豊中・岡町まち歩き。奥野家住宅。ご当主の奥野さんにご案内されて蔵カフェ「桜の庄兵衛」の2階を案内される。奥野さんは民芸にお詳しく、そのコレクションを展示しているとか。年始なので戎大黒、鶴亀といった縁起物が並んでいた。奥野さんはガラクタといいますが、日本の民芸のみならず、アジア、アフリカ由縁のものもあって興味深い。
どこでこうたりしてはるんですか?とお聞きしたら「天王寺さんの市ですわ」と。掘り出しもんが出るそうです。なるほどなあ。たまに僕も市をふらふら眺めたりしますが、こうたことはないなあw
豊中・岡町まち歩き。大阪府建築士会さんからのご依頼で3/9にまち歩きをしますが、その下見。岡町のまち歩きは6年前にやっていて、僕も久しぶりなので、いろいろと再確認。二本松がなくなっていたのが痛かった…orz
畜魂碑はかつて豊中市営の屠場が岡町にあったことの名残。屠場は豊中村、豊中町の重要な財源であったという。牛にのったお釈迦さまが珍しい。
赤い屋根の家は山田洋次監督の生家。いまも個人宅として使用されている。山田洋次監督は2歳までこの家に住んでいたという。
原田神社はいまも地域コミュニティの要で、歴史は古い。ここは神社の森、社叢から弥生時代の銅鐸が出てきている。周りには桜塚古墳群があり、いつから神域であったのか。北摂きっての古社ではないか?と思う。
大阪市中央区役所から大阪市教育会館までまち歩き。画像は「兵部大輔大村益次郎卿殉難報国之碑」。
やたらと巨大で大袈裟で厳めしいが建立されたのが昭和15年。日本は挙国一致の大政翼賛体制となり、皇紀2600年で日本国中が天皇万歳、軍国主義万歳で狂っていた時代のもの。大村益次郎は帝國陸軍の父であるので、その顕彰として、こんなものも建てられた。
発起人の名前が凄い。伊藤忠兵衛、稲畑勝太郎、林銑十郎、東條英機、鳥井信治郎、種田虎雄、大林義雄、奥村信太郎、片岡安、竹中藤右衛門、中山太一、村山長挙、野村徳七、久保田権四郎、栗本勇之助、松岡洋右、松下幸之助、鴻池善右衛門、小林一三、小寺源吾、高津久右衛門、駒井徳三、江崎利一、寺田甚吉、安宅弥吉、荒木貞夫、森平兵衛、森下博、杉道助…。
軍部、軍隊関係は当然だが、大阪財界の錚々たる面々の名前が連なっていて、いやあ、壮観である。壮観ではあるが、やはり、この人たちはあの時代の狂気を賛美した戦争協力者ということになろう。時代の罪ではあるが、ここに名を刻まれているということは、決して忘れられてはならない。
和歌山。田辺市。高山寺。ここは植芝盛平の墓と南方熊楠の墓がある。
田辺は「三偉人」がいるらしく、植芝盛平、南方熊楠に、あと武蔵坊弁慶だという。弁慶だけいきなり平安時代、800年以上前の人で、いや、もうちょっと近代に偉人おらんのか?と思って調べたら片山哲がいた。ええやん。片山哲で。
この高山寺には、かつて猿神社があり、そこは熊楠の植物採集、菌類採集の場であったという。ところがこれが明治政府、西園寺公望内閣が1906年に発令した神社合祀令、一村一社令によって破壊され、無くなってしまった。激怒した熊楠は明治政府を猛烈に批判した。その後、反対運動が広がり、結局、神社合祀令は1920年に廃止されたが、後の祭りで、すでにそれまで日本全国に20万社あった神社が3分の1まで減ってしまったという。
明治政府の廃仏毀釈(神仏分離令)は、いろいろと地域コミュニティに禍根を残したが、この一村一社令も廃仏毀釈に匹敵する世紀の愚策であったと思う。西園寺公望とか、この一点で僕は好かんw
熊楠の墓には御供物はなかったが、盛平の墓には御供物があった。ミックスナッツ。なんで?w 合掌。
和歌山。田辺市。植芝盛平記念館。
