『南極1号伝説』。南極探検隊は、ほんまにダッチワイフをもっていったんか?
公式には認められてないが越冬隊隊長の西堀栄三郎が書いた『南極越冬記』に記述がある。ダッチワイフは「ベンテンさん」と呼ばれて、元は銀座のデパートの和服売り場に会ったマネキンとか。それを改造してゴムとプラスチック製の局部、腰と臀部を湯で暖めるための金属缶が取り付けられた。
ところが改造を受け持った業者が行為の邪魔になると太腿から先を切断。これが隊員に不評で、ただの一度も使われなかったという。当時の『日本週報』では「南極妻処女で帰る」という記事がでた。
凄いのは明治時代に南極探検に挑んだ白瀬矗。白瀬はダッチワイフなどは持って行かなかったが、代わりにペンギンを獣姦したという。白瀬矗…。
「『無人警察』はてんかん差別である」と糾弾され、それに反駁して書かれた筒井康隆の『覚書』。1993年の文章とか。もう24年前か。
筒井康隆が朝日新聞に『朝のガスパール』を書いてたのが、1991年10月から1992年3月末。パソコン通信で読者とやり取りして、ストーリーがどんどん変わっていく。変わっていく内実まで暴露する。
メタフィクションの連続。脱構築の小説。そんな小説を読むのは産まれて初めてで。当時のぼくは13歳。毎朝毎朝、衝撃でしたな…。
■ウィキペディア:朝のガスパール
https://ja.wikipedia.org/…/%E6%9C%9D%E3%81%AE%E3%82%AC%E3%8…
この小説には世界が5重に存在する。オンラインゲーム「まぼろしの遊撃隊」内の世界、そのゲームに熱中する主人公達の世界、その主人公たちの物語を書いている(という設定の)小説家(筒井康隆ではない)や編集者の世界、その小説家の新聞連載に影響を与えている投書やBBSの世界(作者筒井康隆の脳内とも言える)、その投書を書いたりBBSに書き込んだりしている読者(現実)の世界である。通常ならば互いに交わるはずのない5つの階層に、筒井ならではの文学的実験(メタフィクションの手法)が試みられる。
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※以下文章は「高校国語教科書問題について」さんのサイトより引用m(_ _)m
http://jepnet.jp/jepnet/KOKUGO/kyoukasyo.html
http://jepnet.jp/jepnet/KOKUGO/oboegaki1.html
小説は、作家がそれをひとつ書くたびに必ず誰かを傷つけているという芸術形式だからです。作家がひとり世に出れば、通常その周囲は死屍累々、特に日本の私小説などでは多く家族親戚を傷つけ、他人を傷つけ、そのことによって本人も傷つきます。欧米では小説のこうした不可避的な機能を逆手にとったブラック・ユーモアの伝統があります。
小生は十七世紀のイギリス、スゥイフトの著作にまでさかのぼることのできるこのブラック・ユーモアという文学的伝統を守ろうとしている作家のひとりです。
ご存じのようにブラック・ユーモアというのは、人種差別をし、身体障害者に悪辣ないたずらをしかけ、死体を弄び、精神異常者を嘲り笑い、人肉を食ベ、老人を組り殺すといった内容を笑いで表現することによって説者の中の制度的な良識を笑い、仮面を剥いで悪や非合理性や差別感情を触発して反制度的な精神に訴えかけようとするものです。
しかし今回問題となった「無人警察」という作品は、教科書に収録されただけあって小生の作品の中では比較的ブラック・ユーモアの毒の薄い作品です。強いて言えば管理社会の国民に向けられる代表的な顔としての警察官に対して毒の矢を放っていると言えますが、その毒の効果を倍加すべき「笑い」は皆無です。したがって、もしこの「無人警察」が糾弾されるのであれば、小生の他の多くの作品はより強く非難され糾弾されてしかるべきでしよう。
大阪文壇で要注意が藤沢桓夫(ふじさわたけお)。澤やなく沢。武、恒やなく桓。男やなく夫。藤沢武夫(ふじさわたけお)は本田宗一郎の名参謀で全く関係ない。石濱恒夫(いしはまつねお)が藤沢桓夫の従兄弟で大阪の作家。藤島桓夫(ふじしまたけお)は演歌歌手で藤沢桓夫が芸名の由来。ややこすぎるわ!!ww
画像はふじさわたけおとふじさわたけおといしはまつねおとふじしまたけお。
【宮城県】河北新報の畠山さんの投稿よりm(_ _)m 企業研修でまわしよみ新聞。ありがとうございます〜!新聞記事をネタにビジネスアイデアを考える新聞ハッカソンというのも実施したとか。気になる方は畠山さんにメッセージしてください〜!^ ^