道頓堀のたこ焼き。「一皿100円」やのうて「1個100円」。もはや大阪人は道頓堀でたこ焼きは買いません。食いません。完全に観光客の食べもの。海外からのインバウンドのお客さんが「安い!うまい!」というて買って食べる。
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昔、僕がこどもの頃、大阪市営地下鉄の新金岡駅を地上に出ると、すぐ目の前にたこ焼きを売る屋台の軽バンがよく止まってました。
販売しているのはオバチャンで、軽バンの後部を改造して、そこにたこ焼き器を置いていた。一皿7個100円で、地下鉄の利用客をアテにしていたのだろう。しかし、たまにオトンやオカンが気まぐれで買ってくれる時もあり、嬉しかった。
ある時、うちのオカンがオバチャンと話し込むことがあって、オバチャンの身の上話になり、聞くとオバチャンは早くに夫を亡くしてシングルマザーとなり、こどもを育てるために、たこ焼きの屋台を始めたということだった。
うちのオカンはその話を聞きながら、いきなりもらい泣きし始めて(オカンはすぐもらい泣きする)恥ずかしかったが、普段、何気なく食べていたたこ焼きにそんな物語があるのか…と幼心にも刻まれて、忘れられない。
このたこ焼きが僕のたこ焼きの味の基準であり、値段の基準です。そんな美味しいたこ焼きでもなかったんですw 普通の味ですわ。でも、あれが大阪の味やないかと思う。
本日は北大江まち歩き。釣鐘町にいったら今日は「時の記念日」ということで釣鐘を鳴らし放題でした。
寛永11年(1634)に将軍・徳川家光が上洛後に大坂城に入った。大坂三郷の惣年寄などが酒樽や鰹節を献じて祝賀したところ、家光から大坂町中の地子銀(要するに固定資産税)の永代赦免が命じられた。
大坂は夏の陣で焼け野原になり、その戦後復興の最中であったので幕府から減税されたわけです。まあ、増税して復興予算、支援金、助成金といいつつ癒着企業や身内の団体に金を配るより、最初っから全体にお金が行き渡るように減税する方がすこぶる効果的ですわな。
巨額の地子銀を永代免除された大坂郷民は後世、子孫まで、その幕府の恩恵を伝えるために釣鐘を作って町中に時を知らせることにした。
実際に江戸時代、船場商人はこの鐘の音を聞いて日々の生活を送りました。朝の鐘を聞いたら生駒山から登る朝日を拝みながら南無妙法蓮華経を唱え、夕方の鐘の音を聞いたら大阪湾に沈む夕陽を拝みながら南無阿弥陀仏と合掌したとか。
お金儲けは神仏頼み。「朝題目夕念仏」の都市が大坂・船場で、そのリズムを刻んだのが、この釣鐘です。
いわきにいって驚いたのが圧倒的に車社会であること。実際に車依存率は中核市の中では日本一の高さを誇ります。
車で移動していたら、時速30キロや時速60キロなんて移動手段の感覚では、まちのことなんて、地域のことなんて見えてきません。わかりません。まちや地域のことが見えてないから、自然と、まちや地域への興味関心も薄れていくし、知らないし、まちづくりをやろうにも「地に足がつかない」話ばっかりがワンサカ出てくる。空回りしてしまう。
まちづくりは歩くことから始まる。だからまちは「歩ける」ことが重要で。いわきでは平の商店街のみなさんが旗振り役をやって平の中心市街地(元・城下町)でウォーカブルな都市環境を再構築しようと「たいらほこみち(いわき駅前公園化計画)」活動をやってます。素晴らしい。
https://www.facebook.com/tairahokomichi
