『鉄人28号』にはこんなシーンがあります。敵がミサイルを撃つんですが、鉄人28号にきかない。そうすると敵のボスが叫ぶんですな。「鉄人を狙うな!鉄人周辺のビルを撃って壊せ!」
どういうことか?というと、鉄人はリモコンで動くわけですが、主人公・正太郎は鉄人の近くのビルから鉄人を操っている。そのビルを破壊して、正太郎を木っ端微塵にしてしまえば、鉄人など、ただの鉄クズ!というわけです。これは「敵のボスながら、なんて頭がいいのだろう・・・」と、子供の頃に『鉄人28号』を読んで衝撃を覚えたシーンです。世間の少年漫画の敵というのは、もっと愚かで、頭が悪いですから。こういう「工夫」「計略」「戦術」がない。
『バビル2世』では、主人公・浩一と、悪の帝王のヨミは、じつは宇宙人バビルの子孫で、ともにバビルの塔の後継者なんですな。ヨミは超能力を使えるし、じつは3つの僕(しもべ。ロプロス、ポセイドン、ロデム)を自由自在に操ることもできる。浩一と、ヨミが、お互いに3つの僕に命令して操って・・・ヨミが操るロデムが浩一を襲うと、それをポセイドンが助けて、またロプロスがポセイドンに襲い掛かると、ロデムがそれを救うといった白熱のバトルを展開!・・・というのは、これはもう、少年漫画史上に残る超能力バトルの名シーンでした。敵と味方が入り乱れて、手に汗にぎるほど面白い。
横山光輝御大の作品は、サスペンスというか、ひねりというか、一癖あるというか、ありきたりの熱血少年格闘漫画ではなくて、じつに高度で、知的で、「大人」なマンガでした。のちに横山光輝御大が歴史マンガの金字塔、権謀術数の宝庫である『三国志』を描き、それが大ベストセラーになるのも、むべなるかな。
大阪あそ歩のおもしろさのひとつは「まちの多様性」にある。まず大阪はまちの歴史が長い。日本最初の大寺・四天王寺(593)は現存し、難波宮(645年)といった遺跡も見つかっている。難波宮は平城京(710年)や平安京(794年)よりも古く、大阪が京都や奈良を凌駕する1500年近い歴史を有する歴史都市であることは意外にも知られていない。
歴史は長いのに京都の天皇や江戸の将軍といった権威・権力が長く根付かなかったことも、大阪のまちをおもしろいものにしている。まちの主役は自由闊達な町衆で、自分たちの好きなように、市場や花街、芝居町、夜見世といった商いと遊興のまちをデザインしていった。このまちの歴史や多彩さを反映したものが大阪あそ歩の「150コース」という驚異的なまち歩きのコース数だろう。日本の都市の中で、これほどのまち歩きを成立しうる都市はそう多くはない。まちには無数の物語やドラマが錯綜し、まるで万華鏡のように、訪れる人を魅了する。
もうひとつ、大阪あそ歩のおもしろさとして挙げたいのが「ひとの優しさ、暖かさ」だ。大阪は公家や武家といった官吏が作ったまちではなく、町衆が作り上げたまちで「わがまち」意識が非常に高い。大阪あそ歩のガイドはその町衆の遺伝子を受け継いでいるが、まちの人々・・・商店主や名物おばちゃんなども、わがまちを誇りに思い、愛している。それゆえにまち歩きの参加者を、まち全体で喜んで歓待してくれる。普段は決して見られないような仕事の現場を開放したり、とっておきの物語やエピソードを聞かせてくれる。自然と参加者がまちのファンになって、何度も何度もまちを再訪する・・・といったことも、まるで珍しくない。
いま日本の主要都市は経済効率を最優先して、高速道路やコンビニやファミレスやファーストフードなどで均一化、非人間化していく一方だが、大阪のまちは、まだまだ多種多様なまちがあり、ヒューマニズムを濃厚に残している。大阪あそ歩に参加するおもしろさ、醍醐味は、こうした「まちの多様性」と「ひとの優しさ、暖かさ」にふれることに他ならない。
大阪・住之江の祐貞寺に住んでいた与謝野寛は漢学塾に通い、堺の覚応寺の子・河野通該と出会いました。2人は文学的才能を認め合い、大和川を挟んで北に住む寛は「鉄幹」と名乗り、南に住む通該は「鉄南」と名乗りました。
