福島原発事故であったのだが)、その被害は非常に甚大で、時と場合によっては数十年、数百年に渡って地域社会に悪影響を及ぼしかねない。現在、生きている住民だけで原発誘致を決めるには、あまりにも責任が重すぎるのではないか?

そもそも、まちには我々が存在する以前に、そこに根差して生きてきた「過去の先人たち」がいる。さらに、我々の後には、いまだに生まれてはいないが、そのまちで生きていくであろう「未来の後人たち」がいる。我々は、ただ、その「先人」と「後人」の両者のあいだに、つかのま存在しているだけの、まちの「仮の住人」に過ぎない。そのことを忘れて、なんでもかんでも一過性の選挙で決めてしまうのは非常に危険なことではないかと考えたのだ。

これはなにも筆者だけの特異な考えではなくて、例えばイギリスの作家G・K・チェスタトン(1874~1936)は「伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない」(『正統とは何か?』)と「生者だけの民主主義」を厳しく諌めている。

そして、筆者は、このチェスタトン曰くの「死者の民主主義」を考える機会として、かつての大阪の町衆の風習であり、失われた「伝統」である大阪七墓巡りが最適ではないか…と考えたわけである。無縁仏を供養するという大阪七墓巡りを追体験することで「大阪の先人たちが、どのように死者と向き合ってきたか?」ということがわかるし、それがわかれば「現代の我々も、どう死者と向き合えばいいのか?」ということのヒントや指針、答えになるのではないか?

こうしたことから筆者は大阪七墓巡り復活プロジェクトは、大阪の先人たちと出逢うツアーであり、「死者と生者が出逢う観光」であることから、「死生観光プロジェクト」と名付けている。

6 大阪七墓巡り復活プロジェクトの意義
大阪七墓巡りプロジェクトを2011年から始めて、以後、毎年、盆の時期に実施していて、今年の2020年で9回目を迎えた。参加者は初年度の2011年は30名ほどであったが、そこから年々と増えていき、2018年には、ついに100名を超すほどになった。2019年は台風の影響で急遽、順延したので参加者が減ったが、それでも70名近い参加があった。

江戸時代の大阪七墓巡りの参加者がどのような人たちであったのか?は不明だが、筆者が主催している大阪七墓巡り復活プロジェクトでは、どのような人が参加しているのかは当然だが、よくわかっている。興味深いのは、まず参加者が大阪のみならず、遠くは九州や東北、海外からの参加者など非常にバラエティに富んでいる。また20代~40代が多いことも特徴で、さらにいうと独身で子供がいない「おひとりさま」の参加者が非常に多い。

これは当初、まったく想定していなかった現象であったが、そういったおひとりさまの参加者は今後もますます増えるだろうと予想している。というのも、1990年の国勢調査では50歳男性の5.6%、50歳女性の4.3%が一度も結婚歴がなかったが、それが2015年の国勢調査では男性23.4%、女性14.1%と急増している。俗にいう「生涯未婚率」だが、これは今後も増加すると予想されている。

さらに、現代日本社会は、いよいよ高齢化社会から多死社会に移行しつつある。厚生労働省の『平成29年(2017)人口動態統計の年間推計』によると、2017年の死亡者数は約134万4000人だが、これが2030年頃には年間死者数は150万人を超えて、それが約30年間ほど続くという推計データもある(国立社会保障・人口問題研究所『日本の将来推計人口(2017年)』)。

この中には、もちろん生涯未婚の死者も多く、無縁仏になってしまう人も多いだろう。そういった社会状況も大阪七墓巡り復活プロジェクトの不思議な人気を後押ししている。実際に、ある40代後半の独身女性の七墓巡りの参加者から「無縁者の自分が、いま生きているうちに、過去の無縁仏のために供養の巡礼をする。そうすれば自分が死んで無縁仏になっても、未来の無縁者の誰かが自分のことを思って巡ってくれるかもしれない。過去と現在と未来の無縁者たちが七墓巡りによって時を超えて繋がっていく気がする」と語られたこともあった。

まさに大阪七墓巡りをすることで、「無縁という繋がり」を認識することによって、死者(過去)と生者(現在)と未来者が出逢うような瞬間(それは幻や錯覚のようなものかも知れないが)が、彼女の中に訪れたということではないだろうか。

現代社会は、血縁、地縁、社縁などが崩壊して「無縁化社会」と呼ばれるが、こうした社会状況の中であるからでこそ、「無縁」ということを大前提に繋がりあえる仕組みが必要なのではないか?と筆者は考えている。大阪七墓巡り復活プロジェクトはそのための試みであり、社会実験ともいえるだろう。

さて、今年の2020年の盆も大阪七墓巡り復活プロジェクトを行ったが、しかしコロナの影響があり、感染症防止のために筆者が一人で深夜に誰もいない七墓を巡り、「大阪七墓巡り復活プロジェクト」のfacebookページで、ライブ配信する…という全く新しい形での七墓巡りとなった。