いわき時空散走もツアー実施の時は、自転車という手段を用いてますが、実際は徒歩でもいける範囲(約10キロ以内)でマップを作成し、ツアーを構築、実施しています。
そもそも時空散走マップを作るさいに、まず現地、現場をじっくり丁寧に歩いてますから。リサーチは常に歩きが基本です。歩かないとまちはわからない。地域が見えてこない。音や匂いや風や色や光や息吹が感じられない。
いわき時空散走は車社会偏重を是正して、自分たちで歩いて楽しんだり、自転車で巡って遊ぶことができる、ヒューマンスケールなまちを取り戻そう!という社会変革であります。ちょっと大袈裟ですがw
#いわき時空散走
#たいらほこみち
「文治元(1185)年春、当時の四天王寺別当慈鎮和尚の請によりこの地を訪れた宗祖法然上人が、四天王寺西門近くに結んだ四間四面の草庵・荒陵の新別所に止住され、日想観を修された事に始まる。平安期以降日想観の聖地とされるこの地で、法然上人は四天王寺参拝に訪れた後白河法皇と共に日想観を修された」
以上は「法然上人二十五霊場」公式サイトから抜粋した一心寺の開創に関する説明。
https://www.25reijo.jp/reijo/7.php
興味深いのは法然上人と後白河法皇が日想観を行ったのが1185年であること。この年は実は「壇ノ浦の戦い」が行われた年であったりする。
壇ノ浦の戦いは正確には元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に起こった歴史的事件で、この戦いの結果、平家一門は滅亡し、安徳天皇も数え歳8歳の若さで入水して落命してしまった。
この安徳天皇の母は平清盛の娘・徳子であるが、父は高倉天皇であり、つまり安徳天皇は後白河法皇の孫(もちろん清盛の孫でもある)となる。後白河法皇は愛する孫を失った傷心の年に京都から四天王寺にやってきて日想観を行ったことになる。
いまは埋立などで海岸線は遥か彼方に西進してしまったが、中世には四天王寺の西を望めば、そこには難波津(大阪湾)が眼前に広がっていたという。この難波津の西は瀬戸内海に繋がり、瀬戸内海をさらに西に進んでいけば、やがて関門海峡に至るが、そこがつまり壇ノ浦である。
一心寺の縁起を調べても法然上人と後白河法皇が日想観を行ったのは「1185年の春」とあり、曖昧な記述なので壇ノ浦の戦い(4月25日)の前なのか?後なのか?はいまいち判明しない。判明しないが、この世の栄華を誇った平家一門が源氏に追い詰められ、滅んでいくという歴史的な瞬間であったことは間違いない。
難波津に沈んでいく夕陽を眺めながら日想観を修した後白河法皇と法然上人。南無阿弥陀仏を唱えて合掌しながら、その胸中に去来したものは一体、なにであったか。
画像は「一心寺縁起絵巻」より。日想観を行う法然上人と後白河法皇の図。
堺・七道。水野鍛錬所さん。久しぶりのまち歩きでの訪問。5代目に工房で和包丁の制作過程や日本刀の構造、水野鍛錬所の歴史など、いろいろとご説明を頂きました。
堺は「ものづくり1600年」の歴史を誇る(と堺の人はすぐいうw)。古代、古墳時代から鉄生産に携わり、中世の鋳物、刀、鉄砲、近世の包丁や近代の自転車と、ものづくりの歴史は連綿と続いている。水野鍛錬所さんに来ると、そういう堺のものづくりの歴史や遺伝子が、いまだに現役で、現在進行形で、生きていることがリアルに体感できる。わかる。ほんまに堺の宝ですな。素晴らしい。ありがとうございました!
