大阪市文化財協会が維新行政、大阪市によって解散させられようとしているとか。寝耳に水で驚いた。やりかねないとは思っていたが…。大阪府文化財センターと統廃合する予定という。
しかし大阪市文化財協会の仕事と、大阪府文化財センターの仕事は、方向性や性質、性格が違う。統合するとしても予算は現状維持にはならず、大幅カットされるのではないか。そうなると大阪市文化財協会にとっても、大阪府文化財センターにとっても改悪である。大阪の文化的損失は計り知れない。
残念ながら大阪は、経済的に凋落、没落の一方である。それも一朝一夕のことではなくて、遡れば戦前の挙国一致、大政翼賛体制によって東京一極集中化が国策によって強烈に推し進められた時代から、そういう流れは続いている。戦後日本も基本的に、そうした東京一極集中化路線(東京は頭脳、地方は手足に過ぎない)を踏襲してきたが、地方都市ナンバーワンの大阪は、ある意味、最大の犠牲者であり、その活力を根こそぎ奪われてきた。1970年の大阪万博なんてのは大阪財閥の実力でもなんでもなく、栄光の大阪財閥が官僚統制に屈したことの歴史的敗北の象徴でしかない。だから僕は嫌いです。大阪万博w
東京一人勝ち、大阪一人負けの状態(結局、地方都市は全て負け続けているが)。そのルサンチマンから大阪都(副首都)構想が生まれてきたのも、わからないでもない。わからないでもないが維新が提唱して推し進める大阪都構想の実質的な政策や中身は建設的な副首都構想でもなんでもなく、ただ単に外資のハゲタカに悉く行政インフラを売り飛ばすだけの売国政策であった。
結果、維新による大阪の経済振興は外資カジノ一本槍である。某大リーガーの通訳がハマっていたが、時代はオンラインカジノの時代であって、今更、日本の大阪に大型カジノを作って、そんな収益など上がるわけがない。仮に儲かるとしてもその大部分は外資に渡り、弱冠のオコボレが一部の維新政治家の癒着企業に渡るだけであろう。大阪全体の経済振興にはなりえない。結局、維新はいうてることと、やっていることが違いすぎる。羊頭狗肉すぎる。
維新行政の失政によって経済都市としてどんどんと劣化、転落していく大阪だが、しかし大阪のポテンシャルは経済的な部分だけではない。むしろこれからの時代に可能性があるとすれば、文化や歴史という部分だと個人的には考えている。
例えば現在、日本全国の研究機関で保管されている埋蔵文化財の出土品は約630万箱(出土品量を60cm×40cm×15cmの箱で換算するとか)だが、考古学も進化し続けていて、いまや年間、約30万箱づつ増加しているとか。
そして面白いのが日本最大の出土遺物量が多いのが実は我が大阪であり、その数はなんと約87万箱に及ぶという。次が福岡で約49万箱。その次が千葉で33万箱。京都27万箱、兵庫23万箱・・・と続く。
意外なランキングだが、しかし、大阪の文化財、歴史的遺物の出土量は、紛れもなく、この土地の古さと歴史と文化の厚みを物語っている。不思議なことだが記紀神話の舞台である出雲とか伊勢とか奈良とかは、そうした出土品は意外にも少ないとか。じつは人の営みの歴史としては、それらの土地は浅いということなのかも知れない。記紀神話は結局、勝者による歴史編纂(歴史改竄?)なので、それを読んでいるだけでは、こういう物証の事実はわかりませんな。
いずれにせよ、大阪は日本最大の古代都市であり、歴史都市であり、文化都市であるということです。文化財の出土量がそれを物語っている。そして、そういう文化財の発掘、保管、整理、研究、検証を行うのが大阪市文化財協会であり、大阪府文化財センターなわけです。
大阪という都市の可能性は、他都市にはない、日本有数の歴史の厚みや文化の多様性にあります。しかし、そういうイメージで大阪を捉える人がほとんどいない。非常に残念なことです。そして、そういうイメージであるので大阪市文化財協会の仕事や大阪府文化財センターの仕事も浮かび上がらない。
大阪は常に誤解され続け、間違い続け、失敗し続けている。いい加減、自分たちの足元をよく見て、その豊かさを知り、大切に継承し、守っていかないといけない。
いや、しかし、これだけ誤解して間違って失敗してるのに意外と飄々としているのも大阪の凄さではあるか。大阪的オプチ、偉大なりき。アホなだけかな?w
本日は阿波座、江之子島、川口、松島まち歩き。途中、トラブルでルート変更に。時間があったので予定にはなかった竹林寺へ。金漢重の墓を案内して、みなさんでお参りした。
明和元年(1764)、11回目の朝鮮通信使のメンバーであった金は大坂で病に臥せて竹林寺で亡くなった。本国の朝鮮には妻と2人のこどもがいたが「こどもに逢いたい」と泣きすがる金の姿に大坂の町衆たちは心を痛め、同じ年頃の日本のこども2人を金の枕元へ呼んで我が子に見立てて看病させたという。