筆者は宗教者ではないが、それぞれの墓地(跡)で拙い般若心経を唱え、その様子をオンラインで参加者(視聴者)が見て、一緒に合掌をしてもらった。江戸時代に流行った「代参」の現代版のようなものといえるだろう。全部で14動画あるが、それらの再生回数は計3000回を超えて、いまだに増え続けている。これは誰でも視聴可能なので、もしご興味がある方は、「大阪七墓巡り復活プロジェクト」のfacebookページの「動画」を参照してほしい。

オンラインで大阪七墓巡りをやることで、とくに新しい知見が広まったということもないが、たった一人で七墓を巡るのは、個人的には充実の時間となった。普段の七墓巡りでは、100名近い人々を先導するので、どうしても参加者への気配りなどで、意識を奪われる。死者と真摯に向き合おうとするならば、やはり一人でお参りするのが集中できるし、精神的な心構えができる。

また、七墓巡りで重要なのは、「墓」(点、ポイント)ではなくて、その「巡り」(ライン、線)にある。墓と墓のあいだを、一人で歩いていくうちに、さまざまなことを振り返る時間となる。筆者は毎年、七墓巡りをやっているので、「去年の七墓巡りから1年たって、自分はどうだったか?」と自分の来し方を考えたりする。また、今年はコロナ禍中ということもあり、「来年の七墓巡りは一体、どうなるだろうか?自分は生きて、七墓を巡っているだろうか?」と自分の将来や行く末などもじっくりと考える時間も多かったように思う。

普段の日常の暮らしの中では、慌ただしい仕事や雑事に追われてしまうので、そんなことを振り返る時間はあまりない。しかし、自分の生き方、死に方を考えるのには、墓を巡るに限るのではないだろうか。

このコラムは『月刊石材』の読者が読むものだから、最後に、石材関係者のみなさんにお伝えしておくと、墓を作るという仕事は、死者のためだけではなくて、生者のためでもあるのだろう。筆者は、墓を巡ることで、死者と向き合うことで、自分の死生観を点検する時間を持つことができている。それは非常に貴重な機会で、ありがたいことだと年々、感じている。

【陸奥 賢(むつ さとし) プロフィール】
観光家/コモンズ・デザイナー/社会実験者。1978年大阪・住吉生まれ、堺育ち。最終学歴は中卒。15歳から30歳まではフリーター、ライター、放送作家、生活総合情報サイトAll About(オールアバウト)の大阪ガイドなど70近い職種を経験。2007年に地元・堺を舞台にしたコミュニティ・ツーリズム企画で地域活性化ビジネスプラン「SAKAI賞」を受賞(主催・堺商工会議所)。2008年から2013年までは大阪市のまち歩きプロジェクト「大阪あそ歩」(2012年、観光庁長官表彰受賞)のプロデューサーを務める。2011年からは観光やまちづくり、メディアの境界を逍遙しながら「大阪七墓巡り復活プロジェクト」「直観讀みブックマーカー」「当事者研究スゴロク」「演劇シチュエーションカード 劇札」「歌垣風呂」(京都文化ベンチャーコンペティション・とらや賞受賞)「仏笑い」「北船場将棋」「死生観光トランプ」などの一連のコモンズ・デザイン・プロジェクトを手掛けている。とくに「まわしよみ新聞」はアクティブ・ラーニングのツールとして平成29年度高等学校国語科教科書・三省堂『明解 国語総合』に採用され、2017年11月には「わが国最高の教育賞」と呼ばれる「読売教育賞」の最優秀賞を受賞した。大阪まち歩き大学学長。著書に『まわしよみ新聞をつくろう』(創元社)。

月刊石材2020年9月号1

月刊石材2020年9月号2

月刊石材2020年9月号3

月刊石材2020年9月号4

月刊石材2020年10月号1

月刊石材2020年10月号2

月刊石材2020年10月号3


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「大阪七墓巡り復活プロジェクト2020」の動画リンク

2020 年 8 月 23 日 Comments off

「大阪七墓巡り復活プロジェクト2020」の動画リンクです。ようやっとんな…。つーか、私は一体、何をしているのでしょうか…?

①大阪七墓巡り2020動画①梅田墓地跡

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/2435671846737398/

②大阪七墓巡り2020動画②北向地蔵尊(阪急三番街)

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/621846652050623/

③大阪七墓巡り2020動画③源光寺〜道引地蔵尊〜南浜墓地

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/300339801382364/

④大阪七墓巡り2020動画④沖向地蔵尊(葭原墓地跡)

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/300020217931903/

⑤大阪七墓巡り2020動画⑤蒲生墓地

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/230762371506224/

⑥大阪七墓巡り2020動画⑥京橋空襲慰霊碑

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/801649037242026/

⑦大阪七墓巡り2020動画⑦大阪城天守閣

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/969063366902842/

⑧大阪七墓巡り2020⑧真田山陸軍墓地

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/317568269364395/

⑨大阪七墓巡り2020動画⑨東高津延命地蔵尊(小橋墓地跡)〜梅川忠兵衛比翼塚

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⑩大阪七墓巡り2020動画⑩浮世小路〜法善寺

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⑪大阪七墓巡り2020動画⑪榎地蔵尊(千日墓地跡)

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⑫大阪七墓巡り2020動画⑫榎地蔵尊(千日墓地跡)〜三津寺墓地

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⑬大阪七墓巡り2020動画⑬太子墓地跡(飛田墓地跡)

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⑭大阪七墓巡り2020動画⑭阿倍野墓地(千日墓地迎仏)

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大阪七墓巡り復活プロジェクトとは何か?

