大阪まち歩き大学。尼崎で発見した「三城同盟参城キャンペーン」。大阪城と尼崎城と岸和田城で連携しているらしい。
https://www.osakacastlepark.jp/sanjou/
うーむ。惜しい。江戸時代の大阪湾には、あともうひとつ淡路島に洲本城があった。ここは西日本最大級の水軍城といわれ、脇坂安治が築いた貴重な「登り石垣」が残っている。上の山城と下の平城とふたつの城を石垣で結びつけたものでまさに難攻不落の名城であった。
洲本城〜尼崎城〜岸和田城で大阪城を取り囲む。トライアングル(三角、三城)ではなくてスクウェア(四角、四城)で西国大名(仮想敵は毛利、島津であろう)に備えていた。そういう観点からみないと瀬戸内、大阪湾の海防は理解できまへん。
いずれ洲本城も、ぜひともキャンペーンに入れてほしいなあ。素晴らしい城やのになあ。
ついに夢の対決である。新旧大阪万博デスマッチ。万博怪獣エキスポラ(手塚治虫作)と死闘を繰り広げる日も近い。
今年度、堺サンドイッチキャンパスの「地形を楽しむウォーキング教室」で講師を務めました。フォトスゴロクを使って、堺のまち歩きスゴロクを作成し、それが堺市立中央図書館で掲示されています。4/22まで。
受講生のみなさんでルートを決め、歩き、写真を撮影し、編集して作成しました。素晴らしいまち歩きスゴロクです。堺のみなさん、ぜひとも見に行ってみてください~^^
大阪まち歩き大学。東成区。さつき児童公園にて。清水太一郎之碑。三三の記念碑。
清水太一郎は明治32年(1899)に大今里村に生まれて33歳で大阪市議に初当選。以来8回連続当選して昭和42年(1967)の引退まで33年間の長きにわたって大阪市政に尽力した。昭和27年(1952)には第47代目大阪市議会議長なども務めた。
「三三の記念碑」というのは「33歳」から「33年間」務めた市議人生の感慨を込めて名づけたのだろう。もしかしたら「散々(33)な目に遭いながらも市議会で闘い続けてきた」というような含みもあるのかも知らない。
面白いというか首を傾げるのが石碑に「王将」「大阪讃歌」という詩?ポエム?のようなものが刻まれていること。「ネオンサインや地下鉄よ伸びよ栄えよ商工の街」「三十星霜浪速の地につくす誠」「命がけでも俺はやる」とか妙にフレーズが時代がかっていて香ばしい。
清水太一郎氏のキャラがなんとなく伝わってきますな。「王将」やったんでしょう。地域のボス感を感じる。
大阪市内では市長では池上四郎、関一、府知事では西村捨三、林市蔵の銅像などがある。市議員の業績を讃える顕彰碑は少ない。あまり見られない。そういう意味では貴重なものかも知れない。
大阪万博2025年よりも紀元2700年大祭の2040年の方がいろいろとアレな気がしている。18年後。狂うやろうなあ。日本。
大阪まち歩き大学。東成区。さつき児童公園。
この公園には清水太一郎顕彰碑の隣に「母子ほけん地蔵尊」というなかなか聞きなれないお地蔵さんがいる。石板を読むと以下のような文章が書かれている。
「人間が地球に誕生して以来幾多の試練を繰り返し、やっと人間の尊厳生命の尊重を知ったのは、ごく最近の事でありましょう。平和で民主的な人間性の豊かさを国是として制定されました新憲法がなによりもこの事を物語っております。わたし共東成母子会はかねてから母子保健、児童福祉法の精神にもとづきその実現に微力を捧げて社会の態勢と風潮は必ずしも満足した方向に進んではおらず誠に残念と言わねばなりません…」
これまたなかなかエモーショナルな文章であるが、要するに母子保健法の制定を記念して東成母子会が作ったお地蔵さんらしい。
ここはいついっても花が綺麗で普段から誰かお世話する方がいるのだろうと思われる。僕がまち歩きで訪れた時も高齢女性がお参りしていった(隣の清水太一郎の顕彰碑は完全無視で、それもなかなか興味深い)。