合気道は日本の武道の中でも特異であろう。相手の力(気)を利用して、同化、受け流して相手を制する。他力の武道というと関係者各位からいろいろと怒られそうだが、自力で相手を捻じ伏せる空手や剣道、柔道といった武道とは、ちょっと方向性、ベクトル、思想が違うという気がする。
植芝盛平は大本(大本教)の出口王仁三郎と邂逅し、私淑して、その人生観、宗教観、生命観に多大なる影響を受けたという。ちょっとスピ入ってるというとアレだが、不思議の武道家である。
じつは僕はこどもの頃から空手をやっていて、これは、まあ、暗黒歴史でもあるから、あんまり人にいってなかったが、父がジャッキー・チェンが好きすぎて、それでいきなり僕に「空手をやれ」とムリヤリ道場に入門させられた。
ジャッキー・チェンはサーカス団上がりで、拳法の人であって、まったく空手とは違うが、父の理解では拳法も空手も同じで、たぶん本人が強い男になりたかったのだろう。父は身長が低く(160センチなかった)小柄であるが故に「男らしさ」「雄々しさ」に憧れたようなところがあった。その思いを息子の僕に託したという気がする。
託された僕は、まったく空手に思い入れはなく、道場通いは苦痛以外の何者でもなかったが、なんだかんだで中学までやり通して意外と頑健な身体になった。結構、若い頃からハードな仕事量をこなしてきたが、それが成せたのは空手のおかげではないか?と思ったりもする。若いうちに武道をやらせるのは大事なことかもしれない。押忍!
植芝盛平記念館は植芝盛平の人生が紹介されているが格言、名言のようなものが並んでいて「合気は愛気じゃよ」には笑った。親父ギャグやがなw 意外とユーモラスな人柄であったかも知れない。
きました。お手紙。前回、訪問してきた某キリスト教系新宗教の方から。
僕の母方の祖父母は霊友会に入信したが、新宗教の第一世代は自分たちで「この宗教(霊友会)を選択した」といった自覚がある。棄教や信教の経験がある。
しかし第二世代の母となると生まれた時から両親から霊友会の考え、教えに染まってきたから全く他の宗教と接点がない。新宗教の第一世代よりも第二世代の方が、ある意味、いちばん新宗教にはまりやすい。
僕は霊友会の第三世代(脱会者)となるが父が全く霊友会活動に無関心(ただの一度も題目を唱えたことがなかった)であったので、それが母の霊友会活動への疑問、違和感、不信に繋がっていった。これがもし父母、両親共に霊友会の信者であったならば、おそらく僕はなかなか霊友会の信仰から抜け出すことは出来なかったろう。
この聖書教育のボランティアの手紙を持ってきたのが母と娘の二人組でして(おそらく。顔がそっくりでしたから)。娘が話をして、母はじっと後ろに控えて娘の言動を監視しているかのように一言も喋らない。手紙も娘が書いているようですが、しかし、この手紙の後ろに母の影がチラチラと垣間見える。新宗教の世代問題は根深いです。
須く信仰とは個人のものです。家のものではない。先祖代々や自分が信仰しているといっても、その神仏を次世代や子々孫々に押し付けてはならない。先祖代々、自分と信仰が同じなら、それは幸せなことだが、ズレだって生じる。宮沢賢治は浄土真宗、念仏を捨てて法華を信仰した。父(浄土真宗僧侶)との確執は賢治の深い懊悩となった。
信仰心や宗教性もまた性差やジェンダーのようなものです。個人性、固有性がある。その人のスピリチュアリティを尊重しないと歪んだ家庭になってしまう。
45歳を振り返る。いわき時空散走がはじまったので、ほんまにいわき三昧でした。まさか自分がサイクルツアーのプロデューサーをやるとは思わなかった。人生は予想外のことが起きるが、しかし、ありがたいご縁です。深く感謝を。