かつて竹林寺の側には尻無川が流れていた。この尻無川は唐人澪(とうじんみを)とも呼ばれ、朝鮮通信使の船の公式航路であった。尻無川から大阪湾に出て瀬戸内海、関門海峡、壱岐対馬を経て釜山、朝鮮半島に繋がる。
いまはもう川が埋め立てられたので竹林寺と朝鮮半島の結びつきがわからない。
久しぶりの猪飼野まち歩き。トルハルバンおじさんの像が御幸森第2公園にできている。済州島と大阪の直接航路(君が代丸)就航100年記念として2024年1月に建立された。
昔、韓国の人(慶州出身者でした)を猪飼野案内したさいに御幸森商店街でトルハルバンを発見して「え?なんでトルハルバンがこんなところに?」と驚かれたことがある。トルハルバンは済州島の守り神で、非常にローカルな神さま。大阪人は猪飼野のコリアンタウン(済州島出身者が多い)がスタンダードだと思っているので、韓国にいったらどこにでもトルハルバンがいるものと思っていたりするが、実は韓国の本土では珍しいとか。
済州島は火山島で、だから独特の土壌をしている。トルハルバンも色味は暗く、多孔質なんで、どうみても火成岩だなとすぐにわかる。島全体が火成岩であるので、なかなか田畑は難しい。芋ぐらいは育つかもしれないが基本的に土地は痩せている。かつては流刑者の島であったというのも土地の貧しさ、生活条件の厳しさゆえであろう。
田畑がダメなので、主な産業は漁業であり、素潜り漁が古くからあったという。済州島では海女が発達し、いまも活躍している。昔は海人・海士(男性の素潜り)もいたらしいが儒教が発達した朝鮮社会では「士大夫たるものは肌を他人に見せてはならない」という考えが強く、だから男は海に潜らなくなり、代わって女性の素潜り…つまり海女が隆盛したという。
済州島では男は昼から焼酎を飲んで暴れているロクデモナシばかりで、女が働き者で海女をして稼いでいた…というような戯言を聞いたこともあるが、さて、実際はどうであったのだろうか?
いまはリゾートアイランドで大手資本の開発で、「韓国のハワイ」と呼ばれている。今(ハワイ)と昔(流刑地)でイメージが違いすぎて戸惑う。いつかいってみたいと思っているが、なかなか行けていない。
道頓堀のたこ焼き。「一皿100円」やのうて「1個100円」。もはや大阪人は道頓堀でたこ焼きは買いません。食いません。完全に観光客の食べもの。海外からのインバウンドのお客さんが「安い!うまい!」というて買って食べる。
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昔、僕がこどもの頃、大阪市営地下鉄の新金岡駅を地上に出ると、すぐ目の前にたこ焼きを売る屋台の軽バンがよく止まってました。
販売しているのはオバチャンで、軽バンの後部を改造して、そこにたこ焼き器を置いていた。一皿7個100円で、地下鉄の利用客をアテにしていたのだろう。しかし、たまにオトンやオカンが気まぐれで買ってくれる時もあり、嬉しかった。
ある時、うちのオカンがオバチャンと話し込むことがあって、オバチャンの身の上話になり、聞くとオバチャンは早くに夫を亡くしてシングルマザーとなり、こどもを育てるために、たこ焼きの屋台を始めたということだった。
うちのオカンはその話を聞きながら、いきなりもらい泣きし始めて(オカンはすぐもらい泣きする)恥ずかしかったが、普段、何気なく食べていたたこ焼きにそんな物語があるのか…と幼心にも刻まれて、忘れられない。
このたこ焼きが僕のたこ焼きの味の基準であり、値段の基準です。そんな美味しいたこ焼きでもなかったんですw 普通の味ですわ。でも、あれが大阪の味やないかと思う。
本日は北大江まち歩き。釣鐘町にいったら今日は「時の記念日」ということで釣鐘を鳴らし放題でした。
寛永11年(1634)に将軍・徳川家光が上洛後に大坂城に入った。大坂三郷の惣年寄などが酒樽や鰹節を献じて祝賀したところ、家光から大坂町中の地子銀(要するに固定資産税)の永代赦免が命じられた。
大坂は夏の陣で焼け野原になり、その戦後復興の最中であったので幕府から減税されたわけです。まあ、増税して復興予算、支援金、助成金といいつつ癒着企業や身内の団体に金を配るより、最初っから全体にお金が行き渡るように減税する方がすこぶる効果的ですわな。
巨額の地子銀を永代免除された大坂郷民は後世、子孫まで、その幕府の恩恵を伝えるために釣鐘を作って町中に時を知らせることにした。
