鹿児島。桜島フェリー。鹿児島人の心の故郷、原風景は、やはり桜島であろう。活火山で、つねに白煙黒煙を吐き続けて火山灰を市中至る所に降り注ぎ続けている。
「活火山と共生する」という世界的にみても稀有なプロジェクト(?)を難なく、自然に、受け入れて遂行しているのが鹿児島人である。
環境が、風土が、人を作るというが桜島のような活火山を前に日常生活を送り、人生を歩む鹿児島人のメンタリティは雄大というべきか、大愚というべきか。贅六にあくせくして生きる上方人、大阪人からすると端倪すべからざる存在である。
じつは僕自身は生まれは住吉、育ちは堺で生粋の大阪人ではあるが血、ルーツはそうではない。曽祖父・陸奥利宗は高知(吾川郡池川村)生まれであり、曽祖母の陸奥ヲカ(小山田ヲカ)は鹿児島の人である。
この小山田家は薩摩藩の鉄砲師範役(小山田真蔵)をやっていたらしいが、してみると僕の血の8分の1は鹿児島人がルーツであるわけで仕事などで鹿児島に来るたびに不思議なご縁を感じたりしている。
桜島フェリーは鹿児島市内と桜島をわずか15分で繋ぐ。錦江湾は狭いというか、鹿児島市内と桜島の近さに驚く。またフェリーは24時間営業らしく、常に市内と島をひっきりなしに往復している。
島には5000名近い人々が暮らしているそうで小学校や中学校まである。深夜にフェリーに乗って桜島に行く人がいるのか?と思うが桜島は24時間体制で活火山の様子を記録したりしているらしい。防災関係者には深夜も早朝もないそうだ。
また桜島は本当に、いつ噴火するかわからない。緊急避難の出動なども常に想定されている。噴火の落石があっても大丈夫なように、まちなかの至る所に避難壕(シェルター)が32カ所も設けられている。大型のシェルターなら100人が入れるという。常在戦場。もはや火山と戦争状態。ダモクレスの剣である。
桜島フェリーの名物が「やぶ金」さん。わずか15分しか乗船時間はないが、みんなフェリーに乗ったかと思うと、やぶ金に駆け込んでパッと注文して、パッと勘定を払い、パッと食べて、パッと器を返して島(鹿児島市内)に降りていく。見事である。
常在戦場ですからな。鹿児島も江戸と似て早寝早飯早風呂という文化圏なのかもしれない。
鹿児島。木之下。伝・豊臣秀頼の墓。なんと鹿児島には豊臣秀頼の墓があるww
鹿児島に残る伝説では秀頼は大坂夏の陣で死んだのではなくて、じつは真田幸村が密かに用意した「真田の抜け穴」から脱出。鹿児島まで逃げてきて島津公に匿われたとか。
初めてその話を聞いた時は「んなあほな!」と爆笑してましたが、ちゃんと墓もあると聞いて今回、訪れることに。ちゃんとありました。民家の真ん前。敷地内。え?こんなとこに?!ってとこにあります。
秀頼は生き延びたあと、しかし自分だけ生存して他の者が全員、討死、戦死したので申し訳なさ、不甲斐なさから自分を責め、病気になり、夏の陣の翌年の1616年に亡くなったという。
なんか生き延びて現地の女性と結婚して、こどもができて「私が豊臣家18代目の当主です」みたいな人が出てきたりしたらウソくさい!ってなりますが逃げのびたけど翌年、心労で亡くなった…という不幸なラストが、どうもほんまにありそうな話で実に興味深い。
真実は闇の中ですが。
中之島美術館にて『決定版!女性画家たちの大阪』。
2006年になんば・高島屋で開催された『島成園と浪華の女性画家』を僕は観に行っていて島成園や女四人の会の活動に衝撃を覚え、図録まで購入していたのですが、今回の展示はその後継で「決定版!」とか。
東京画壇、京都画壇の研究や評価は著しいですが、なかば世間から忘れ去られているのが大阪画壇の哀しさ。いや、そもそも大阪には画壇(と呼べるほどの組織)があったのか?という論議もあるほどで、これは、しかし国の影響もあり、大阪には私立の美術系の大学はたくさんありますが、いまだに国公立の美術大学がなかったりする。
結果として美術畑のアカデミシャンが大阪ではなかなか育たないし、自然と東京画壇、京都画壇などをフィールドにする。大阪画壇(大阪の画家たち)を研究しても、残念ながらアカデミックな世界では、いまいち評価されないというわけです。