このお地蔵さんで、ちと気になるのが玉垣に「中華民国台北市助産士公会」なるものがあること。東成母子会と台北市の助産士がどういう経緯で繋がるのか?謎やなあ。
地蔵さんは説明によると昭和46年(1971)建立で、この頃はまだ日本と台湾は日華平和条約で友好国であった。しかし翌年、ニクソン大統領が中国を訪問すると田中角栄政権は中国こそが「中国唯一の合法政府」と言い出して日中国交を開始。もちろん激怒したのは台湾で日本政府を強く非難して即日、対日断交声明を発表した。「日台断交」というやつで、いまだに日本は台湾との国交はない。
母子会のネットワークにも何らかの影響があったかも知れませんなあ。
大阪まち歩き大学。東成区玉津。松下幸之助起業の地碑。
この石碑は「此付近 松下幸之助起業の地」とあり、じつは「此付近」というのが画期的なことらしいw
行政が史跡銘板、石碑などを建立しようとすると、正確にその場所でないと石碑を建てない…というようなルール、決まり、こだわり(?)があるらしいが、民間はあまりそういうことに頓着しない。「此付近」で済ましてしまったのがこの石碑で、別に「此付近」でいいのではないかと思うw
大阪は日本でも有数の歴史都市であるが何度も何度も火災にあり、戦災にあい、大空襲にあい、なによりも戦後の都市開発がこれまた凄まじい。京都や奈良のように歴史的なモニュメントが残らない。残そうとしない。気がついたら破壊しとる。
「無くしたものが多すぎる」のが大阪で、だから史跡銘板とか石碑みたいなものをひとつでも残してくれないと、まちの記憶、歴史、文化、物語が継承できない。逆にいえば石碑ひとつあれば結構、いろんなものが伝えられる。僕のようなまち歩きの仕事には大いに助かるw 「此付近」でもいいからバンバン石碑を建ててほしいものです。
松下幸之助は「起業の地」以外にも「創業の地」が福島区大開にある。話としては、まずこちらの猪飼野で大正6年(1917)に起業して、翌年の大正7年(1918)に福島区大開に移り、そこで松下電気器具製作所を創業し、それが現在のパナソニックにつながるとか。
猪飼野時代の松下幸之助は本当に大変だったようで二股ソケットを作ったが全く売れない。貯金を使い果たし、妻むめのさんに「もうあかん。心中しよう」と持ちかけたが「うちは心中するために嫁にきたんやない!」と怒られるほどだったという。
しかし起死回生となったのは東京の扇風機メーカーの川北電気(大阪市瀬戸物町に事務所があった)から碍盤(絶縁体の器具)の発注を受けたこと。それが評判がよくて業績を上げ、なんとか持ち直して大開に移っていった。
なので大阪には松下幸之助の「起業の地」(東成区玉津)と「創業の地」(福島区大開)と2ヶ所、石碑があるわけです。なんか和菓子屋とかでよくある「本家」と「元祖」みたいな話ですなw まあ、両方とも正解ということです。
大阪まち歩き大学。上本町。六万体地蔵。
大阪にはいくつか六万体地蔵がある。有名なのは天王寺区夕陽丘町にある四天王寺支院の光徳山真光院の六万体地蔵。推古天皇2年(594)に聖徳太子が父の用明天皇の追善供養のために六万体の地蔵尊を刻んで納めた…という伝承がある。いまも真光院の東には「六万体町」という町名があり、工事などをして周囲の地面を掘り返すと、よくゴロゴロと地蔵がでてくるという。
六万体の地蔵とは凄い。父・用明天皇が亡くなったのは594年。聖徳太子がなくなったのが622年。計算すると28年×365日で10220日だから、平均すると1日に6体以上のお地蔵さんを掘らないと六万体にはならない。太子は父が亡くなったあと、毎日毎日、六地蔵を掘り続けたということになる。もはや巨匠である。