2020 年 8 月 15 日 Comments off
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僕の曽祖父は陸奥利宗といいますが、妻(僕の曾祖母)が薩摩藩の鉄砲指南役の小山田休次郎家の二女でヲカといいました(陸奥という東北由来の苗字のくせに僕は薩摩藩士の血を引いているw)。その姉で小山田家長女のタカが嫁いだのが鮫島訓石。

2020 年 8 月 2 日 Comments off

僕の曽祖父は陸奥利宗といいますが、妻(僕の曾祖母)が薩摩藩の鉄砲指南役の小山田休次郎家の二女でヲカといいました(陸奥という東北由来の苗字のくせに僕は薩摩藩士の血を引いているw)。その姉で小山田家長女のタカが嫁いだのが鮫島訓石。

えらい妙な名前やなと思って、昔、調べたんですが、じつは薩摩焼・苗代川窯の陶工でした。苗代川陶工は秀吉の朝鮮出兵で連れてこられた朝鮮陶工の一族です。司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』の舞台でも有名ですな。いまも苗代川には鮫島佐太郎窯(鮫島訓石の弟子筋)が現役で活動してはります。いっぺん現地に行ってみたいんですが…。

それで陸奥利宗の義理の兄となる鮫島訓石ですが、有名な沈壽官一族(白薩摩系)と並ぶほどの薩摩焼の名手でした。とくに黒薩摩の評価が高いようですが、その訓石の作品が大阪は新世界で開かれた第5回内国勧業博覧会(1903)に出品されておりましたw

「古銅紋彫刻花瓶」などを出していたそうですな。代金は300円。現在の価値でいえば約600万円ぐらいですか。流石。

仕事で内国勧業博覧会の原稿を書かないかんので調べていたら、自分のご先祖さまが出てきました。まさかの出会い。びっくりww

※1枚目の画像は勧業博覧会の雑報。2枚目が黒薩摩と鮫島佐太郎氏の記事。


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新聞は検索型(言葉)やない。紙面をめくること(無言語)で情報に触れる。子供にはまず新聞で世界観(未知の言葉を知る)を広げさせ、それからネット検索が効率的。

2020 年 7 月 24 日 Comments off

新聞は検索型(言葉)やない。紙面をめくること(無言語)で情報に触れる。子供にはまず新聞で世界観(未知の言葉を知る)を広げさせ、それからネット検索が効率的。


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子供がネット検索しても語彙が貧困やから同じページをグルグルするだけ。「語彙を増やす」には本を乱読したり他者と対話せなあかん。いっちゃん楽なんは新聞を読むですw

2020 年 7 月 24 日 Comments off
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2012年7月24日。住吉大社。神館。玉座の間。

2020 年 7 月 24 日 Comments off
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知る人ぞ知るの堺探検クラブw

2020 年 7 月 24 日 Comments off
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『沙界怪談実記』(意訳)

2020 年 7 月 10 日 Comments off

『沙界怪談実記』 意訳
※おそらく安永7年(1778)春に書かれたもの

宝暦年間(1751~1764)
明和年間(1764~1772)
安永年間(1772~1781)

①絹屋町の妖怪・・・安永2年(1773)の中頃、絹屋町5丁目に河内屋宗兵衛という絹織屋がいた。隣の織場は夜は誰もいないが、そこから瓦石を投げる大男がいた。修行の僧に聞くと、江戸から大火事で避難してきた狐だという。かつては南宗寺に住むが居心地が悪い。住みたい場所ができたので、わからせるために怪しい行動をとった。そこで祠を建てて住むことを許したが、まだ悪さをする。「妻子がいるからそれと一緒に住みたかった」らしい。

②北蛇谷の飯縄の法術・・・宝暦(1751~1764)の中頃、大阪天満からやってきた祈祷師がいた。北蛇谷の空き家で寝泊まりしたが家の様子がおかしい。怪異が起こる。この祈祷師は飯縄の法(霊的な小動物を駆使して託宣や占いなどを行う)を使うから、その狐や小動物の仕業であろう。

③川尻町の老獺・・・宝暦(1751~1764)の頃、湯屋町西六間筋に住む浄瑠璃のうまい銅屋何某が中の町浜で演芸をして、その帰り道、宿院の大溝で犬のような、背たけ一丈のすさまじい謎の生物と出会い、4、5日、臥せってしまった。

④高須町に鬼の腕ありし話・・・宝暦14年(1764)10月17日の朝、よろづや吉右衛門という置屋が、軒下を掃除しようとすると、格子の溝に毛深くて、真っ黒の逞しい鬼の腕が切り捨てられていた。黒山の如くの見物客ができたが、役所に訴え出て調査されたが、王子が上の墓地に埋められた。