大阪行政もていたらくで専門的かつ公的な美術館がなかなか出来なかった。大阪市立近代美術館は「準備室」のままで30年以上も経過した。もはや「モダンな近代美術館」を作る時代でもなくなり、「ポスト・モダン、コンテンポラリーな現代美術館」として、ようやく近年、中之島美術館としてカタチとなったが、この辺の情けない顛末は大阪のみならず、日本の美術界そのものにとっても大いなる損失であり、不毛の時代であった。
こんなこというとあれですが大阪行政が悪いということは結局、大阪市民、大阪府民が悪いということです。行政を動かす力があるのに、その力を行使しなかった。自分たちの足元にある、大阪画壇の素晴らしい絵画、美術、宝の山に、まったく無理解で無関心で無教養で無知以外の何者でもなかった。うう。つらい。
しかし伝統やアカデミックといったヒエラルキーが強くなりがちな東京画壇や京都画壇と違い、大阪画壇はよくも悪くも自由闊達。草の根的で多様性に満ち溢れた百花繚乱な大阪画壇の先鋭、独自性、面白さ、ユニークさ、前衛は大阪画壇を愛してやまない関係者各位の熱意のおかげで、徐々にではあるが知られるようになってきたし、大阪の女性画家たちの実態も、その詳細がわかるようになってきた(それでもまだいまいち詳細がわからない作家もたくさんいるようだが…今回の展示でも詳細不明、今後の研究が待たれると解説されている作家が数多くいた)。今回の企画展は、その成果発表というわけです。
男性画家の描く女性画は、やはりどこか理想化された女性像が投影されている。モデルがそもそも若く、美しいことが多い。しかし女性画家たちが描く女性画は、女性のリアルな、実存を描きます。ただ若さや美しさだけを描くものではない。むしろ女性性の中にある複雑さや醜さやいやらしさや穢らしさや未熟さや酷さや老いがどうしても滲み出たりする。ミロのヴィーナス像のような完璧な美を描こうとしない。そんなものはない、仮にあっても一瞬、刹那のことであるということを肌感覚、身体感覚として知っていますから。
また大阪画壇の女性画は、そういう女性画家たちの生々しさが際立つように思う。東京画壇、京都画壇は、やはり男性優位、男性本位であったから女性美への幻想が強い縛りとして存在するが、まだ比較的、大阪画壇は、女性画家たちに一定の自由領域があった。
それはやはり大阪という経済都市の土地柄、都市性が反映されていて、そもそも商家文化は女性優位ですから。船場の大店では男の子が生まれたら、みんな絶望したといいます。大抵、金持ちのボンは苦労知らずでアホボンになる。女の子が生まれたら万々歳。商売がわかっている叩き上げの、やり手の手代を見つけて入婿にしたら商売が繁盛して店もますます大きくなる。
江戸時代、封建社会、武士社会の場合は、男の子が生まれないと、お家お取り潰しになるという時代ですから大阪の商家文化が、いかに特殊な環境下にあったか?がよくわかる。自然と女性たちの存在が一目置かれるし、ごりょさん、いとさん、こいさんが大事にされた。経済力もあるから教養が大事であるとお茶、生花、お琴といった芸事を嗜むものも多く、もちろん書や絵もお稽古として推奨された。
実際に大正時代の大阪画壇では帝展、文展に入選した画家の2割以上が女性画家だったりするという。これは東京画壇、京都画壇にはない傾向で大阪画壇の大いなる特徴、特性であり、誇りだといえよう。
企画展では第五章が撮影可能で、島成園や女四人の会、生田花鳥といった偉大なる女性画家たちの画塾で学んだ後継の女性画家たちがクローズアップされていた。全く名前も聞いたことがない女性画家がてんこ盛りで、いや、これは刮目するどころではない。底が見えない。奥が深すぎる。「決定版!」などというが、これはまだまだ途中過程であろう。
大阪画壇のポテンシャル、女性画家たちの可能性、その全貌はいまだに解明されていない。これから、でしょう。2006年からの18年間で、いろいろと研究が進んだのでしょうが(ほんまに素晴らしい仕事です!頭が下がる)個人的には「決定版!」の次を大いに期待したいし、大阪の町衆には声を大にして呼びかけたい。これは観に行きなはれ!!
