よう考えたら今年、2022年9月29日はまわしよみ新聞創刊10周年記念日でした。すっかり忘れてた…。まぢか。10周年やん…。記念イベントやらなあかんやん…。
大阪まち歩き大学。住吉。津守廃寺。
津守氏は住吉大社のご神官一族で歴代、住吉大社の宮司を務めていた。しかし明治4年(1871)に明治新政府が『官国幣社指定、神職・社家の解職再補任の布告』を出して日本全国各地で代々続いていた神職の多くが解職された。現在、住吉大社の宮司の任命権は神社庁が掌握している。
地方、地域には独自の神社、氏神があり、奉仕する社家(神官一族、世襲)がいてコミュニティの要であったが、それを明治新政府は自分たちの都合のいいようにコントロールできるようにした。近代国民国家による「国家神道」の誕生で未だにこの「社家解職」が地方コミュニティに与えた影響は大きい。
津守氏は日本の歴史でも有数の名族で住吉大社の神職としては70代以上続いたという。明治以降は男爵となって続いていたが後裔の方は1990年に亡くなり、直系は断絶している。ただ70代も続くと分家筋、子孫はとんでもない数がいて大阪でも津守姓の人は多い。
津守氏はいろんな仕事をしていたが遣隋使、遣唐使に同行したという話がある。船の航海を守るために長く風呂に入らない。身体を汚辱まみれにして船の舳先に陣取って祈り続ける。
海の神さんは女神で「ウホッ!いい男!」と男前を見つけると船を沈めてしまう。だから見窄らしい、穢らわしい男を見せつけて女神さんが逃げ出して船に近寄らないようにする。そして見事、遣隋使、遣唐使の船が帰ってきたら生き残った津守の神官は莫大な恩賞を頂いたという。
遣唐使船は4隻で難波津から出港する。大体、行きの航海で1隻、帰りの航海でまた1隻沈没して、だから生存率、生還率は50パーセントほどだった。命懸けすぎる航海。しかし日本は中国の冊封体制に組み込まれていて交戦しない代わりに外交使節団を送り込んでいた。
なんでこんなに生還率、生存率が悪いか?というと中国の皇帝の正月の挨拶に間に合うために船を出したから。正月に間に合うように出航計画すると秋に船を出して春に帰ってくる。季節の替わり目で天候が荒れやすい。だから沈没してしまう。
使節団が命懸けで出航して中国王朝の皇帝に頭を下げに行っているから冊封体制は属国のような扱いに見える。しかし実は日本から貢物を持っていくと中国王朝はその数倍〜10倍もの価値の返礼品を贈るのが慣わしだった。
仮に日本が4隻の船に1億円づつ、計4億円の価値の貢物をもっていくと中国王朝からは40億円の価値の返礼があり、2隻船が沈んでも20億円になる。4億円の投資に20億円のリターン。これは行かねば損…と誰もが考える。
要するに冊封体制は中国王朝は「名誉」を取り、それ以外の周辺国は「実利」をとった。「win-winの関係」なんていうが基本、外交には「win-winの関係」なんてのは成立しない。正確には「win-lose win-loseの関係」であり、お互いどこか得してどこか損して一勝一敗でないと外交というのは成立しない。うまいこといかない。ウクライナ、ロシアの戦争も外交、停戦交渉で収まるとしたら、おそらくは落とし所はそうなることでしょう。いや、これは話の蛇足。
遣隋使、遣唐使船には小野妹子、阿倍仲麻呂、吉備真備、最澄、空海、円仁、円珍など優秀な若者たち、未来を嘱望されたエリート人材が数多く送り込まれた。それは半分しか帰ってこなかった。
もしかしたら「もうひとりの空海」「もうひとりの最澄」がいたかもしれない。「高野山」「比叡山」がもう一個できたかもしれないw とんでもないことではあるが生き残ったから死者の分の仕事をしたともいえる。サバイバーズ・ギルトというやつですな。
大阪まち歩き大学。和泉市。黒鳥山。
黒鳥山は陸軍大演習のさいに明治天皇が訪れた。戦前は陸軍墓地があり、現在も巨大な信太山忠霊塔が建つ。この黒鳥山のすぐ北西側にあるのが信太山駐屯地。自衛隊のジープが何台も行き来して、その横を小学生たちが集団下校していた。
黒鳥山というとどうしても軍隊の匂いが濃厚で、和泉市でも独特の雰囲気がある。
和泉そぞろ
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大阪まち歩き大学。和泉。仏並町。男乃宇刀神社。
「男乃宇刀」で「おのうと」と読む。「男乃」は兄(あに)のことで「宇刀」は弟(おとうと)のこと。御祭神の彦五瀬命(兄)と神武天皇(弟)を意味している。
昔は上之宮(彦五瀬命)と下之宮(神武天皇)があったらしいが、いまは下之宮は八阪神社として合祀され、和泉市総合スポーツセンター(旧・横山高校)となっている。
神武東征というが総大将は神武天皇ではなくて兄の彦五瀬命で、それが長髄彦との戦いで負傷した。彦五瀬命はその後、傷が元で絶命するが、代わって総大将になったのが弟の神武天皇だった。「男乃宇刀」の場所は負傷した兄から弟への王権(指揮権)の継承が行われた聖地ということではないだろうか?
神武東征自体が本当にあったのかどうか、よくわからないところもありますが…。
和泉そぞろ
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大阪まち歩き大学。えらいとこまで来ました。和泉市。仏並町。坪井町。槇尾山の入口です。
男乃宇刀神社は式内社。神武天皇が訪れたという。
神武天皇は東征で難波津まで来たが、そこで天孫族の長髄彦にコテンパンにやられる。そこで神武天皇は進路を南に転身して男乃水門(泉南市あたり?)に出て船で紀伊に入り、そこから大和に入った。ここはその迂回ルートの途上ということですな。
大阪はさすがに土地が古い。うっかり(?)神武天皇のご聖蹟があったりする。こわいとこです。
船場。青山ビルへ。玉田 玉秀斎こと玉さんの講談会。コロナ以降、初の講談かな。久しぶりに玉さんと会った気がする。お弟子さんの玉田玉山さんも腕を上げてました。
講談もコロナは直撃やったことでしょう。お互い、よく生き残りましたなあ…
また玉さんとコラボして対談と即興講談の会をします。顔ハメではないw 大阪まち歩き大学の船場まち歩きネタがテーマです。正統派!直球勝負!
乞うご期待ください!
大阪まち歩き大学。中寺町を歩く。常國寺さん。梶井基次郎墓。3月24日が檸檬忌。4月頭に訪れましたが墓は檸檬だらけでしたな。
梶井基次郎は肺病みで結核だった。結核は死病であるが徐々に身体を蝕む。闘病が長い。梶井基次郎も長かった。10代半ばで発病し、10年以上の闘病生活を経て31歳で亡くなった。そのあいだに小説を書いた。
「ダモイクレスの剣」ではないが自分の身体で進行し続ける死病を意識しながら日常を生きる。特殊な精神状況であるのは間違いない。
また結核は微熱が続くという。微熱する身体の浮遊感覚の中で死の冷酷さ、冷徹さ、冷静さが行き来する。嫌が上にも感覚は研ぎ澄まされる。
「櫻の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、櫻の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。櫻の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。」
梶井基次郎『櫻の樹の下には』
梶井基次郎の作品には常に「死の微熱」のような特異なリリカルを感じる。稀有な作家とでしかいいようがない。