土生郷のまち歩きのあと、土生神社の社務所でまち歩きの参加者や氏子のみなさんと懇親会。交流会。
土生郷の歴史は古い。条里制の跡もあれば土生神社も式内社である。熊野街道も通る。地元には豪族の土生氏が長く統治者として君臨していたらしい。
いまは「岸和田市土生」であるが、かつては「土生郷岸和田」といわれた。岸和田よりも土生の方が山手で、古くから発達していて、だから岸和田よりも土生の方が名が通っていた。
山手にあるから当然のことながら田畑の水利権も土生郷が牛耳っていた。山の土生郷から海の岸和田に水を流す。それで岸和田に田畠が作られて人が住めるようになった。いまも岸和田の農業関係者は水の利用料を土生の水利関係者に納めているとか。
栄光の土生郷であるが、それが没落するキッカケになったのが岸和田藩が出来て岡部公がやってきたこと。岡部公は、かなりの重税を強いたらしく、それに反発して地元側が強訴した。その強訴の主唱者のひとりが土生氏だった。結果として土生の一族は反逆者として逮捕され、処刑される。
土生郷のために!と立ち上がった義民であり、処罰されたが、地元では悲劇の英雄である。岡部公の目があるから大っぴらに墓などは作れなかった。そこで供養の塚は作ったが、それを「歯神さま」として伝承して密かに村の中で祀っていたらしい。
歯神さまだから歯に効く。歯に悩む村人が歯神さまにお参りして痛い歯には歯神さまの石を当てて「治りますように」と願掛けした。霊験あらたかであったのか、一時期は老人の集会所も出来たという。
僕がとくに面白いと思ったのが「岡部公に歯向かった」から「歯神さま」になった?という親父ギャグみたいな由縁であろうか。いや、非業の死を遂げた土生氏の残念無念の歯噛みを思って、単なる虫歯の痛みぐらい我慢しろ!ということなのかも知れない。虫歯の痛み、超つらいがw
ちなみに没落した土生氏の頭領だが、子孫の方がいて、それは岸和田から和歌山方面に落魄れていったらしい。土生郷ではその御恩を忘れずに和歌山の土生氏の方に長くお米などを贈ったりもしたそうだ。いまは交流がないという。残念なことです。後裔の方に会えたりしたら面白い言い伝えのひとつやふたつ、聞けるかも知れないが…。
岡部公の土生郷に対してのイヤガラセ(?)はこれだけに留まらない。土生郷の村人の墓をじつは強制的に移転させた。土生郷内に泉光寺という臨済宗の寺院があるが、この寺院の檀家が岡部公だった。泉光寺には歴代藩主の墓があり、毎月、岡部公が月参りをする。そのさいに土生郷を通行するが、その途上に土生郷の墓地があり、邪魔であるということで下松の方に移したという。
土生郷の墓であるから、もちろん長く豪族をしていた土生一族の墓もあったに違いない。しかし、もはや土生氏の時代ではなくて岡部公の時代であるというのを土生郷の住民に判らせないといけない。墓の移転は、明らかに岡部公の権力を見せつけるためのデモンストレーションではないだろうか。
基本的に岸和田では岡部公は名君として褒め称えられて顕彰されている。しかし物事はそんなに単純ではない。温度差、地域差は当然ある。土生郷から眺めてみると岸和田、岡部公の物語もこういう風に語られるのか…と興味深かった。
昔は大家族だったから親・兄弟・親戚一同の中に「いろんな人」がいた。「エリート」や「出世頭」もいれば「どうしようもない奴」や「大変な人間」もいたりした。一つ屋根の下で暮らしてるから、そういう人間になる「事情」も見ていて、察していて、よくわかっていた。そういう複雑な家庭に育った人たちが世の中に出て社会を作るから、社会にも、ある種のキャパシティがあり、寛容さが担保された。
いまは少子化、核家族化で「身内」に「いろんな人」が必然的に少ない。ある意味、平穏・平安な家庭で暮らして世の中に出るから、そこで初めて「いろんな人」に出会って衝撃を受け、拒絶反応が出てシャットダウンしたりする。理解が及ばない。自分の中にはいない「他者」と遭遇してクラッシュしてしまう。そういう人たちが増えていくと必然的に社会そのものから寛容性が失われていく。
平穏・平安な家庭に生まれ育ったことは、とてもいいことです。それがダメなことだとは全く思わない。ただ、だからでこそ「いろんな人」「他者」に触れる(触れてしまう)機会をどのように担保するか?が非常に重要になってくる。そして、それは結局のところ、自分の環境、世界観からの「越境」ということになる。