鹿児島市内を歩いていたら、やたらとでかい寺院があったので、「あ、これは本願寺さんやな」と思ったらビンゴ。鹿児島別院でした。
江戸幕府は切支丹を弾圧しましたが薩摩藩は切支丹に付け加えて浄土真宗も徹底的に弾圧していた。
薩摩は島津公が長く君臨し、日本で最も封建君主が強いエリアといってもいいかもしれない。有無を言わさずに問答無用で上位下達、上命下服というのが薩摩藩の恐ろしさであり、薩摩隼人の戦上手に繋がった。組織、コミュニティに「縦の力学」が浸透しきっている。
そういう薩摩藩で在家同士(浄土真宗では僧侶も在家)で車座になって談合(話し合い、語り合い)を大切にする浄土真宗のフラットでニュートラルな「横の力学」は嫌悪された。その結果が浄土真宗門徒への拷問である。
何の謂れもないのに浄土真宗門徒は薩摩藩から棄教を迫られ、棄教しないと割木責め(ギザギザの木の上に座らされて30キロ、50キロもの大石を乗せられる)、水責め、女責め(女性器への暴行)といった残酷極まりない拷問にかけられた。何人もの死者が出たらしいが、それでも浄土真宗の門徒は信仰を捨てず、薩摩藩には隠れ切支丹ならぬ隠れ念仏が大勢いたらしい。天保年間の大弾圧では14万人以上の門徒が摘発されたという。
結局、幕末の頃には薩摩藩は浄土真宗どころか仏教そのものにも排斥的になっていく。神道に傾倒して国学思想が蔓延する。天皇親政の名の下に討幕運動を展開し、それが明治維新の原動力となったが廃仏毀釈なんて日本の歴史上でも類を見ない大愚策を実施する。
鹿児島はじつは日本でいちばん文化財が少ない都道府県で。これは廃仏毀釈の影響で薩摩藩内の寺院を徹底的に破壊し尽くしたので(浄土真宗以外の寺院も対象となった)結果として、そうなってしまった。文化財というのは想像以上に仏教文化なんです。寺院、仏像、仏画、仏具が日本の国宝となっている。
これは私見ですが明治維新を近代革命というのは当たらない。アメリカの独立戦争、フランス革命のような「自由、平等、博愛」といった近代的理念が薩長にはどうにも見当たらない。いってること、やってることは天皇親政などアナクロニズム(時代錯誤)もいいところで廃仏毀釈なんかはカルトの蛮行でしかなかった。そして、それらを主導したのが薩摩藩(と長州藩)であった。
日本の近代化の歪み、奇妙奇天烈さ、カルトは明治維新を主導した薩長の歪みや奇妙奇天烈さ、カルトと直結してます。明治維新とか昭和維新とか維新維新いう人は危険ですねん。歴史がそれを証明してます。ほんまに。
大阪のおばちゃんは常にアメちゃん(飴)を懐中に忍ばせている。そしてアメちゃんの種類でおばちゃんの「派閥」がわかる。
ノーベル派、UHA味覚糖派、扇雀飴派、黄金糖派、昆布飴派など、いろいろと派閥があるが、天王寺・谷町界隈ではパインアメ派が最大勢力だといわれている。もし天王寺・谷町を歩いていて、おばちゃんに「アメちゃんください」といってパインアメ以外のアメちゃんが出た場合は、そのおばちゃんはモグリかスパイだと思った方がいい(ウソです)
最近、パインアメさんはパインアレが大ヒットして、えらい人気らしいですが、個人的にオススメなのは「たべる珈琲」。パインではなくて子会社のビンズ(パインアメと同じビル内にある)から出てますが、珈琲好きにはたまらない。アメちゃんやのうてタブレットですが、ほんまに美味です。機会があればぜひとも。
十三まち歩き!降水確率90%でしたが、雨にあわず。我ながら晴れ男ですなあ。
十三名物といえば喜八洲のみたらしだんご。このみたらしは「コゲ」があるのが特徴で、買うときは「コゲの量」を聞かれる。希望があれば「コゲを増やしてくれ」というような要望が成立する。なかなか他のみたらしだんごではそんな注文は聞かれない。