この鉄南の詩の弟子として覚応寺に通っていた、ひとりの女流歌人がいます。鳳晶子といって、晶子は鉄南のことを「兄」と呼んで慕い、詩の手紙を何度も送りましたが、その文面は明らかに恋する女性のそれでした。しかし住職の跡取り息子の鉄南は晶子に対してあくまでも師匠としての立場を崩そうとしません。そのうち鉄南は大阪にやってきた鉄幹に晶子を紹介して、すると晶子は途端に鉄幹に夢中になり、2人は大恋愛の末に結ばれました。
「柔肌の 熱き血潮に 触れもみで 寂しからずや 道を説く君」
与謝野晶子の有名なアパッショナータな恋歌ですが、これ、しかし、誰に対して歌っているのか?謎です。与謝野鉄幹やないんですな。だって与謝野鉄幹は妻子がいるのに晶子の柔肌に手を出してますからww
というわけで、この「君」とは河野鉄南ではないか?という説があります。さらに、ぼくは、じつは与謝野晶子はやっぱり鉄南のことが好きで好きでたまらなくて、それでも振り向いてくれない鉄南へのアテツケで、大親友の鉄幹に身をまかせたのではないか?・・・と推測してます。そう考えると面白いし、与謝野晶子ならやりかねないですし。
この歌ひとつに、男と女のドラマが込められている。昼ドラですけどww
東京タワーを作った男は「大阪の新聞王」こと前田久吉です。
明治26年(1893)に大阪今宮村(現・西成区)の貧農に生まれ、大正2年(1913)に天下茶屋で新聞販売店を開業して大正11年(1922)には「南大阪新聞」を創刊。これが戦前戦後を通じて、さまざまな新聞を吸収合併しながら、現在の「産経新聞」に繋がっています。戦後は電波メディア時代の到来を予見して、日本電波塔構想が持ち上がると「建設するからには世界一高い塔でなければ意味がない!」と、エッフェル塔を越える世界最高の自立式鉄塔を計画し、昭和33年(1958)に東京タワーを設立。その後もラジオ大阪、関西テレビを開局して、それぞれの初代社長に就任。昭和40年(1965)に勲一等瑞宝章を受章して、昭和61年(1986)に93歳で死去しました。
大阪・西成の偉人なんですけどね。もうちょっと、西成の、地域の誇りになってもいい。
春秋戦国時代の中国は面白い。司馬遷の『史記』を読めば、古代でありながら、現代と変わらないぐらいに、人間の描写が生き生きとしている。人間が多彩多種多様であった証拠に、「諸子百家」といわれるぐらい、イデオロギーや学問体系が乱立した時代でもありました。
ところが、その諸子百家を粉砕したのが、史上初めて中国を統一した始皇帝。彼は諸子百家の中から「法家」を取り上げて、独裁君主、郡県制による中央集権、非情なる厳罰主義でもって秦帝国を作り上げました。その他の百家は文字通り「焚書坑儒」した。
その後、秦が乱れて、漢が興ります。漢の武帝は秦のような法家思想では国が治まらないと、今度は秦時代に弾圧されていた儒家を採用します。これが中国人の性向に合い(なぜ合ったのか?はここでは述べません。書いてたら長すぎるww)見事に成功。儒家思想を用いて、国家思想として統一を図ったことで、ようやく中国は国家としての纏まりを持ちます。
あれだけの広大な土地を治めようと思えば、強烈なイデオロギーを強固に推し進めるしかなかったんでしょうな。しかし、国家がただひとつの思想体系を支持するというのは、恐ろしい反作用効果を齎します。まず諸子百家の煌くような思想の大海が儒家一本に絞られ、分流となり、支流となり、やがて枯渇してしまった。多様性こそが文化の豊潤さのバロメーターであるのに。
また儒家というのは、すでに神話化、伝説化していた堯、舜、文武、周公といった太古の「君子政治」を理想として、それを復活させようという歴史の回帰運動の思想でした。これは言ってみれば人間の進化を否定するイデオロギーで、それが国教とされた。だから諸子百家の古代中国の方が現近代的であり、漢以降の中国は、どんどんと人間が古代化していく。「歴史に遡上していく歴史国家」という複雑怪奇なパラドックスが中国の正体です。
ただ、儒家も2000年続くと、儒家でありながら、あらゆる百家を包括した儒家となるようでして。つまり「儒家百家」という奇妙奇天烈な状況となる。「孔子平和賞」もそのうちのひとつでしょう。まさかノーベル(ノーベル平和賞かて政治利用されてます)に対抗して孔子を持ち出すとは。これは新しい儒家の政治利用。愚かしくもあり、面白くもあり。