⑤櫛屋町の戯れ狸・・・宝暦(1751~1764)の頃、櫛屋町中浜筋の染物屋・泉屋伊兵衛の隣の家には妖怪が住んでいた。妙な物音がするので下人と見に行くと、謎の音があちらこちらから聞こえる。明け方には4、50人ほどの足音がして音が消えた。狸の腹鼓だろうと噂された。

⑥万代庄金口村の異獣・・・明和8年(1771)夏、旱魃に苦しんだ夏。忠平衛という農人が井の中で妙な獣を捉えた。口とがり、毛色は赤黒で、目は丸く大きく、猿の尾で、狸に似ている。カエルやトカゲ、川魚を食べた。浪花の人に売り飛ばし、その金で村人は酒宴をして楽しんだ。

⑦寺地町大道より古銭堀出す・・・明和2年(1765)冬。米屋が5尺ばかり地面を掘ると、厚板の箱が出てきた。中には篆字の古銭で、5、6貫ほどあった。昔、このあたりは少林寺という禅寺で、その墓地に葬ったものであろうか?

⑧少林寺町の地下より古碑出土・・・明和2年(1765)頃、少林寺町の八百屋何某のうちの井戸を67尺ばかり掘ると石碑や欠けた地蔵や壺などが出てきた。これも少林寺の墓跡だろう。

⑨槐樹の霊神童子を悩ます・・・花田口の禅通寺に古い大きな槐(えんじゅ)の樹があった。寺の借家にいた塩屋権平が伐ろうとすると鮮血が出て、みんな恐れたが切り倒した。夜、権平の子供が火のような大熱が出て、おかしなことを言い出す。家が振動して大風が吹くと部屋の片隅に一丈ほどの異形の者が現れたが、権平が茶碗を投げつけたら消えた。和尚曰く「槐の霊ではなくて住家を追われた狐狸の仕業だろう」。霊符を貼ると何も起こらなくなった。

⑩綾之町妖怪吉事を告げる・・・綾之町山口筋の金田屋の商家は化物がでる。明和7年(1770)の冬に奉公人が来たが夜中に世間話をしていると、台所で客をもてなすような米を研ぐ音や豆を煎る音や煮炊きの音がするが戸の隙間から覗いても何もない。戸に大石が打ち受けられる音がするが翌日みても何もない。庭を掃除する音などもよく聞こえる。商売に利益がでると、そのような現象が起こって告げてくれる。

⑪湊村の婦嫉んで魂幽霊となる・・・安永2年(1773)の夏、湊村中筋の三人家族の女房が病死した。その後、幽霊が出る。私も7月24日に岸和田の地蔵参りの帰りにここを通ると、寒気がして、白いものが家の中に入ったり出たりして消えた。近頃、血気の男が4、5人、見物に訪れるが一人の時にしか現れないという。時々、青く光る火の玉も出る。

⑫古井より霊火よく出没す・・・神明の農人町に古い井戸がある。昔は民家があったが、いまは野原になっているが、こある日の夕暮れ、この井戸から緑色の火の玉が出た。昔、この井戸で死んだものの魂だろうという。

⑬川尻の上下に夜々怪あり・・・宿院の川尻に上下というものがいて、その家はあやしいことがよく起こる。明和5年(1768)、手代のものが小便にいくと、仁王のような真っ黒いものがいて、手代は小便もせずに逃げ帰ってきた。酔っぱらって寝ていると手の生えた手が顔を撫で回す。この辺りは大水道があり、蓋をして数年、掃除していない。あやしいものがいて、この付近の家はよく奇怪なことが起こる。

⑭妖猫の起居よく人に似たり・・・天神の片原町には昔は人家も少なく、天神の森で道も暗かった。南の入口をさる坂というが、ここは夜中に怪しいことがよく起こった。宝暦(1751~1764)の頃、蝋燭屋があり、そこの老猫は戸障子などを人間のように開け閉めする。夜中は油をねぶったりする。遠くに捨てにいったが、帰り道を覚えていて、人間よりも先に家に戻る。しかしある日、いきなりいなくなった。

⑮老猫よく人の話を聞く・・・湯屋中浜に私の知人の医者がいた。この家にも老猫がいたが、人間のいうことを理解していた。魚の番をさせると、他の猫を寄せ付けない。新しい紅絹の首輪をかけてやると、いつのまにか失ってしまったので怒ると裏のゴミ捨て場にいってくわえて持ってきた。下男をっている者がいると飛び掛かってやめさせようとする。しかしある時、猫が失敗をしたので怒ると、その日の夜からどこかへいってしまった。

⑯土砂場の妖怪人を悩ます・・・南宗寺町顕本寺の借家に由平がいた。南宗寺の裏の砂利場で砂利を掘っていると大熱が出て、たわ言を繰り返す。暴れるので5、6人で抑えないといけない。医者も怖がって来れない。祈祷をすると「我は土砂場に長く住んでいたものだが、この男は不浄を犯したからそこに住めなくなった」という。また元に戻すからといって祠を建てて奉った。すると男も回復した。

