大阪名物のお好み焼きというのは「なんでもお好みの食材をいれてもよろしい」からお好み焼きというわけです。
「ミックスジュース・ナイトフィーバー!」の「なんでもお好みの食材をいれてもよろしい」というのは、一見、冒険的で挑戦的でアグレッシブですが、じつは非常にオーソドックスで、正統的な、大阪人の「混ぜ混ぜ文化」「ごった煮感覚」「ミックス精神」の発露であるともいえます。
「お好みックスジュース」なんですな。「闇鍋」ならぬ「闇ックスジュース」なんて呼ばれてますけどww
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今日の昼間に飲んだ心斎橋ミツヤのミックスジュースです。美味しかったww
いっつも毎晩、飲んでるミックスジュースが、めっちゃ濃厚で複雑でカオスな味であることがよくわかりました。そうや。ミックスジュースってこういう味やった・・・とひとりで再確認してましたww
ミックスジュース・ナイトフィーバー!13日目!
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完成品はこちら!完全に緑色です!
当初は「ガリガリくんは結構、美味しいんやない?」と思っていたんですが、ちょっと想像以上に大根の葉が強烈で、なんというか辛かったです。ミックスジュースなのに辛い!飲めなくないけど、辛い!ww
今夜もまた新しい味でした。毎晩毎晩、ミックスジュースの歴史を塗り替えてる気がしますww
西宮えびすは、傀儡師の発祥地でもあります。えべっさん信仰を広めるために、箱人形を使って村村を巡って宗教劇を展開したんですな。河原者ですが、えべっさんに使える神人として治外法権的な立場で、傀儡女、渡り巫女、流れ巫女(男性と性行為をしてケガレを祓う)なども数多くいました。
この傀儡師の一団が、やがて浪華の地にやってきて、集落として住み着いたのが道頓堀川界隈。市中である大坂三郷からは外れた悪所(アジール)ですが、ここに遊郭や死刑場、墓場が設置され、さらに芝居小屋(芝居を観るなんてことは「悪所通い」でした)が設置されて幕府公認となると、傀儡師たちは大いに勢力を伸ばし、これが道頓堀五座に発展。やがて近松門左衛門や竹田出雲といった天才が生まれ、人形浄瑠璃、世界遺産の文楽へと変貌していきます。(ちなみに道頓堀名物の「くいだおれ太郎」というのは電気じかけの文楽人形です。くいだおれ太郎のルーツをたどると傀儡になるんですな)
実際に現代も道頓堀は今宮戎神社の氏子地域で、阪神タイガースが優勝するといちびった若もんが飛び込む橋は「戎橋」で、戎橋筋商店街(船場から考えると心斎橋筋商店街も)は今宮戎さんへの「参詣道」です。十日戎にあわせて、道頓堀界隈の商店街は宝恵駕籠行列などもやっていますが、これは元は花街の遊女たち(このルーツも傀儡女にたどることが可能でしょう)のお礼参り(病気もなく、無事に男性のお相手が務めることができました。ありがとうございます・・・というものです)でした。おもに正月と六月晦日に行われていたようで、正月は今宮戎。六月晦日のお礼参りは愛染さんの宝恵駕籠行列として続いてます。
傀儡発祥の西宮と、文楽発祥の今宮(道頓堀)。西宮と今宮は「えべっさん信仰の、河原者のまち」という意味でリンクしている。西宮界隈はそうした「まちの匂い」が廃れましたが、今宮界隈は、いまだに匂いが濃厚に残ってます。また、こういうまちからは、近代になっても「客人(まれびと)」の折口信夫(木津村。のちの今宮村出身です)のような異形な民俗学者が出てくる。ゲニウス・ロキ(地霊)というのは、すごいもんです。
画像は西宮の傀儡師。
西宮えびすは、傀儡師の発祥地でもあります。えべっさん信仰を広めるために、箱人形を使って村村を巡って宗教劇を展開したんですな。河原者ですが、えべっさんに使える神人として治外法権的な立場で、傀儡女、渡り巫女、流れ巫女(男性と性行為をしてケガレを祓う)なども数多くいました。
この傀儡師の一団が、やがて浪華の地にやってきて、集落として住み着いたのが道頓堀川界隈。市中である大坂三郷からは外れた悪所(アジール)ですが、ここに遊郭や死刑場、墓場が設置され、さらに芝居小屋(芝居を観るなんてことは「悪所通い」でした)が設置されて幕府公認となると、傀儡師たちは大いに勢力を伸ばし、これが道頓堀五座に発展。やがて近松門左衛門や竹田出雲といった天才が生まれ、人形浄瑠璃、世界遺産の文楽へと変貌していきます。(ちなみに道頓堀名物の「くいだおれ太郎」というのは電気じかけの文楽人形です。くいだおれ太郎のルーツをたどると傀儡になるんですな)
実際に現代も道頓堀は今宮戎神社の氏子地域で、阪神タイガースが優勝するといちびった若もんが飛び込む橋は「戎橋」で、戎橋筋商店街(船場から考えると心斎橋筋商店街も)は今宮戎さんへの「参詣道」です。十日戎にあわせて、道頓堀界隈の商店街は宝恵駕籠行列などもやっていますが、これは元は花街の遊女たち(このルーツも傀儡女にたどることが可能でしょう)のお礼参り(病気もなく、無事に男性のお相手が務めることができました。ありがとうございます・・・というものです)でした。おもに正月と六月晦日に行われていたようで、正月は今宮戎。六月晦日のお礼参りは愛染さんの宝恵駕籠行列として続いてます。
傀儡発祥の西宮と、文楽発祥の今宮(道頓堀)。西宮と今宮は「えべっさん信仰の、河原者のまち」という意味でリンクしている。西宮界隈はそうした「まちの匂い」が廃れましたが、今宮界隈は、いまだに匂いが濃厚に残ってます。また、こういうまちからは、近代になっても「客人(まれびと)」の折口信夫(木津村。のちの今宮村出身です)のような異形な民俗学者が出てくる。ゲニウス・ロキ(地霊)というのは、すごいもんです。
画像は西宮の傀儡師。
自分の生き方、思想、哲学を論理的整合性だけで規定しようとするのは土台、無茶な話で。人間はもっとおっちょこちょいで、カオスで、曖昧模糊で、やぶれかぶれで、テキトーで、うろんなる存在ですから、要するに人は誰でも矛盾撞着を抱えて生きている。ここで必要なのは矛盾撞着を無視して性急に答えを出すことや、矛盾撞着に囚われてしまって思考停止するのではなく、焦らず、じっくりと、眺めてみること。そうしているうちに矛盾撞着にしか思えなかった現象や事象が、じつは通常と異なる角度、次元、パースペクティブから眺めてみると、矛盾撞着を持たない形態に変貌してくる。いや、実際、どういう風に変貌するかはわからないんですが(余計こんがらがってくることも往々にしてありますがww)、そういう解決の可能性が出てくる(かも知れない)。「戦う」とか「逃げる」とか兎角、この世は住みにくい。とりあえず「様子を見る」ことの大切さ。この選択肢を知ってるだけでも、けっこう救いになります。