十三は中津川沿いで渡しがあり、その渡しを待つ間に茶店ができて、そこの名物が「焼餅」であった。喜八洲のみたらしだんごは、その十三焼餅の伝統を継承するもので、実は「焼餅+みたらし」で構成されている。要するに「みたらし焼餅」というのか正解で、単なる団子ではない。
焼餅はコゲがあり、苦い。この苦味を中和するものとして、甘いみたらしが掛けられた。甘いものと、苦いもののコラボレーション。「あまにが」というのが、喜八洲の発明であり、妙味であった。
大阪人というのは、ただ甘いだけのものや、ただ辛いだけのものは、愛さない。甘さと辛さの絶妙のブランド、ハーモニー、調和を愛する。「あまから(甘辛)」というのが大阪人好みで、大阪グルメはココを踏まえないと真髄がわからない。
有名な夫婦善哉(ぜんざい)も、ぜんざいのお椀が二つあることに注目されるが、じつは、そのあいだにある「塩昆布」こそが、夫婦善哉の肝であり、核といえる。
最初にぜんざいのお椀をひとつ食べる。「あまさ」を楽しむ。そのあとに、真ん中の塩昆布を食べて、その「しょっぱさ」を堪能する。さらにまた二つ目のぜんざいを食べることで、さらに「あまさ」を楽しもうという仕掛けになっている。「甘→塩→甘」というジェットコースターのような味の変化球が、大阪人にウケた。
大阪グルメは深い。人生は「あまから」の連続であることを知ってますからな。大阪人は。グルメまで屈折してますねんw
阪神淡路大震災から29年。
神戸の下町エリアは古い家屋が多く震災被害も甚大で建物の全壊、倒壊が相次いだ。その後、国、行政、大手ゼネコンの方針、介入で「復興」という名のもとに道路や街区の整理が進められ、まちが一新されてしまう。下町の長屋や曲がりくねった迷路みたいな裏路地などはなくなり、拡張拡大された車道や大型マンション、高層マンションが林立して、かつての下町の景色、風情、匂い、情緒、雰囲気が半減、消滅してしまった。
「復興」とは「元通りに戻す」という意味ではなくて大抵は行政、官僚、ゼネコンなどが統計やらデータやらを捏ねくり回して全く新しいまちを作り上げることを意味する。清く正しく美しくと都市機能はゾーニングされ、無味乾燥でクリアランスなまちが出来上がる。経済とか効率的といった概念や指標でまちを作り上げるので、そこに人間はいない。人生の複雑怪奇さやカオスモスや悲喜交交はない。赤提灯がない。闇がない。
実は僕の母方の叔父が経営する靴工場が長田エリアにあり、それは地震後に起こった火災に巻き込まれて全焼してしまった。震災以前と以後でまちの様相は全くといっていいほど変わってしまって、叔父が「前どんなんやったんか全く思い出せん」と親戚一同に語るのを聞いたことがある。
叔父のこの「思い出せない」という驚嘆の通り、震災とその後の復興(「復興災害」なんて言葉もあるが)によって、かつての自分のまちがどんなまちであったのか?よくわからない…という現象がそこかしこに起こった。これは「ふるさとの喪失」であり、自分という存在の根幹に関わるアイデンティティ・クライシスでもあった。
そして、この危機に対して、地域住民たちのあいだから自然発生的に行われたのが「まち歩き」であり「コミュニティ・ツーリズム」であった。
自分のまちが震災以前、どんなまちであったのか?いまは駅前にでっかいマンションが立っているが、あそこには震災以前は細い路地があった。あの路地にはどんな長屋があり、どんな人がいたのか?そういえば小さな祠があったな。あれは何地蔵であったか?古い共同井戸もあったぞ。あそこで昔、祖母がこんな歌を教えてくれたわ…といったようなことを聞き書きし、思い出して、共有して、地図やマップに書き起こして、現場を歩こう、巡ろうといったアクションが起こった。