⑰戎町の土蜘蛛の陰火・・・延享(1744~1748)の頃、えびす町六間筋通りに夜中、あやしき火の玉がでる。丸くて、銀森の梢に下がったり、堀の上に留まったり、道を歩いたり、屋根の棟を伝ったりする。青色で、霊火ではなくて、土蜘蛛の火に似ていると当時の夜番がいっていた。そのうちなくなった。いまは木立も少なくて、怪しいことは起こらない。

⑱飢死の老翁子孫を殺す・・・安永2年(1773)、大黒町の蜂介には妻、子供2人、老父と住んでいた。老父が病気で下痢をするので食事を与えないでいると食べものが欲しいと訴える。隣の奥さんが見かねて密かに食事や祝い事のお膳、菓子なども与えたりした。ある時、老父から今生の限りで餅を食べたいと頼まれたが、奥さんは蜂介に知られると大変なことになるからと蜂介の妻に言伝しようとした。その様子を聞いた蜂介は腹を立てて追い返す。老父が死ぬと3日後の夕方、蜂介は震えて引きつけを起こし、隣の奥さんを呼びだし、亡くなった老父の声で「食事を頂いて嬉しかった。その礼をいいたかった」という。その45日後、蜂介はあがきながら死んだ。その夜に妻がまた震え出し、「餅を食べれなくて残念であった。山、萱原で待っている」といい、妻も死んだ。蜂介の子も同じように死んだ。わずか一か月で3人も取り殺された。もう一人の娘も死ぬだろうと思っていたが、そうはならず、この娘は祖父の看病で朝夕の茶湯を運び、優しく介抱したので逃れたのだろうという。

⑲老婆餓死して婦を殺す・・・大黒町であびこ屋という豆腐屋に老いた姑がいた。嫁はつらいあたり、食べ物を与えないので、衰弱し、ついに亡くなった。臨終のさいに枕から身をあげて嫁を睨んで「お前はむごい嫁だ。死後三日以内に恨みを晴らしてやる」と歯ぎしりしながら宣告した。嫁は恐ろしくて逃げだしたが、三日目の夜に狂い死にした。自分で喉をしめて物を食えない状態だったという。

⑳大小路浜の首なしの死体・・・昔、大小路の浜に首なしの死体が打ちあがったことがある。衣服も卑しいものではなく、まだ死んでまもない遺体で、なんでこうなったのか、誰にもわからなかった。最近、道頓堀の豊竹若太夫(1681~1764)がこの出来事を取り込んで浄瑠璃をやって流行っているという。狂言の題は『北条時来記』(これは享保11年・1726年4月に初演)という。

㉑七堂浜夜々霊鬼あり・・・昔、堺の北の庄に七堂伽藍があって、その西の浜を七堂の浜といったと古老はいう。この浜に夜な夜な怪しいものが現れる。日ごろから人の出入りがない場所だが、土地勘のある人がこの地を掘ってみると古い石塔や地蔵が多く出てきた。これらを墓地に移して施餓鬼をしたら、この頃は怪しきものは出てこなくなった。この場所も昔、墓地で、そこでなにか障るようなことをしたのだろう。

㉒三村の神霊悪穢場を悪む・・・南の芦原浜は漁師が多く住んでいる。この氏神の大寺の神輿は八月祭のさいに遷座するが、どれだけ快晴でもにわか雨が降る。ところがある時、神地の土を三尺ほど入れ替えたら神事のさいに雨が降らなくなった。そのさいに墓のものが出てきたりしたが、神地の場所も元は墓所であったが、それを知らずに神地としたので、それを戒めるために雨が降ったのだろう。

㉓床下の古碑迷ふ・・・大道筋えびす町に箱屋があるが、安永2年(1773)の春に家の者が代わる代わるに病気になる。有験の僧に占ってもらうと家の内に怪のものがある。これを取り除けばいいという。いろいろと調べると床下に古い石塔があった。墓碑もわからないがお寺に送って供養をすると、みんな病気が快復した。

㉔浅香山中にて大蛇を見る・・・浅香山には大蛇がでると昔からいわれるが、見たという人はいない。明和(1764~1772)の頃、農人町に作兵衛という男がいて、浅香山の東に畑をもっていて農作業をしていた。夕方、浅香山の南の堤を通って帰ろうとすると風もないのに芒がサワサワと動く。ふと見ると長さはわからないが大蛇がいてウロコが金のように光り、面は箕をあわせたようで、眼光もすさまじい。作兵衛は臥せっていたら大仙陵の方に大蛇はむかっていった。作兵衛はようよう家に帰ったが4、50日ほど患った。

㉕大蝦蟇の霊が人を悩ます・・・甲斐の町大道筋、木綿屋に長年、大蛙がいた。年々、こどもを産んで増えるのでうるさいと捨てに行ったが、また帰ってくる。捨て方が悪いのだと藁にくくって、海へ沈めたが、その日の夜から主人は大熱を出して妙なことを口走る。蛙の慰霊をしたら治った。