ただ、この「六万体」は「聖徳太子が彫った地蔵の数」という説もあるが、「蘇我物部戦争の戦死者の数が六万人」で、それでそのような地名がついた…という伝承なんかもある。実際に蘇我物部戦争で6万人もの人が戦死はしていないだろうが…。ちょっと怖い話や。
上本町の六万体地蔵は、またいろいろと伝承が違って四天王寺参道の庚申街道にあった道祖神という。『摂津名所図会』には六万体地蔵の説明があり、それによると江戸時代には六万体地蔵の前で毎年12月16日に「泥くじり祭」というのがあったという。
六万体地蔵に鰯を供えて顔に米粉を塗り、笹にみかんやせんべいをつけて供養し、夕刻になると藁を焚いて地蔵さんの顔を泥のように真っ黒にして、その前で「明年の、明年の」と囃しながら踊ったという。
「今年も無事に年が明けるぞ」と地蔵さんに感謝するということだろう。この「泥くじり」は、おそらくは「道祖神」と同義語の「道禄神」(どうろくじん)が訛った言葉だろうと思われる。
面白いのが、この祭礼の三日前から庚申街道では子供たちが集まってきて道のど真ん中に綱を張って通行人を通せんぼして「これが天王寺の作法じゃ、太子さまの仰せじゃ」と通行料をせびり、お金や菓子などの供物をもらったとか。
これらの供物は地蔵にお供えしたというが、おそらくはそのあと子供たちに分け与えられたと思われる。「おいココ誰のショバやおもっとんねんワレええ度胸しとるやないか」いうやつで、もはや完全にヤカラである。四天王寺のルール、聖徳太子が決めたルールというが、ほんまかいなw
今年は聖徳太子1400年御遠忌であるから、いろんな寺社、地域でイベントが目白押しであるが「泥くじり祭」の復活などはない。残念やなぁ。面白い風習やし、聖徳太子信仰のひとつとして地域でやってもよかろう。こどもたちは楽しいに違いない。大人は腹立つがw
ハロウィンの「トリック・オア・トリート」の日本版のようなものかも知れない。
おおさかコモンズ?
まちを歩いてると、いろいろと新しいもん、不思議なもんが目に入ってきますな。
気になったのがポスターをよく読むと「come on,common!」とあって「commons」(コモンズ)ではなくて「common」(コモン)となっている。これでは「おおさかコモンズ」ではなくて「おおさかコモン」ではないか?
commonは「一般」とか「常識」とか「共通」とか「普通」とか「当然」といったような意味に訳されることが多い。僕は「世界観」と訳す。
これが「単数形」か「複数形」かで、だいぶ意味合いは変わってくる。つまりcommonは「単数(ひとつ)の世界観」しかない状態であるが、commonsとなると「複数の世界観」が交錯している状態を表す言葉になるから。
自分とは違う常識、自分とは異なる普通、自分とは相容れない一般、自分には理解できない世界観…そういう「他者」と共にあるのがcommons(複数形)であろう。
僕はcommons(他者と出逢う、出逢ってしまう、多様な世界観)が入り乱れて混淆する、カオスモスな時間や空間や場所を作りたいと活動している。common(ひとつの世界観)を作ろうとは思っていない。「ワンワールド」みたいな時間や空間や場所は、個人的には、あんま好っきゃないw
「大阪はひとつ」ちゃう。「大阪はひとつひとつ」や。要するにバラバラです。この都市は纏まらん。みんなやりたい放題やりおる。それでええ。commonsであること。大阪の可能性は、たぶん、そこや。限界もそこやったりしますがw
んで結局、おおさかコモンズとは何なのか?このポスターでは、いまいち、よくわからない。うーむ。他者やなあw
大阪まち歩き大学。上本町まち歩き。再会の碑。
謎のモニュメント(まちなかアート的なアレ)の真ん中に路上喫煙アカン!マナー守りなはれ!という啓発のチラシが埋め込まれている。これ、こういう使い方するんでしたっけ…?
このチラシがマナーを守ってない気がする…。