実際に江戸時代、船場商人はこの鐘の音を聞いて日々の生活を送りました。朝の鐘を聞いたら生駒山から登る朝日を拝みながら南無妙法蓮華経を唱え、夕方の鐘の音を聞いたら大阪湾に沈む夕陽を拝みながら南無阿弥陀仏と合掌したとか。
お金儲けは神仏頼み。「朝題目夕念仏」の都市が大坂・船場で、そのリズムを刻んだのが、この釣鐘です。
いわきにいって驚いたのが圧倒的に車社会であること。実際に車依存率は中核市の中では日本一の高さを誇ります。
車で移動していたら、時速30キロや時速60キロなんて移動手段の感覚では、まちのことなんて、地域のことなんて見えてきません。わかりません。まちや地域のことが見えてないから、自然と、まちや地域への興味関心も薄れていくし、知らないし、まちづくりをやろうにも「地に足がつかない」話ばっかりがワンサカ出てくる。空回りしてしまう。
まちづくりは歩くことから始まる。だからまちは「歩ける」ことが重要で。いわきでは平の商店街のみなさんが旗振り役をやって平の中心市街地(元・城下町)でウォーカブルな都市環境を再構築しようと「たいらほこみち(いわき駅前公園化計画)」活動をやってます。素晴らしい。
https://www.facebook.com/tairahokomichi
いわき時空散走もツアー実施の時は、自転車という手段を用いてますが、実際は徒歩でもいける範囲(約10キロ以内)でマップを作成し、ツアーを構築、実施しています。
そもそも時空散走マップを作るさいに、まず現地、現場をじっくり丁寧に歩いてますから。リサーチは常に歩きが基本です。歩かないとまちはわからない。地域が見えてこない。音や匂いや風や色や光や息吹が感じられない。
いわき時空散走は車社会偏重を是正して、自分たちで歩いて楽しんだり、自転車で巡って遊ぶことができる、ヒューマンスケールなまちを取り戻そう!という社会変革であります。ちょっと大袈裟ですがw
#いわき時空散走
#たいらほこみち
「文治元(1185)年春、当時の四天王寺別当慈鎮和尚の請によりこの地を訪れた宗祖法然上人が、四天王寺西門近くに結んだ四間四面の草庵・荒陵の新別所に止住され、日想観を修された事に始まる。平安期以降日想観の聖地とされるこの地で、法然上人は四天王寺参拝に訪れた後白河法皇と共に日想観を修された」
以上は「法然上人二十五霊場」公式サイトから抜粋した一心寺の開創に関する説明。
https://www.25reijo.jp/reijo/7.php
興味深いのは法然上人と後白河法皇が日想観を行ったのが1185年であること。この年は実は「壇ノ浦の戦い」が行われた年であったりする。
壇ノ浦の戦いは正確には元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に起こった歴史的事件で、この戦いの結果、平家一門は滅亡し、安徳天皇も数え歳8歳の若さで入水して落命してしまった。
この安徳天皇の母は平清盛の娘・徳子であるが、父は高倉天皇であり、つまり安徳天皇は後白河法皇の孫(もちろん清盛の孫でもある)となる。後白河法皇は愛する孫を失った傷心の年に京都から四天王寺にやってきて日想観を行ったことになる。
いまは埋立などで海岸線は遥か彼方に西進してしまったが、中世には四天王寺の西を望めば、そこには難波津(大阪湾)が眼前に広がっていたという。この難波津の西は瀬戸内海に繋がり、瀬戸内海をさらに西に進んでいけば、やがて関門海峡に至るが、そこがつまり壇ノ浦である。
一心寺の縁起を調べても法然上人と後白河法皇が日想観を行ったのは「1185年の春」とあり、曖昧な記述なので壇ノ浦の戦い(4月25日)の前なのか?後なのか?はいまいち判明しない。判明しないが、この世の栄華を誇った平家一門が源氏に追い詰められ、滅んでいくという歴史的な瞬間であったことは間違いない。
難波津に沈んでいく夕陽を眺めながら日想観を修した後白河法皇と法然上人。南無阿弥陀仏を唱えて合掌しながら、その胸中に去来したものは一体、なにであったか。
画像は「一心寺縁起絵巻」より。日想観を行う法然上人と後白河法皇の図。
堺・七道。水野鍛錬所さん。久しぶりのまち歩きでの訪問。5代目に工房で和包丁の制作過程や日本刀の構造、水野鍛錬所の歴史など、いろいろとご説明を頂きました。
堺は「ものづくり1600年」の歴史を誇る(と堺の人はすぐいうw)。古代、古墳時代から鉄生産に携わり、中世の鋳物、刀、鉄砲、近世の包丁や近代の自転車と、ものづくりの歴史は連綿と続いている。水野鍛錬所さんに来ると、そういう堺のものづくりの歴史や遺伝子が、いまだに現役で、現在進行形で、生きていることがリアルに体感できる。わかる。ほんまに堺の宝ですな。素晴らしい。ありがとうございました!