㉖大寺片原森の鬼の童子・・・大寺片原町は昔「瑞の森」といって暗い場所であやしきものがいた。雨傘がほどかれたり、雨夜には雨傘をとられたり、提灯の火が消えたりして有名であった。最近は家や人も多くなり、森も切られて、奇怪なことはなくなった。明和4年(1767)の冬・霜月に町の下役人が用事があってやってきた。八つ時(深夜2時)の頃に通ると、町の番屋の前に7、8歳のこどもがいた。顔を見ると目が大きく光ってみえる。足早に逃げたが、後から追いかけてくるような気がして振り返ると、顔は盥ほどもあり、目は月日のように光り、または鏡のようで、身長は軒よりも高い。生死の境と思いながら光明真言を唱えて家に帰って目を回した。4、50日ほど床に伏していたが、ようやく回復して、事の顛末を話すことができた。

㉗大小路の瓦屋の妖怪婚姻す・・・大小路の東に瓦屋何某がいた。この主人は殺生が好きで、魚や鳥や獣を狩って食べる。ある時、万代村の庄屋の美しい娘と仲人のおかげで結婚することとなった。輿入れの日に宴会を用意して、三々九度の杯を交わし、食事をとろうと思うと、座敷の方から百人ばかりの声でどっと笑いだした。何事か?とみると、誰もいない。食事もない。どういうことだと万代村にいくと、娘の家などないし、仲人は遠国にいっているという。狐狸にばかされたわけだが、常日頃から殺生をしていたので憎まれたのだろう。

㉘雷公内船の漬物を喰ふ・・・櫛屋町中浜に高須の半兵衛という長崎渡海の船頭がいた。長崎から堺に上るさいに順風だったのに、にわかに嵐に襲われた。錨をおろして停泊していたが、やがて雷が落ちて、みんな目を回した。そのうち嵐が去り、船玉明神さまのおかげだと御礼して、夕飯を用意しようとして桶を覗くと香の物がひとつもない。おかしいと探るが糠だけで中の漬物は全部無くなっていた。これは雷公の仕業だと船頭は語った。

㉙狐架空の津波を告げる・・・明和9年(1772)8月5日の夜八つ時(深夜2時)過ぎ、錦の町農人町で、大風がきてドウドウと鳴り渡って、「津波だ津波だ」と百人ばかりの声が聞こえ、西の海の方の家の人々は驚いて逃げる用意をしたが、何事も起きない。静かなままである。驚いていると、やがて夜が明けて、ますますみんなは怪しんだ。この事件の前に上(飢え)の王子の墓守のところに「異形のもの」がやってきて、「いまから堺のまちの連中を騒がしてやるから見物していろ」といって消え失せた。おそらく津波はこのものの仕業だろう。狐の類と思われる。

㉚上の町に狸の化物出没す・・・上の町はすべて大家で一町に両側で家は三軒ほどで、さびしいまちだ。ここに隠居屋敷があり、化物が住んでいる。明和の頃、私の知人が住んでいたが、夜になれば騒がしく、振動することもよくあった。ある夜、主人が外出して八つ時に帰ると、庭で女の子が掃除をしていた。箒をもって裏の方にいくが、台所では顔をそむけて、後ろ姿しか見えなかった。あるときは小坊主になって床の下から走って出てきたが、姿は見せるが顔は見せないという。

㉛宿院の天狗人を使つて遊ぶ・・・安永2年(1773)の夏のはじめ、宿院北半町のある家の男の子がいなくなった。祈祷をしても何もわからず、行方不明で、ついに葬式が行われた。4、5日ほどたつと兵庫の方から送られてきたが、何を訪ねても何も答えない。日にちが経つと、ようやく意識を取り戻してきたので、なにが起こったのか?と聞くと、その日は門前で見知らぬ山伏がやってきて、目を閉じよというので、その通りにしたら空中を歩いていた。いろんな名山や古跡、霊仏場を巡ったが、1日ぐらいのことと思ったら5日ほど時間が経っていたという。

㉜戎島米市場の変化・・・戎島米市場には狐や狸が多くてあやしいことがよく起こる。安永6年(1777)の夏、会所の写り取り(相場の書記)がうどん屋へいったら帰ってこない。探すと、宿院の浜磯部にいて、連れて帰った。どうしてあんなところに?と聞くと、うどん屋へ行こうとしたら道が多くて辿りつけなかったので帰ろうとしたという。足も裾も泥まみれであった。

㉝古室の怪異主人を苦しむ・・・明和2年(1765)の夏、上の町北野町に高林という医者がいたが、その家は妖怪屋敷といわれていた。ある時、雨戸より人が出入りする音がしたので、老母は老人が小便にいったのだろうと思って、ふと覗いたら、その姿は真っ白いもので、やがて消え失せた。またある夜、主人が小便にいくと同じく真っ白いものがふわふわとやってきて、やがて目の前にくると煙のように消えた。こういうことが度々起こったが主人は狐狸の仕業と相手にしなかった。しかし老母が怖がるので、やがて引っ越しした。

