昔、西成区の千本中に住んでいたときは、ふらっと渡船に乗って木津川を越えて平尾へ。沖縄そば食って帰ってました。
大阪まち歩き大学。関西沖縄文庫。かじまや。うるま御殿。
昔、西成区の千本中に住んでいたときは、ふらっと渡船に乗って木津川を越えて平尾へ。沖縄そば食って帰ってました。
贅沢な遊びです。控え目にいいますが、最高でしたなあ。
大阪まち歩き大学。関西沖縄文庫。かじまや。うるま御殿。
昔、西成区の千本中に住んでいたときは、ふらっと渡船に乗って木津川を越えて平尾へ。沖縄そば食って帰ってました。
贅沢な遊びです。控え目にいいますが、最高でしたなあ。
大阪まち歩き大学。世の中にはいろんな御神籤がありますが、たまに無料の御神籤があって。大今里の八剣神社(八王子神社御旅所)の御神籤もそのひとつ。
僕は三番。吉でした。
大阪まち歩き大学。大正区まち歩き。姫島山専稱寺。
大正区の三軒家はかつて姫島と呼ばれていたという伝承がある。この姫島がアカルヒメ伝説(古代の新羅王子アメノヒボコの妻。DV夫だったので大阪に逃げてきたという)と結びつく。
ところが姫島は三軒家だけではく西淀川区姫島にもある。西淀川区姫島のみなさんは「アカルヒメがやってきた姫島はうちや」といい、大正区三軒家のみなさんは「いやうちこそアカルヒメがやってきた姫島や」という。
僕は西淀川区姫島をまち歩きするときは「あのアカルヒメがやってきた姫島です!」といい、大正区三軒家をまち歩きするときは「ここがアカルヒメがやってきた姫島です!」と案内してます。
天下御免の日和見です。
大阪まち歩き大学。大正区三軒家。近代紡績工業発祥の地。三軒家公園。
明治15年(1882)に澁澤栄一や藤田伝三郎の出資で、ここに大阪紡績会社(現在の東洋紡)を設立した。
『あゝ野麦峠』や『女工哀史』のような話があるのかと思いますが、大阪紡績は男どもの夜這いが酷かったとか。女工ばかりだから寮に忍び込もうとした。
地方の紡績工業だと逃げ出さないように外側から女工の部屋のカギをかけたそうですが、大阪は女工たちが内側からカギをかけたとか。あんまりにも大阪の男どもが忍び込んでくるので面倒臭かった。
昔、大正区の郷土研究家で生き字引といわれたMさんから聴いた話。Mさんももう亡くなられて10年ぐらいになるが、そのMさんが直接、大阪紡績の女工さんから、そういう裏話を聞いたとか。
なんの文字の記録がないから、ほんまかどうか、ちょっとわかりません。わかりませんが紡績工場といっても場所や時代によって、いろいろな労働環境があり、女工の実態があったということでしょう。
本日はグランキューブ中之島。大阪府高齢者大学の入学式。僕は毎年、まち歩きの講師をしている。
今年も2300名を超える受講生で日本一の社会人大学といわれている。「入学式」があり、その会場がグランキューブ中之島というのも凄い。今年で15年目を迎える。
大阪近郊のシニアのみなさんには一度、オススメします。凄いネットワークです。知人、友人がようさんできまっせ。
大阪まち歩き大学。西長堀。大阪木材市売市場発祥の地。
大阪は材木市場のまちだった。木材は切って、すぐ使えるわけではない。切ったばかりの木材は生木で、まだ木の内部に養分が生きている。生木をそのまま木材として使ってしまうと芽が出たり、成長(膨張)したりして家具が歪む。
切ったあとは乾燥させることで質の良い木材となる。近代は専用の乾燥室などがあるが江戸時代にはそんなものはない。だから水中乾燥という方法が使われた。木材を池や沼地の貯木場に沈めて、そうして木の養分をゆっくりと抜いていく。
水中に入れることで乾燥はゆっくりとなる。切った木材を外に放置していると乾燥が早く割れやすくなる。水中乾燥はその心配がない。ただ木の種類にもよるが長いものは10年20年と寝かしたりするという。
早く乾燥させたいときは海水につける。海は塩水だから浸透圧の関係で木の養分の抜けが真水よりも早い。しかしあまり早く抜けると木の香りなども抜けて木が死んでしまう。
いちばんいいのが真水と海水をブレンドにすること。そして、これが大阪の堀川だった。大阪は満潮や干潮によって時には淀川、大川の水が流れ込み、また時には大阪湾の海水が流れ込む。汽水のエリアで真水と海水が入り混じる。これがじつは木の乾燥にいっちゃん適している。
海水で他よりも早く木の成分が抜け(商品として市場に出るのが早い)、しかし川水で、木の香りなどは保たれる。大阪の堀川は良質な貯木場であり、だから木材市場が立ち、殷賑を極めた。その最大の市場が西長堀川界隈だった。
大阪は位置もよかった。畿内半島には紀州があり、日本最大の木材生産地で大阪は近い。さらに大阪湾は瀬戸内海の東に位置していて、四国や九州の山々の良材も運び込まれた。船でそのまま大阪湾に入り、大阪市中の堀川で貯木された。
僕もこどもの頃は西道頓堀川あたりで木が浮かんでいたのを覚えている。こどもがよく遊んでツルッと滑って川に沈んでしまい、不幸な事故も多かったという。「絶対にこどもは貯木場では遊んでいけない!」というのが決まりだった。それを破ると本気で親や木材屋に殴られたという。
貯木場は近代は大正区に多かった。その後、大正区の貯木場の大部分は埋め立てられ、住之江区あたりに移転した。南港、平林あたりには今も巨大な貯木場が並んでいる。