46歳にもなると夢とか目標とか、そんな大袈裟なことは特になく。健康でありたいが、それは仕事をしたいから。目の前の仕事を全力に。公共財、社会財、コモンズを作っていく。淡々と、粛々と、やるのみです。
■3/30(土)13時:百年長屋にて歴史講談まち歩き「細川ガラシャ物語」
https://www.facebook.com/events/1054450578961682/
百年長屋さんにて歴史講談まち歩きです。細川ガラシャの講談を聞いたあとにゆかりの地を巡ります。第1部(13時30分~15時)の講談は旭堂一海、第2部(15時~17時)のまち歩きの案内人は陸奥賢です。
■会場:百年長屋
http://nagaya100.sblo.jp/
〒537-0025 大阪市東成区中道3丁目2−28
■参加費:3000円(1部・講談会のみの方は1500円)
■お申込み:080‐2535‐6937(百年長屋)
■お問い合わせ:info@sakai-sozoro.com(担当:ハマダ)
■企画・デザイン:濱田さち
【いわき時空散走】湯本リサーチ。旅館古滝屋さんの中にあるのが原子力災害考証館furusato。
■原子力災害考証館furusato(公式サイト)
https://furusatondm.mystrikingly.com/
古滝屋の里見 喜生さんとは一度、御相伴に預り、楽しくお酒を飲んだことがありましたが(その節は本当にありがとうございました!)湯本温泉の薬効や大阪のまちの話で盛り上がったりして考証館の話にはならなかった。モヒート最高に美味かったしw
それ以降も何度か個人的に考証館を訪れたりしているが、ここは何度きても言葉に詰まる。いや、いろんな思いや気持ちや想起するものがあるが、言葉にすると大事な核心の部分が零れ落ちるような気がしてしまう。
言葉ですべて伝わるものではない。言葉では伝わらないものがここにはある。だからでこそ言葉を尽くす必要がある。ここは過去、現在から未来に繋がる対話の場です。考証というのは、そういう意味でしょう。
去年からご縁があって、いわき時空散走のプロデューサーになり、いわきのリサーチを繰り返して、多種多様な人や歴史や風土や文化や物語に触れてますが、いわきというまちのコアのひとつは間違いなく湯本の、古滝屋の、原子力災害考証館furusatoでしょう。
いろんな人にここを訪れてほしい。ここにきて写真を眺めて、解説を読んで、展示品を直に指で触れて、佇んでほしい。そして語り始めてほしい。
※追記
とりあえず「来てほしい!」「訪れてほしい!」の一点なのですが、原子力災害考証館についてはやっぱり小松 理虔さんの「小名浜ピープルズ」の連載記事が秀逸です。これもぜひとも読んでほしい。
■温泉宿・古滝屋の原子力災害考証館
https://satoyamasha.com/series/onahama-peoples/02-furutakiya
大阪まち歩き大学!大阪市立公文書館へ。「博覧会と大阪」の企画展を拝見。
じつは大阪は博覧会が少ないのでは?というのが最近の気づき。明治、大正、昭和前期の博覧会の会場は京都か東京が多い。大阪人のメンタリティとして博覧会という形態はあっていないのではないか?と推測している。
やはり商都・大阪は展示(エキシビジョン)よりも売買(トレード)のまちであろう。日々、日常の中に店舗、商店街、市場、マーケットがあり、啓蒙的な博覧会なんて特に必要なかった。海遊館いって魚を見ても「あいつ、うまそう」とかいうんが大阪人であるw
博覧会をやるたびに大阪は大阪らしさを失っていったのでは?というのが僕の見立て。やるべきやおまへんw