㉞夫婦鬼となり空家に泣く・・・湯屋山田町天神の前に道具屋があった。父、祖母、娘がいた。明和(1764~1772)の頃、父が病気になり、10日ばかりして亡くなった。祖母も病に倒れ、隣家の人も駆けつけたが、祖母も死んでしまった。その後、娘も同じ病に倒れ、7月の中頃、暑さが増して、ますます病が重くなった夜に、娘には庭に亡くなった祖父母が現れて嘆き悲しんでいる様子が見えた。夜が明けて、その様子を話して恐れていたが、ほどなく亡くなった。近隣の方が葬式を出したが、7日7日の仏事のあいだ、夜になると火の玉が出て、老母の泣く声が鳴り響いたという。そのあと長く空き家であったが、近頃、新築され、いまは怪しいことはおこらない。

㉟千日橋下より霊泉湧出す・・・明和元年(1764)2月、北の端千日橋の堤より霊泉が出た。ある漁夫がいて足痛で悩んでいたところ、僧侶がやってきて「近々、霊泉が出る。これは弘法大師の霊泉で、足の病気もこれで治る」と告げてどこかに去っていった。あやしいもんだと思っていたが、千日橋の湧水で足を洗うと、病気が治ったという。

㊱南蛇谷町の老翁薬を施す・・・南蛇谷町に藤兵衛という浪人がいた。11年間、毎日、大寺さんの社前で飴を売る店を出していたが、明和4年(1767)の秋に、奇妙な療治の店を始めて、いろんな人の難病を治した。無学で貧しいのにどこでそんな療治を覚えたのか?と聞くと、さる月の二十二日に大寺で奇相の老人が現れて「お前は素直な生まれつきで、長く貧しさに苦しんだが、この霊法を授けよう」と教えてくれた。その教えを守って治療を施しているという。

㊲山口日向の奇卜術・・・岸和田の東・土生村に山口日向という安倍晴明の末裔がいた。卜術に詳しく、家の奥に天社という神霊を祀って、妻には農業をさせ、自分は医者であった。明和2年(1765)の夏に堺・大小路の和泉屋仁平の女房が肩、腕が痛んで、いろんな医者にかかったが治らない。日向に会うこととなったが、日向は「これは薬では治らない。家の中に霊像があるはず。そのタタリである」というので家を調べたら先祖伝来の阿弥陀像があった。肩、腕が欠けていたので修復したら女房も完治した。

㊳金龍井の怪物よく人を奪ふ・・・甲斐町山口に金龍井がある。昔は禅林海会寺という大寺であったが、いまは南宗寺に移っている。だから今はこの場所は海会寺前という。その海会寺の井戸は龍宮に通じていて、あやしいことがよく起こった。明和(1764~1772)の中頃、何某という男が井戸のあたりで小便をすると井戸が鳴動して男はいなくなった。いろいろと探したが見つからない。また木屋という男も同じく井戸のほとりで行方不明になった。

㊴樹下を掘りて仏像を得る・・・安永3年(1774)の春、綿屋の何某が甲斐町中浜筋に住んでいた。樹木が好きでいろんな木々を移したり、植えたりしていた。ある時、大木を移そうと四尺ばかり掘ると何か固いものがあった。下人が掘り出すと、石仏であった。洗い清めて木の下に安置した。古い仏像で、珍しいものだが、どういう経緯で何年間も土の中に埋まることになったのだろうか。

㊵奸人の妻悪報を受ける・・・湯屋の町浜に何某という無道のものがいた。高利で金を貸し、返済できないと借人の女房を奪った。自分の妻と同居したが、2人は常に妬みあった。ある時、本妻が風邪で病に伏せ、どんどんと悪化し、妾を妬みながら死んだ。17日後、亡霊となって家に現れ、奥の方にいって消えた。それを見たものが亭主にいうと、亭主は仏道に励むと熱心に弔いをした。ある夜、妾の夢の中に妻の亡霊が出て来て、髪を振り乱し、怨みがましく睨みつけてきたので、妾があっと叫んで、その声に驚いてみると、妾は正気を失っていた。それから悩みだし、病に倒れ、妻の亡霊が恐ろしいといいながら死んだ。家もだんだんと衰えて、ついに亭主も滅んで、なにもなくなった。

㊶新田橋下の河童人を咬む・・・材木町の浜に松屋新田があった。そこに農民が行き来する丸木橋があったが、この橋の南詰は潮の勢いが強く、また川の中にどれほど深いかわからない底なし穴があった。そこに河童が住むといい、夏から秋にかけては大人も子供も誰も釣りなどはしない。昔、芋屋の13歳の息子と、十三屋という魚屋の12歳の息子がこの辺りで遊んでいたらイナという魚を見つけた。どっちか取るかと競争していたら、いきなり十三屋の息子が川の中にズブズブと引き込まれていった。芋屋の息子が助けようとするが、足を爪のある手で痛いほど握られ、恐ろしくて川から逃げだした。十三屋のこどもは新田の南の堤で見つかったがすでに死んでいた。その死体を調べると肛門が咬み破られ、避けていた。ここから五臓の血をすすったのだろう。河童の仕業である。

