父は僕に「比叡山に連れて行ってほしい」と遺言(遺言というほど大袈裟なものではないが…)をして、僕もそのつもりで動いていたのだが、母はなぜか「お父さんは琵琶湖に連れて行ってほしいといっていた」と比叡山から琵琶湖に遺言の中身が変わっていた。
母は父が亡くなってから混乱気味で、歳も歳だから認知症もあり、記憶が勝手に書き換えられる。「別に母の気が済むならいいか…」と比叡山から足を伸ばして琵琶湖の浮御堂もお参りした。
「ああ。これで、お父さんの遺言を果たせた」と母は満足そうだったので、もはや何も言うまい。
【新潟県】阿賀町の風舟にてまち歩きフォトスゴロクの研修。
阿賀町を歩き、気になったもの、面白いと思ったもの、興味関心を覚えたものなどをスマホで撮影。3〜5枚ほど選択し、フォトプリントでL判写真にしてプリントアウト。それらを組み合わせて、編集して、まち歩きフォトスゴロクを作る。
…はずだったんですが、なんとフォトプリンターが動かないww 急遽、パワポに画像データを貼り付けて印刷して何とか事なきを得る。
同じまち、同じ道を歩いていても、それぞれ見ているもの、感じるもの、撮影するものは全然違う。僕も現地を歩きましたが「え?そんなんあった?」というものがワンサカでてくる。自分のまちの見方、認識が、如何に視野狭窄で、単眼的であることか…と思い知らされる。
まち歩きフォトスゴロクを作って最後はみんなで遊んでみる。これがまた面白い。大事なのは遊び心。遊びだから人は夢中になり、本気になり、熱狂する。
地域おこし協力隊のみなさんと一緒にやりましたが、やり方をレクチャーしたので、今度は阿賀町の高校生たちと一緒にまち歩きフォトスゴロクをやって見るとのこと。ぜひともやってほしい。いろんな発見があるはずです。たぶんw
新潟県。阿賀町。まち歩きフォトスゴロクの研修。大阪屋。
和菓子屋である。店の名物「万代太鼓」(美味しゅうございました)を買いながら「ぼく、大阪からきましてん」と店の方に話しかけてみたら、いろいろと店の成り立ちについてお教え頂いた。
初代の岡嘉平は彦根藩領・近江国犬上郡石畑村(滋賀県犬上郡豊郷町石畑)の生まれで大阪に出て菓子修行を行った。その後、新潟に移り住み、「浪花堂大阪屋」と号して安政5年(1858)に菓子屋を開いたという。腕がよかったのかあっというまに繁盛して、いろんなファンがついたようだ。店の看板は會津八一(別名・渾斎)の揮毫というから凄い。
大阪屋という店名の和菓子は青森県弘前市にもある。聞けば特に新潟の大阪屋と青森の大阪屋は関係ないらしい。「青森にも大阪屋があるのですか?」と逆に質問されたw
弘前の大阪屋の「冬夏」という和菓子は淡い、儚げな味で、じつに絶品だった。弘前の大阪屋の創業者は、じつは豊臣方の人物らしく大坂の陣で敗北し、縁故を頼りながら弘前まで逃げ、そして和菓子屋を開いたという。だから「冬夏」というのは大坂の「冬の陣」「夏の陣」から来ていると聞いた。
弘前の人たちは秀吉贔屓、豊臣贔屓(?)のようなところがある。というのも弘前藩の初代藩主の津軽為信は、かつては南部氏の部下で、しかし南部氏を裏切り、独立した成り上がり者だった。南部氏から何かにつけて目の敵にされていたが、その為信を大名として認めたのが秀吉だった。その御恩を為信は一生、忘れなかった。
秀吉死後、豊臣政権は滅亡し、為信も江戸幕府、家康に帰順するが弘前城の「館神」という神社に密かに秀吉の木像を安置していた。「館神」は「開かずの宮」で江戸時代を通じて中に何があるか?は秘密であったが明治になって開けてみると秀吉像が発見された。幕府に見つかったら改易されるような危険な行為だが、それほど為信は秀吉贔屓、豊臣ファン(?)であったらしい。
弘前には、だから結構、豊臣の残党、逃げてきた人がいるという。その中に弘前の大阪屋の創業者もいたということだろう。
新潟の大阪屋を見た時に「もしかして豊臣方の残党…?」とか一瞬、思って、それで店の方に聞いてみたんですが、全くそうではなかった。残念w
新潟県。阿賀町。まち歩きフォトスゴロクの研修。よくある聖書配布協力会の看板。
日本仏教会も仏教配布協力会(?)を作ってやればいいのに。
「仏の顔も三度まで」
「馬の耳に念仏」
「知らぬが仏」
「釈迦に説法」
あ。ちゃうわ。これ、ことわざや。
新潟県。阿賀町。まち歩きフォトスゴロクの研修。
津川駅から阿賀野川、きりん橋を越えて集落に向かうと琴平清水という道標を発見した。なんだこれは?と思って向かうと、湧水があった。