モノレール越しに貯木場を眺めるのが好きだが正直、あまり木は浮かんでいない。どこか寂しい光景となっている。しかし、それがまた良い。時代の流れというやつだろう。
新潟市内を歩いていた時に発見した石宮神社。石が神さん。こういう神社は好きですな。江戸時代の「流作場」というエリアにあったとか。
新潟は文字通り、潟ばかり。すぐ水につく。いろんなものが流れていく。流作場なんてのは名前からして危険。そういう場所にあっても流されない巨石であったのだろう。神の石として崇められる。
また、実は、あえて「流作場」なんて大変な名前をつけることで、しかし年貢を免除してもらう…という意味合いもあったりする。「ここは田畑作ってもダメなんですわ大変なんですわすぐ流されるんですわ(=だから免税地にして)」PR。
荒田とか窪田とか沼田とか泥田とか、なんでそんなダメな地名に?と思いますが、実は、あえて、そういう名前にして免税地、税金免除を狙ったりしたとか。
農民は、庶民は、常に、したたかであります。
新潟市立歴史博物館。坂口家と新潟。新潟新聞の人々。新潟の新聞と地主文化。
新潟県立歴史博物館(長岡市)は以前に行ったことがあったが、新潟市立歴史博物館は初であった。地味にアクセスしにくいところにあるし…。「安吾風の館」は5回ぐらいいってるのですがw
新潟市立歴史博物館での安吾関連の展示はちょっとだけ。そりゃそうかw
安吾の父・仁一郎は新潟新聞の社長で、政治家でもあった。新潟新聞は民政党系の新聞だが、そのライバルが新潟毎日。こちらは政友会系の新聞で「新潟新聞」と「新潟毎日」は常日頃から紙面上でお互いを罵りあっていた。
当時のメディアはプライバシーや人権に対する概念が低い。個人攻撃も激しく社長の仁一郎の家族にもそれが及んだ。安吾の母(仁一郎の妻)はそれでノイローゼ状態になり、いろんなストレスから安吾への接し方が歪み、育児放棄、ネグレストのような状況になったらしい。
母との確執は安吾の自伝的小説群に詳しい。これがいずれも名作、傑作揃い。僕は多大な影響を受けておりますw
新潟市立博物館。新潟港は江戸時代は長岡藩領だった。それが幕末に天領になる。何故、天領になったのか?というと、薩摩藩の密貿易に携わっていたから。「唐物荷抜事件」という。
天保6年(1835)、天保11年(1840)と2回も幕府に発覚し、長岡藩はお咎めとして新潟町、新潟港を没収される。その後、1843年に新潟奉行が開かれ、川村修就が着任した。この川村修就はのちに堺奉行、大坂町奉行、長崎奉行を務めた優秀な幕臣で、あの勝海舟が「三河武士の鑑」と褒め称えているほど。
ちなみに修就の孫が川村清雄で、祖父の大坂赴任にも付き添い、大阪時代には当時、超一流の南画家であった田能村直入に教えを受けている。清雄はのちにパリ、ヴェネツィアにも留学し、近代日本最初期の洋画家として大成した。洋画家とカテゴライズされるが、日本画の要素も渾然一体となっていて、この味はなかなか他にない。和洋折衷建築のような時代の美術だがユニークな画風で僕は好きですw 話が逸れた。
新潟港は天領となったことで大きく運命を変える。なによりも日米修好通商条約の開港五港のうちの一つとして選ばれたことが大きい。もし唐物抜荷事件がなくて幕末まで新潟港が長岡藩領であったら幕府の一存では開港が決められない。ある意味、唐物抜荷事件のおかげで新潟港の運命が決まった…というと言い過ぎかw
しかし正直、新潟港は阿賀野川、信濃川の二大河川の土砂堆積が凄まじく港湾施設としては課題が多かった。この辺りは大和川、淀川の二大河川を持つ大阪と共通する欠点を持っていて、大阪も川口港が開港したが、遠浅の海で全く外洋船が横付けできないので不人気となり、あっというまに神戸港(神戸は天然の良港)にお株を奪われた。大阪港が国際港として再浮上するのは天保山の先に大阪築港、築港大桟橋(明治36年、1903)を建設して近代港湾となってから。
新潟港も開港したはいいが国際港としてはあまり流行らず、長くサケやマスの遠洋漁業の基地として使われたという。つらい。その後、大阪港のように大規模改修工事を行い、昭和初期に近代港湾として整備されていった。
特に新潟港が大発展を遂げるのが昭和4年(1929)の満洲航路の開設。その後の昭和6年(1931)の上越線全線開通で東京〜新潟〜満州〜新京の日満ラインが繋がった。新潟港発展の歴史は、ある意味、日帝発展の歴史とリンクするが、それも1945年の敗戦によって終焉を迎える。
戦後は日本海側唯一の中核国際港湾だが、国際航路は正直、あまり芳しくない。北朝鮮の万景峰号の入港は話題ではあったが、これもいまはない。かつてはウラジオストクやナホトカを結ぶ航路もあったらしいですが近年は全く使われていないとか。
ロシアや北朝鮮とのフェリーが平和に、安全に行き来できるような時代になれば、新潟港は大発展するだろうが、なかなかそんな時代はきそうにないですな。冬の時代が長い。つらい。
大阪まち歩き大学。勝山の浄念寺さんの北にある地蔵尊。1959年12月に「青磁」という方が書かれた地獄絵が掛かっている。これがなかなか味があって良い。
やっぱり地蔵堂には地獄絵図がないとねえ。
浄念寺さんは珍しい融通念仏宗の寺院。大阪市内ではちょくちょく見かける。融通念仏宗は「お血脈」の信仰を持ち、これは天海や等順(善光寺中興の祖)にも多大な影響を与えた。落語の「お血脈」の題材にもなっている。