㊷超善寺い迷鬼出没す・・・ある日の夕方、超善寺の和尚がいたときに、怪しき姿のものが入ってきて、しばらくいたが、忽然と消えた。また和尚が寝ていたら、怪しきものが枕元に立った。和尚は「なにかいいたいことがあればいってみよ」というと、「私は昔、この寺の墓に葬られたものだが、もう誰も見舞いのものが来なくて、迷っている。和尚の慈悲で回向をお願いしたい」という。和尚は不憫なことだと思い、「名はなんという?」と尋ねると「暁夢信士」「夕露信女」の戒名を答えて消えた。翌日、調べると石碑があった。非業の死を遂げたものだった。和尚は大施餓鬼の大法会をした。明和3年(1766)の事で、これは和尚から私が直に聞いた。

㊸河童新川にて人を喰ふ・・・安永5年(1776)の夏、木櫛屋町の六間筋の扇屋で手間仕事をするものがいた。横町八百屋の息子と仲がよかった。ある時、浜に海水浴にいき、海の中で遊んでいたら、扇屋が「ワッ」と言い出して海中に沈んだ。八百屋の息子は怖くて逃げだし、人を呼び、扇屋を引き上げたがすでに死んでいた。これも肛門が裂けて食われていた。毎年、このようなことが起きる。後世の戒めになれと思い、書いておく。

㊹大仙陵に大鯰出現す・・・堺の辰巳(南西)に大仙陵がある。この山は昔、仁徳天皇が葬られたところで、日本国中から人が集められて陵が築かれた。山の中は名所が多くて有名だが、この回りに大きな堀があり、深さもどこまであるか知らない。虫や魚も多い。この堀にある時、忍び込んで網を引いたが、真っ黒の巨大なものが引っかかって、みんな恐怖で逃げ出した。最近もそれを見たものがいて、四間(約7.27メートル)あまりの大鯰であったという。

㊺池中の怪物網を奪ひ去る・・・大仙陵の堀で、また忍び込んで夜中に網を張るものがいた。なにかかかったので喜んで引き上げようとしたが、上がらない。次第に強く引かれて縄も切れてしまい、すべて打ち捨てることになった。一体、どれだけ巨大なものが中にいるのやらと噂になった。これより網を入れるものがなくなった。

㊻魂炎出て市中の飛行す・・・木の下町に物知りがいた。そのものがいうには、このあいだ夜八ツ時すぎに用事があって外に出て、ふと北の方をみると、盆ほどの大きさの青青とした火の玉が、ある家の軒の窓から出て来て、徘徊して飛んで行った。「これは一体、どういうことなのか?」と私に話をしたが、おそらく非業の死を遂げたものがいて、その死者の妄執だろうと思う。

㊼夢中に相通ず・・・えびす町六間筋に大倉屋何某がいた。長年の友人がいたが、その友人の妻と浮気をする夢を見た。ある日、その友人の妻が来て、縁先で酒を飲んでいると、妻は「夢というのは妙なものをみることがあって、じつは亭主と浮気をする夢をみたことがあるんです」と言い出した。亭主も驚いて夢の中身を語ると、お互い、全く同じような夢であったので、夢の中で契りあったのだなぁと大いに笑い合った。

㊽不積善の家に鬼児産る・・・車の町六間筋に淡路屋万兵衛というものがいたが、無道のことが多かった。その頃、子供が生まれたが、女の子で、容貌もよくなく、うつけで、唖だった。2人目は男であったが、十五か月で出産し、髪は赤く、2つの角があり、歯は生えて、牙があり、目も丸く光り、恐ろしく万兵衛は一目見て絞め殺した。世にいう鬼子であった。妻も悩んで、ついには病気になり、死んでしまった。不幸なことが続き、万兵衛もついに病死した。残された亀治郎という子がいたが乞食となり、亀亀と呼ばれて、うつけ者で、ついに安永2年(1773)の春に死んだという。

㊾死屍掌中の金を放たず・・・大小路に毎年、茶店を出して旅人を休めて施薬するものがいた。「なぜそんなことをしているのか?」と聞くと、市の町浜に何某といえるものがいたという。貧乏であったが、ある朝、海辺にいくと旅人が死んでいた。衣服もよく懐中に財布があった。財布を見ようとするが、死者が財布を握って離れない。そのまま捨てて帰って妻にそのことを話したら「それはどうせ誰かに奪われる。私たちにくれたら供養するからといいましょう」という。もう一度、元に戻って、妻にいわれた通りにいうと死者の握りしめていた財布が開いた。その金で懇ろに供養をして、あまったお金で商売を始めたら運が開けて栄えることになった。大小路の施薬はその死者への追善としてやっていますという。


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第46番札所。桑実寺。近江八幡市。安土町。

2020 年 6 月 24 日 Comments off
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