土生郷のまち歩きのあと、土生神社の社務所でまち歩きの参加者や氏子のみなさんと懇親会。交流会。
土生郷の歴史は古い。条里制の跡もあれば土生神社も式内社である。熊野街道も通る。地元には豪族の土生氏が長く統治者として君臨していたらしい。
いまは「岸和田市土生」であるが、かつては「土生郷岸和田」といわれた。岸和田よりも土生の方が山手で、古くから発達していて、だから岸和田よりも土生の方が名が通っていた。
山手にあるから当然のことながら田畑の水利権も土生郷が牛耳っていた。山の土生郷から海の岸和田に水を流す。それで岸和田に田畠が作られて人が住めるようになった。いまも岸和田の農業関係者は水の利用料を土生の水利関係者に納めているとか。
栄光の土生郷であるが、それが没落するキッカケになったのが岸和田藩が出来て岡部公がやってきたこと。岡部公は、かなりの重税を強いたらしく、それに反発して地元側が強訴した。その強訴の主唱者のひとりが土生氏だった。結果として土生の一族は反逆者として逮捕され、処刑される。
土生郷のために!と立ち上がった義民であり、処罰されたが、地元では悲劇の英雄である。岡部公の目があるから大っぴらに墓などは作れなかった。そこで供養の塚は作ったが、それを「歯神さま」として伝承して密かに村の中で祀っていたらしい。
歯神さまだから歯に効く。歯に悩む村人が歯神さまにお参りして痛い歯には歯神さまの石を当てて「治りますように」と願掛けした。霊験あらたかであったのか、一時期は老人の集会所も出来たという。
僕がとくに面白いと思ったのが「岡部公に歯向かった」から「歯神さま」になった?という親父ギャグみたいな由縁であろうか。いや、非業の死を遂げた土生氏の残念無念の歯噛みを思って、単なる虫歯の痛みぐらい我慢しろ!ということなのかも知れない。虫歯の痛み、超つらいがw
ちなみに没落した土生氏の頭領だが、子孫の方がいて、それは岸和田から和歌山方面に落魄れていったらしい。土生郷ではその御恩を忘れずに和歌山の土生氏の方に長くお米などを贈ったりもしたそうだ。いまは交流がないという。残念なことです。後裔の方に会えたりしたら面白い言い伝えのひとつやふたつ、聞けるかも知れないが…。
岡部公の土生郷に対してのイヤガラセ(?)はこれだけに留まらない。土生郷の村人の墓をじつは強制的に移転させた。土生郷内に泉光寺という臨済宗の寺院があるが、この寺院の檀家が岡部公だった。泉光寺には歴代藩主の墓があり、毎月、岡部公が月参りをする。そのさいに土生郷を通行するが、その途上に土生郷の墓地があり、邪魔であるということで下松の方に移したという。
土生郷の墓であるから、もちろん長く豪族をしていた土生一族の墓もあったに違いない。しかし、もはや土生氏の時代ではなくて岡部公の時代であるというのを土生郷の住民に判らせないといけない。墓の移転は、明らかに岡部公の権力を見せつけるためのデモンストレーションではないだろうか。
基本的に岸和田では岡部公は名君として褒め称えられて顕彰されている。しかし物事はそんなに単純ではない。温度差、地域差は当然ある。土生郷から眺めてみると岸和田、岡部公の物語もこういう風に語られるのか…と興味深かった。