神戸の人たちが、神戸のまちを歩き、まちの記録や記憶を再確認したり、再発見したり、再共有したりしていった。そうすることで、自分たちの「ふるさと」を取り戻そうとした。まち歩きによって、コミュニティの再生を図ったともいえる。
僕は長くコミュニティ・ツーリズムのプロデューサーとして活動をしているが、その始原には、やはり阪神淡路大震災があるということは常に意識せざるを得ない。いま、いろんなご縁で、いわき時空散走のプロジェクトに携わっているが、阪神淡路大震災の現場・神戸で育まれたコミュニティ・ツーリズムの方法論、知恵が、東日本大震災の現場・いわきに伝わっているということではないか?と思ったりもする。僕はその仲立ち、バトンタッチをしているにすぎない。
震災はいろんなものを生み出している。悲しみや痛みや怒りもあるが、優しい知恵も生み出されている。人間は、意外と、しなやかです。
大阪名物のお好み焼き。いまは「店のスタッフが作ってお客さんに出す」というスタイルが主流だが、昔は「自分でお好み焼きを作る」というスタイルがスタンダードだった。
若い男女がデートでお好み焼き屋に行き、そこで、一緒にお好み焼きを作る。戦後、お好み焼きが若者たちのあいだで人気となり、流行し、大阪名物となるには、このスタイルが大事だったらしい。というのも、これ、じつは「お見合い」的な要素があったとか。相手がどういう風にお好み焼きを作るか?ということから、相手の性格やセンス、料理の腕前や生活ぶりを推測したそうです。
お好み焼きは実は難しい。焼くのはそれほど難しくないがコテでお好み焼きを「裏返す」という、なかなか他の料理にはない、料理の素人には上級すぎるテクが必須となる。大抵の人はこの「裏返し」で失敗してしまう。
若い男女がデートで良い雰囲気になり、「もしかしたら、この人と一生の伴侶になるかも…?」と淡い期待と予感をしていて、その時に、このお好み焼きの「裏返し」は緊張する。もはや人生を掛けた「裏返し」である。手が震える。目が眩む。変な汗が出てくる。そんな精神状態では、お好み焼き上級者でも「裏返し」は成功しえない。普段の実力の半分も発揮できない。覚悟して「キエエ!」と奇声を発しながら裏返すが、非情にもお好み焼きは折れ曲がり、グチャグチャになり、上に載せていた具のエビがあらぬ方向に飛んでいき、目も当てられぬ悲惨な状況に陥る。
とんでもない失態。何度も一人で練習し、自信をつけた百戦錬磨のお好み焼きのプロでも、本番(?)となると、このような致命的なミスを犯してしまう。お好み焼きの神が微笑まない。
しかし真に大事なのは、この有り得ない悲嘆を前にして、二人がどのように振る舞うか?である。人生は長い。良い時もあれば、悪い時もある。いや、むしろ悪い時の方が多い。失敗や苦労や挫折の連続が人生の常ではないか。伴侶となる人には、自分のいいところばかりを見せていてはいけない。むしろ、自分のあかんところ、ダメなところ、情けないところを見て、それを許せるかどうか?受け入れられるかどうか?仕方ないと諦めて共に歩もうとしてくれるかどうか?というところが肝要となる。
お好み焼きの「裏返し」と、その失敗のプロセスこそが、じつは若い男女を試そうとするお好み焼きの神から与えられた試練である。裏返しの失敗を決して責めず、「グチャグチャのお好み焼きが好きやねん」といい、飛んでいったエビを「元気なエビやなあ。まだ生きとるわ」とウソをいって食べて相手を慰める。