越境のための道具がアートだったり、観光だったり、逍遥だったり、巡礼だったり、遊びだったりする。そういう道具をたくさん持っている人は、やっぱり、人間に幅がありますわ。おもろい。そして、やさしい。
堺市役所。21階にて。さいとうたかを展。いつまでやってるんやろう?ずっとやってますが。
さいとうたかをの自伝などによるとゴルゴ13ことデューク東郷のモデルのひとりは堺の福泉町立中学校の恩師・東郷麿智夫という。近所でも評判の悪ガキだったさいとうたかをは、ある日、学校のテストを白紙で提出した。東郷先生はそれを一瞥して「これは君の責任で提出するのだからちゃんと自分の名前を書きなさい」と諭したという。
無回答の白紙を咎めるのではなくて記名することで覚悟を求めた。「人間社会の約束事」「世の礼儀」を初めて教えてくれたのが東郷先生であったと、のちにさいとうたかをは述懐している。
さいとうたかをの故郷の福泉の近くには信太山があった。ここは戦前は帝國陸軍の演習場であったが戦後は米軍が接収した(現在は自衛隊の駐屯地となっている)。信太山は米兵だらけとなり、その中の誰かが10セントブックスを山の中に捨てた。
10セントブックスは前線で戦う米兵のストレス解消、憂さ晴らしを目的としたもので単純明快なストーリーでアクション、バイオレンス、エログロが詰め込まれている。要するに頭を空っぽにしても読めるような低俗低級安価なペーパーブックであった。それを拾ったのが若き頃のさいとうたかをだった。
さいとうたかをは絵が描きたくて、しかし戦後間もない頃で家は貧しく、腹も減るし、紙もないので、もし米兵に見つかったら殺されるかも知れないという命懸けの思いをしながら信太山に密かに忍び込んだ。そして食べるものや紙を探したりしているうちに偶然、10セントブックスを拾い、その世界観に衝撃を受け、魅了された。
その後、さいとうたかをは、こども向けの漫画ではなくて青年、大人をターゲットにした「劇画」の作家としてデビューし、ついにはギネスも認める世界最長の漫画『ゴルゴ13』の作家として大成功を収める。その劇画の萌芽が、じつは信太山の名もなき米兵が捨てた一冊のペーパーブックだったというのは歴史の皮肉というべきか悪戯というべきか滑稽というべきか…。
アメリカの漫画文化の代表はディズニーだが、その薫陶を受けたのが手塚治虫。手塚治虫は祖父は司法官、父は住友のエリート社員で毎年、正月になると家族で朝日会館(朝日新聞の文化施設)でディズニー・アニメを観て高級レストラン「アラスカ」で洋食を食べていた…というような洗練されたブルジョワジーであった。さいとうたかをとは、大違いの出生である。
手塚治虫は戦後、日本の漫画文化の第一人者となるが、その手塚漫画に「あんなのはこどもの遊びですよ」とアンチを唱えたのが、さいとうたかをらの劇画集団であった。結果、手塚は虫プロの失敗・倒産などもあり、「終わった漫画家」扱いをされて辛酸を舐める。しかし青年漫画に活動の舞台を移し、「ブラックジャック」「火の鳥」「ブッダ」といった「劇画」で奇跡の復活を果たす。
手塚作品の初期の「アトム」「リボンの騎士」と、後期の「陽だまりの樹」「アドルフに告ぐ」などを見比べると、全くタッチが変わっていることに気づく。必死になって劇画の手法を学び、取り入れて自身の表現を進化させた。この辺が手塚の凄いところで、さすが「マンガの神様」ですな。
ディズニーと10セントブックスというアメリカ文化のハイカルチャーとローカルチャ―が手塚治虫の漫画とさいとうたかをの劇画の源流にある。ふたりとも大阪人であるが、手塚はキタの人(豊中、池田、宝塚)で、さいとうたかをはミナミの人(堺、和泉)で、大阪の郊外都市文化圏のコントラストがまた面白く、興味深い。
堺・シマノ自転車博物館。博物館では散走の取り組みに詳しい神保さんにご案内頂き、いろいろとお教えいただきました。
散走の話よりも自転車の歴史、文化の話が主でしたが要するに散走という概念もポッと出てきた言葉ではないということでしょう。200年に渡る自転車の開発、発展、紆余曲折や試行錯誤、可能性の追求があり、その流れの中に散走という自転車文化の提唱があり、位置付けられている。博物館を巡って、よくわかりましたなあ。
いろいろと話をお聞きして、また、こちらもいわき時空散走の取り組みをご紹介させて頂きましたが、神保さんからは「面白い!」と太鼓判を押されたので、よかったなあと思いますw
堺といわきと。散走ネットワークで繋がりを模索したいし、新しいプロジェクトも起こせるのではないか?と思ってます。またオモロイことはじまったらいいますんでw お楽しみに!