「幸」という漢字は「手錠」を意味する
「幸」という漢字は「手錠」を意味する。本来であるならば、両手を切断される罪であるのに、それが手錠で済んだ。そのことが「幸」という漢字の語源です。
「幸いなるかな心の貧しき人、天国は彼らのものなればなり」(『マタイ伝』)
「善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人をや」(『歎異抄』)
罪咎(つみとが)を犯し、悔恨した人間こそが、じつは誰よりも、幸せになれる権利を持つ。
「幸」という漢字は「手錠」を意味する。本来であるならば、両手を切断される罪であるのに、それが手錠で済んだ。そのことが「幸」という漢字の語源です。
「幸いなるかな心の貧しき人、天国は彼らのものなればなり」(『マタイ伝』)
「善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人をや」(『歎異抄』)
罪咎(つみとが)を犯し、悔恨した人間こそが、じつは誰よりも、幸せになれる権利を持つ。
上野から浅草まで歩く。前回は3年前だったか。この3年間でも、東京が江戸を駆逐していく様子がヒシヒシと感じられる。悪水腫のように、メタボ肥大化していく東京的自意識過剰。江戸の、あの偉大さ、高貴さを、ぼくは東京人には忘れてほしくない。どうすればそれを取り戻すことができるのか?東京のスピードは、あまりにも、あまりにも早すぎる。
浪曲は浪花の曲と書き、浪花節ともいいます。大阪庶民の素朴な自然感情を朗々と歌い上げるOperaが浪曲。
そして、だから、浪曲の主人公は、いつだって歴史の敗北者で、アウトサイダーストーリーが多いんですな。義理人情の板挟みに悩み苦しみ、親は子を捨て子は孫を捨てて、男は女を袖に振り、女は男を思い切る。白鳥の歌に引かれ者の小唄にエリエリレマサバクタニ!の絶唱に涙涙するのが浪曲の世界観。
これは大阪が歴史上、常に敗北する都市であるとこに遠因がありまして、あえていうと負け犬だから、浪曲=浪花節という独特の芸術ジャンルを産み出した。浪曲の世界では「哀しき虚構」も数多く産み出されます。「主人公(歴史の敗北者たち)はなんとか助かって生き延びてほしい」という義経=ジンギスカン説にも似た判官贔屓が発揮されて、例えば豊臣秀頼や真田十勇士は秘密の抜け穴で鹿児島へ生き延びて、赤穂浪士たちは明国に、大塩平八郎はヨーロッパに逃げていく。そう。勝利者は歴史を作るが敗北者は詩を作る。ロマンを作る。その証明現象。
ヘタな冗談。まるで漫画か漫才みたい?そうかも知れません。ロマンはまた浪漫と書きますが、まるで「浪花の漫画」「浪花の漫才」と読み解くことも出来ます。いや、これは漱石沈流なぼくの、勝手気儘なる独善的解釈ですが。
いずれにせよ、ぼくが言いたいのは「つまり大阪人とはロマンの民だ」ということです。オダサクが死の床で「ロマンを発見した!」と叫んだが如く。歴史よりも詩を。つまらん事実よりもおもろい虚構を。大阪でコミュニティ・ツーリズムをやっていて発見したのは、この大阪人の虚実入り混じりとなったロマンの発露でした。これが浪花の、あらゆる大阪文化の、マトリックスです。
画像は新町九軒桜堤跡。
「だまされて きて誠(まこと)なり 初桜」
加賀千代女