堺東達人ツアーにて。表千家10代目宗匠の楽焼茶碗。お値段はなんびゃくまんえんとかww
フロイトはダ・ヴィンチの「モナリザ」などを観て、ダ・ヴィンチの抑圧された性の欲望や同性愛的傾向を指摘した。暗く深い渓谷の中に女陰があり、屹立する古ぼけた塔の中に男根をフロイトは読み取った。
江戸時代の日本の場合は逆になります。当時の浮世絵師たちはウタマロに代表されるような、露悪趣味そのもののエロ・グロ・ナンセンスの絵を書いておきながら、そこに天橋立や富士山、近江八景といった風光明媚な自然美を入れ込んで、みんなはそれを読み取って楽しんだ。
自然描写の中に人間の深淵なる性の抑圧を読み取ったフロイトや西欧心理学者たち。人間の性の営みの中に自然美を描写した浮世絵師たち。禁欲的なキリスト教的倫理感がダ・ヴィンチのような絵を作り上げたともいえますし、欲望や煩悩を肯定する仏教的(とくに密教的)倫理感が浮世絵の世界表現を可能にしたともいえます。
いずれにせよ、面白いのは「見立て」の世界。昨日、表千家流に茶を立てて頂きまして。以上は、そのさいに、ふと思ったこと。茶の世界は何もかも「見立て」で成り立っている。日本文化の真髄とは「見立て」です。一服のお茶の中に、男女の性愛の中に、自然や世界、宇宙を観る。「日本文化的見立て」の深さ。面白さ。つくづく利休は偉大ですな。もちろん歌麿も。
「まちづくり」といいますが、まちなんて作りようがない。家や道路やビルやタワーは作れても、まちは作れない。だから「まちづくり」というのは、ほんまは「まちのイメージづくり」です。
「あそこはなんやおもろいことしてるまちやなあ」
この声こそが大事で。このイメージを集めていけば、やがてまちのムーブメントになります。うまいこと継続していけば、まちの文化となり、歴史にまでなるかも知れない。
実体は、成功は、後からついてくる。まずはイメージづけから。もっともっと、おもろいこと、やりまひょ。あそびまひょ。
「セックスよりも、セックスのあとのシャワーの方が気持ちいい」といったのは筒井康隆。要は物事はプロセスが大事だということ。単なるシャワーでも前段階で、なにがあったか?で爽快感は変わる。簡単にいえば、お腹が減っていたら何を食べても美味しいということですなww
もし人生に達人がいるとすれば、それは物事のプロセスをじっくり味わえる人だろう。苦しみのあとには必ず楽しみがあり、楽しみのあとには苦しみがあるが、それを乗り越えたら、また楽しみがある。それを信じて待つことが出来る人。
そして、事実、そうなんや。人生、そう捨てたもんやないで。
深夜2時にゆっくりと風呂に入りながら考えたこと。しかし眠いww
足がまったく動かなくなった病人の足に手をかざして「あなたの罪は許された」なんてことをキリストがつぶやくと足が動くようになった。そういうエピソードが聖書の中にはようさん出てきます。奇跡ですな。お釈迦さんは奇跡はおこしませんが、こんなエピソードがあります。子供を亡くした若い女性が半狂乱になって釈迦のもとにやってきて、この苦しみをどうにかしてくださいと懇願する。釈迦は「では、あなたのいう苦しみというやつをここにもってきてください」。女性は釈迦のいわれたままにあちらこちらを探すが、苦しみは見つからない。やがて釈迦のもとにやってきて「わたしの苦しみはどこにもなかった」と報告する頃には、すでに女性は苦しみから開放されていた・・・。
前者は「治す」ということ。後者は「癒す」ということ。医療の世界はドンドンと進歩しています。かつては「不治の病」であったガンやエイズも、やがて治す方法が見つかるかもしれない。しかし、また新しい病気(鳥インフルエンザとかエボラとか)が登場してくるだけだろう。「不治の病」を無理やりにでも「治そう」とすることを繰り返してきたのが近代科学。しかし「不治」でも「癒す」ことはできます。不治の病に犯された人でも「癒す」ことで救済することはできる。
今後の医療は、「治す」ということよりも「癒す」ということが大事でしょう。ほんとうの健康とはなにか?人間の生き方とはなにか?医療器具につながれて、心臓だけは動くように設定されて、そういう状態の中から、人間の尊厳やライフを維持することは、そりゃムツカシイでっせ。治そうとするから、そうなってしまう。癒すことの大切さ。近代医療(治す)から現代医療(癒す)へ。こういう時代へリードする役割が、仏教にはあるとも思ってます。