そうやってお好み焼きの裏返しの失敗、苦労、挫折を乗り越える「伴侶力」があるものだけが、お好み焼きデートを制することができる。たかがお好み焼き。されどお好み焼き。お好み焼きの中にこそ、人生の機微が、懊悩が、絶妙があります。
要するに、お好み焼きは客同士が焼いてこそ、ドラマが生まれるということです。共同制作の体験こそコミュニケーションの華。話し合い、対話、雑談の空間となり、人生の場となる。スタッフが作って提供されるお好み焼きなど、お好み焼き屋の存在意義がわかってない。下の下であります。自分で焼くより、店の人が焼いてくれる方が圧倒的に美味いけど(え)
※以下は蛇足ですが、まわしよみ新聞はお好み焼きと似てまして。お好みの具の変わりに、お好みの記事(生地ならぬ!)を選び、みんなで共同制作で、ワイワイいいながら、一枚のお好み新聞を作る。大阪的(お好み焼き的)な場作りのエッセンスがまわしよみ新聞の中にあります。
【みんなで広報会議】PRリンクの神崎さんからのご依頼で「みんなで広報会議」にてゲストスピーカーを務め、まわしよみ新聞やコミュニティ・ツーリズムのこと(いわき時空散走、沙界怪談実記まち歩き)や歌垣風呂などについてご紹介しました。PRリンクのみなさん、ありがとうございました!( ´ ▽ ` )
僕の一連のコモンズ・デザイン・プロジェクトは売上とか利益といったビジネス的な指標を度外視してやってます。マーケティングなんかも全く考えていない。ただ思いつくままに「どうも誰もそんなんやってる人おらんみたいやし、ちょっくらやってみるか・・・」ぐらいの頗る貧弱な動機とエビデンス・ゼロではじめてますw
しかし、そうやって、ある種の僕の「思いつき」から、大阪七墓巡り復活プロジェクトやら直観讀みブックマーカーやら当事者研究スゴロクやら死生観光トランプやらが出来上がっていった。誰か先にやってる人がいたら僕は当然、やってません。誰もやってないから、やる。
また誰が使うか?誰が喜ぶか?誰のニーズになるのか?すらもわからないから、だからオープンフリー、オープンソースを標榜してます。「いつでも、どこでも、だれでも自由に、勝手に、好きなように使ってええでっせ」という「コモンズ・デザイン」(共有財産)なのは、その辺、僕が世間のみなさんに考えてもらおうとプロジェクトを預けているからですw
要するに僕の一連のコモンズ・デザインは「他力的なプロジェクト」ということでもあります。利益とかマーケティングとか広報というのは、もう世間さまにお任せしよう。僕のコモンズ・デザインを「面白い!」と思ってやってくれる人が出てきたら、その人が利益やマーケティングや広報を考えてくれるだろうと。だから無料開放しているわけです。みんなの社会財、公共財、共有財産になってほしいから、私有を放棄している。
僕のコモンズ・デザインをカスタマイズ自由、改変自由にしているのも、いろんな現場に合わせて、アレンジしてくださいという意味で、そして実際にいろんな人が、いろんな現場で、創意工夫してやってくれています。いちばんそういう事例が多いのがまわしよみ新聞ですが、メディア、教育、まちづくり、アート、ビジネス、介護福祉と多種多様な業界で使われている。バケモンみたいなプロジェクトですな、これは。自分でも唖然とします。
「みんなで広報会議」では、僕の生い立ちからプロジェクトについてお話しして、それに対する質問、ディスカッションなどもありました。最後に記念撮影といわれて「むつさんの好きなポーズでお願いします!」といわれて、思わずムーポーズをしてしまいました。どんな広報会議やねんww