水上安全と湊町の繁栄を願って宝暦9年(1759)に御番所の新見半蔵と町代の藤左衛門が琴平大権現を御小屋の琴平山に勧請したという。阿賀野川を行き来する帆船や筏乗衆、船荷の積み下ろしをする丁持衆の喉を潤して、留守にする家族は水を汲み、お供物を添えて琴平大権現に安全祈願をしたとか。
いまも飲めるようで飲んでみましたが柔らかい。阿賀野川の伏流水かな。美味でした。
【新潟県】阿賀町にて。まち歩きフォトスゴロクの研修ということで津川駅から出発で阿賀黎明高校までを歩く。
津川駅を出ると、いきなり阿賀野川ときりん橋が眼前に。集落に向かうには阿賀野川、きりん橋を越えて南に向かう必要がある。これが結構、距離がある。歩きながらなんでこんなに集落まで遠いのか?とぼやいたw
疑問に思って、なんで集落から遠く離れた場所に駅(磐越西線)を作ったのか?と聞いてみたら、じつは阿賀町川の北側に昭和電工(現在は新潟昭和)の工場(最寄駅は津川駅の隣の鹿瀬駅)があったとか。それで昭和電工の従業員、関係者の利便性を考えて駅と線路を川の北側、集落から遠く離れた場所に置いたという。集落よりも工場最優先だったということらしい。
実際に昭和電工は1950年代の最盛期には2000名を超える労働者がいたとか。阿賀町に合併する前の津川町の人口は約5000名(2005年)、鹿瀬町は約2000名(2005年)という統計データがあったから昭和電工の労働者が町に与えた経済効果は凄まじいものがあっただろう。
企業城下町の歴史。その記憶を留めているのが、この駅と集落の微妙な距離といえるw
新潟県。阿賀町。まち歩きフォトスゴロクの研修。
「雁木発祥の地」とあった。この辺は雪深い。大雪となるとあれよあれよと交通手段がシャットダウンされる。ライフラインが崩壊しかねない。そこで雪を防ぐための雁木というアイデアが生まれた。
要するに街道沿いの商家の庇(ひさし)を伸ばして雪が道を塞ぐのを阻止しようというものらしい。阿賀町の商家は、現在は空き家になったり、建て直しになったりしていて歯抜けのようになっているが昔は雁木が並んで人々の往来を守ったらしい。
この手の「共助」の精神は雪国には強い。色濃く残っている気がする。雪がある意味「みんなの共通の敵」みたいなところがあるw 雪対策には一致団結して取り組まないといけない。何もいわれてないのに自分の家だけではなくて隣の家、隣の隣の家、隣の隣の隣の家の道路や屋根なども雪掻きしていく。それが当然というようなマインドが強い。
雪国の都市がいいなあと思うのは、こういう共助が息づいているところ。それだけ雪が恐ろしいということでもあるんですが…。自然環境が厳しいから人が暖かくならないと生きていけない。
新潟県。阿賀町。まち歩きフォトスゴロクの研修。
こんぴらさんの水があるかと思いきや、住吉神社があった。阿賀町は山の中にあるように見えるが、阿賀野川が流れている。江戸時代は川は川港で、水上交通が盛んであった。航海の神であるこんぴらさんや住吉さんが祀られるのは当然といえる。
住吉神社には神輿蔵があり、そこの説明書きによると、実際に大坂・住吉で作られた神輿であるとか。わざわざ大坂で作ったものを阿賀町(津川町)まで持ってきたということになる。住吉の大神への崇敬。すごいなあ。
大坂・住吉には、かつては「大佐」という名門大工集団がいた。あまり知られていない(残念なことに!)が住吉大社は伊勢神宮と同じように20年に一度、式年遷宮をする。古代から続き、中断した時代もあるが、お抱えの宮大工集団がいたわけで、ものづくりのDNAが連綿と受け継がれていた。住吉の大工集団たち、職人たちは神社だけではなくて地車、神輿などを手掛け、お手のものだった。
阿賀町の神輿が大佐の制作かどうかはわからない。どこだろうか。なにか記録があるのかどうか。みてみたいなあ。
新年度ということで、みなさま、入学とか就職とか転職とか、いろいろと変化に富んだ記事がたくさん上がっておりますが(おめでとうございます)ご安心ください。陸奥賢はなにも変わりません。至って低空飛行。
ビール、麒麟山のんでお店で買ってきた魚のフライ(超美味)をパクパク食べるというような、どっからどうみても中年オヤジな日々をコツコツと弛まなく歩んでおります。
しかし魚はうまいねえ。アホだねえ。なんでこんなに美味しく生まれてきたのか。そりゃ食べられてまうわ。は!?もしかして、おれのために美味しく生まれてきてくれたのか。ありがたいねえ。