聖徳太子は法隆寺を建立し、「日出づる処の天子」の書を隋に贈る。一休は師の華叟が没して一蓑一笠で説法行脚をはじめる。利休も師匠・武野紹鴎を亡くす。シェイクスピアは戯曲『恋の骨折損』を描いて初出版。モーツァルトは私費を投じてコンサートを開催するが不人気で大失敗。西鶴は妻を亡くして『誹諧独吟一日千句』を出版。芭蕉は江戸小石川の水道工事を監督。近松は初めて近松門左衛門をペンネームとして使用。チャイコフスキーはピアノ協奏曲第1番を作曲するが親友ニコライ・ルービンシュテインに「演奏不可能」と酷評される。山片蟠桃は天明の大飢饉に遭遇。緒方洪庵は適塾を開塾。福沢諭吉は明治維新を体験。芥川龍之介は神経衰弱と不眠に悩む。宮沢賢治は農学校を退職して羅須地人協会を設立、タイピング、エスペラント、オルガン、セロを習う。河口慧海はチベット潜入に成功。折口信夫は初めての沖縄・壱岐旅行へ。直木三十五は34歳になったのに直木三十三のペンネームを使用。坂口安吾はキリシタンに関する本を調べて歴史小説を構想。服部良一は太平洋戦争勃発でジャズ・ソングが書けなくなる。小松左京は「ベ平連」呼びかけ人に。桂枝雀は「2代目桂枝雀」を襲名。手塚治虫は虫プロダクションを設立。梅棹忠夫はアマチュア思想家宣言。
人生、いろいろあります。本日、34歳になりました。ありがとうございます。感謝。これからもよろしくお願いします。
コミュニティ・ツーリズム(まち歩き)のガイドは、コミュニティ(まち)そのものを事象として語るだけに留まるのではなく、コミュニティ(まち)へのコミットメントを語ることによって、自分自身のアイデンティティ、内的心象世界を告白している。そういう意味でいえば、コミュニティ・ツーリズム(まち歩き)とは自己の世界認識の提示であり、表現活動の一種といえる。大阪あそ歩のガイドさんの中からは、歌を唄う人や紙芝居をやる人、夕霧太夫の墓の前で、夕霧太夫になりきって手紙を読む演劇をする人まで現れた。ぼくはただただ「まちを歩こう!」といっていたら、まちの中から「語り手」や「アーティスト」や「パフォーマー」や「役者」が自然発生的に誕生してきた。こういう「いちびりガイド」は大阪人のメンタリティ、パーソナリティなのかも知れませんがww しかし、もっともっと、こういう表現者が、まちから誕生し、通りに溢れ出たら素晴らしい。きっと大阪のまちは楽しくなる。まちは金儲けするところではなく。語るところ、歌うところ、踊るところ、遊ぶところです。
ユングはヒトラーの登場を北欧神話のヴォータンの復活となぞらえた。ユングによれば、近代とは古代神話(共同体神話)をロストした時代であると規定され、それがゆえにヒトラーに熱狂する大衆現象が巻き起こったと説く。つまり古代から連綿と続くゲルマン神話の英雄=「元型」への根源的欲求が暴発したというわけですな。変な話なんですが神話がない近代だからでこそ、大衆煽動に古代神話(共同体神話は元型の宝庫ですから)を持ち出すと魔術的効果を発揮して歯止めがまったく効かず、じつに危険な現象が起こる。日本だって神武天皇東征の神話と太平洋戦争とを同一視したような時代がありましたから。こうした大衆を煽動しようとする権力の狡猾な陰謀に仮託しないためには、自分自身の神話、自分固有の神話を持つことでしか対抗できない。そして、その神話の獲得と証明は結局、個人的体感に由来するしかない。古代の山の民は山に入って、山の神を「見た」から山の神を畏れ敬った。神話はライフに直結していて、じつにリアルであった!しかし近代人の多くはこうしたリアルな神話をまるで体感したことがありません。ユングは問う。「では君の神話とは一体なにかね?」。この問いに答えられない人間(自分自身の神話を持たない人々)は権力や何者かに利用され、いつだって第二、第三のヒトラーに熱狂する危険性だって否定できない。だからぼくは、まちを歩くことで、逍遥することで、ぼく自身の神話を探そうとしている。まるでアボリジニのウォークアバウトのように。アボリジニは4万年もの長きに渡ってウォークアバウト(神話の舞台を巡る旅。聖地巡礼)することによって自分自身の神話(じつに幸せなことにアボリジニたちは共同体神話と自分自身の神話を重ねることが出来る)を獲得し、証明してきた。その知恵と行動の先に、微かながら新しい文明の胎動のようなものをぼくは感じている。人間は、我々はもっとウォークアバウトするべきです。旅をするべき。歩くべきです。共同体神話は滅びました。だから世界を逍遥することで、個人的体感、ライフの中から、自分自身の神話を発見しないといけない。大変な時代ですな。いや、まったく。