まわしよみ新聞は実は「三部作」で、まわしよみ新聞の他に「まわしよみ教科書」「まわしよみムー」とあります。まわしよみムーは爆笑に次ぐ爆笑ですが、来る人来る人がアレな人ばかりで、話題がこれまたアレすぎて、いやあ、最高でしたww また機会があればやりたいけど、知恵熱が出るくらいココロとカラダがやられるので、誰かやってくださいw
『ドリー・ベルを覚えているかい?』。エミール・クストリッツァ監督の幻のデビュー作。40年前の作品らしいが、日本では初公開ということで、これも興味深くて観に行きました。
クストリッツァは、このデビュー作でいきなりヴェネチア国際映画祭新人賞を受賞している。天才すぎるやろ…。まあ、その前にテレビ業界にいてテレビ作品の監督、演出などをしていたようですが。
クストリッツァはユーゴスラビア(現在のボスニア・ヘルチェゴビア)の首都サラエヴォ出身(かなりええとこのボンで特権階級出身らしい)だが、ユーゴスラビアは複雑怪奇すぎる歴史を持つ。なんせキャッチコピー(?)が「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」であった。
第二次世界大戦のあとユーゴスラビアはソ連の後押し(のちにソ連からも距離を置くが)を受けて社会主義連邦共和国となる。第二次世界大戦の反ファシストの英雄チトー元帥(最高指導者、終身大統領、首相)による独裁体制が長く続いたが、1980年にチトーが死ぬと民族主義が台頭し、国家体制は混沌、混迷を極めていく。
十日間戦争、スロベニア独立戦争、クロアチア独立戦争、ボスニア紛争、コソボ紛争、プレシェヴォ渓谷危機、マネドニア紛争と1991年から2001年までユーゴスラビア紛争の時代に突入した。民族浄化、大量虐殺、ジェノサイドが相次ぎ、NATOの空爆まであって、もう何が何やらの阿鼻叫喚地獄。僕が物心ついた時からユーゴスラビアは内戦しかしていない恐ろしい国というイメージであった。
結局、ユーゴスラビアは6つの構成共和国スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、北マケドニアがそれぞれ独立して地上から消滅してしまった。そしていまだに現在進行形で各国の紛争、小競り合いは続いている。
クストリッツァは自分の故郷は「ユーゴスラビア」(ボスニア・ヘルチェゴビアではなく)と明言する人間であるし、ロシア・ウクライナ戦争でもロシア支持、プーチン支持を表明している。そのことでクストリッツァ・ファンの中には「幻滅した」というようなことを宣う方もいるようだがクストリッツァの半生を鑑みれば非情かつ峻烈なる政治的リアリズムに立脚した発言だともいえる。極東アジアの島国の日本と世界の火薬庫・バルカン半島の旧ユーゴスラビアでは地政学的状況があまりにも違いすぎる。迂闊なことはいえない。
映画は1981年の作品。チトー体制が終了(1980)し、ユーゴスラビアは西側の自由市場経済を取り入れようと模索していた時代。映画でも共産主義思想のオッサンが「これからは各村にひとつのロックバンドを」と熱弁して、それが村人たちに支持され、主人公の少年ディーノたちがバンドの練習を始めるという頓珍漢ぶりに笑ってしまう。ユーゴスラビアが変わりつつあろうとした時代状況がなんとなく窺える。歴史的には、この流れの果てに1984年のサラエヴォ冬季オリンピック(東側諸国、社会主義国家のオリンピック開催はモスクワに次いで二回目の偉業であった)があった。
なにはともあれ、民族浄化の暗黒時代(傑作『アンダーグラウンド』はまさしくその真っ最中に作られた映画であるが)の前に、こんな青春物語の映画が描かれていたのだなあとクストリッツァ(ユーゴスラビア人)の激動の人生を俯瞰し、感慨深しいものがあった。名作。みるべし!