dracom祭典『空腹者の弁』観劇。 ウィングフィールドに劇場オーナーの福本さんは住んでいた。「劇場」は、かつて「家」だった。 …という衝撃の事実を間取りと即席のセットで復活させる。すると、どうなるか?もう、ビックリするぐらい、家。正確には、家の亡霊のようなものが立ち上がってくる。
dracom祭典『空腹者の弁』観劇。
ウィングフィールドに劇場オーナーの福本さんは住んでいた。「劇場」は、かつて「家」だった。
…という衝撃の事実を間取りと即席のセットで復活させる。すると、どうなるか?もう、ビックリするぐらい、家。正確には、家の亡霊のようなものが立ち上がってくる。
和室は和室に。キッチンはキッチンに。廊下は廊下に。リビングはリビングに。トイレはトイレに。まさか劇場に、そんな生活の、人生の、リアルな物語があったなんて。
かつて、ぼくがウィングフィールドで観劇した席がキッチンであったということを知った時の衝撃。キッチンでよかった。これが、もし、トイレだったら、もう、ぼくは立ち直れない。あの涙を、笑いを、感動を返せ。叫ぶしかない。吼えるしかないではないか。
いや、これから、もう、ウィングフィールドに入って、ぼくはどの席に座っても、この間取りを知ってしまった以上、劇場だと思えない。ここは、福本さんの家だ。ここは風呂場だ。そこは廊下だ。あそこはトイレだ。どうしてくれるんだ?泣けない。笑えない。感動できない。
しかし、よくよく考えれば、なによりも、恐ろしいのは、「家」を「劇場」にしてしまったという福本さんの狂気。劇場にリアルな、ホンモノの、人生の場が展開されることは、まま、あります。優れた演劇作品とはそういったもの。ところが、リアルな、ホンモノの、人生の場を、劇場にしてしまうのは、そう多くはないはず。
福本さんの演劇(ウィングフィールドで上演した数多くの劇団)への愛の深さに打ち震えましたな。そして、その愛に答えようと奮闘するdracomの劇場(ウィングフィールド)への愛にも。
『空腹者の弁』。参りました。素晴らしい。快作。