相場、株価というのが、実体経済を反映しているか?というと必ずしもそうじゃないわけで。「景気」という言葉には「気」という漢字が入ってますが、世間が強気になれば値は上がるし、弱気になると値は下がる。気の持ちようでいくらでも値が動くのが相場、株価の怖いところです。要するに時代や社会、世の中の「雰囲気」で資産、資本というものが決定される。紙幣が所詮「紙きれ」に過ぎないように、結局、資本というのは「うろんなる存在」であるわけです。その目減りにあくせくすることの不毛さ。愚かさ。
最近、マーケティングやマネージメントの世界ではバーター(物物交換)が見直されているそうですが、生産物と生産物とのあいだに紙幣という「うろんなる代替品」をはさむことによって、自分の「ライフ」(生。生き方)を見失っているのが、現代人間社会の悲哀です。大事なものは生産物であるはずなのに代替品を集めて喜んでいる。
このことは、ぼくが言い出すまでもなく、カール・マルクスが『資本論』の中ですでに言ってます。「疎外」という言葉を用いて警告してます。農業、林業、漁業といった自然界に働きかけて生産物を取得して生きていた時代では、自分のライフが明確に見えていたわけです。一粒の稲。それを作り、育てて、食べて、生きる。自分のライフは自分の手で作り上げている。ところが自然界と共存して生産物を作るのではなく、その中間マージンのみを搾取するような職業が生まれてくると、自分の人生というのは生産物、土地、自然というものから、どうしても離れてしまう。帳簿をみて、それに文字や数字を書き込んで、それで資本という「紙きれ」を頂く。こんなことを続けていては、自分がなにをしているのか、さっぱりわからなくなってしまう。太古の時代から続く自然のサイクルから我々のライフが「疎外」されてしまっている。
マルクスだとか『資本論』だとかいうと色々、誤解されそうですがww ぼくは共産主義者やありません。ただ、資本に支配されていると自分のライフを見失うことには危機意識を覚えています。どうすれば、自分のライフを、自分のものに出来るのか?これはぼく自身が生きていく上での1つの命題です。
EUは破綻しそうで、アメリカも中国も危ない。世界の銀行、証券会社がどんどん潰れていって、日本の株価もどんどん下がる。路頭に迷う人も大勢出てくるでしょう。自殺する人だっているかも知れない。しかしこれは政治や経済や体制や時代が悪いのではなく、自分のライフを生きていないと、人は誰でもそういう状況下に陥るということです。
いわば人間存在の有り様を問いただす哲学の問題。われわれは資本に隷属しない生き方を見つけないといけません。
フグいうたら、扱いは最新の注意が必要。血管や肝に毒があるそうで、1本1本ピンセットで抜くそうですな。細かい神経の人間がやらなあかんのです。「ずぼら(づぼら)」な奴では困る。「ずぼら」いうんは大阪弁で「不精をする」「なまけもの」「面倒臭がり」みたいな意味です。「あんた、そないずぼらしたらあかんで」なんて具合に使いますが、そういう人間はフグの調理にはいっちゃん向いてない。しかし大阪ではそれがフグ屋の店名になってる。曰く「づぼらや」。フグ屋やのに「づぼら」いうたら「毒残ってまっせ。知りませんで」というようなもん。しかし安い。美味い。大阪の船場の旦那衆は「おもろい店や」いうんで通って、流行りました。 まさしく「大阪商法」ですな。
http://www.zuboraya.co.jp/
古代、湧水所や滝場所が、聖なるもの、聖地として崇められて、やがて神社仏閣が置かれて崇められる…というのは往々にしてあります。大阪でいえば亀の井と四天王寺、露の井と露天神(お初天神)、玉造稲荷と利休井、玉出の滝のある清水寺などは代表的なものでしょう。古代人にとって清浄な水は命そのものですから。
また湧水や滝は天変地異の予測装置にもなります。急に理由もなく湧水や滝の水量が増えたり減ったりすると、それは地下で起こった、なにかしらの地殻変動が影響していたりするわけです。それによって、これは近く地震が起こるぞ、といった予測が可能になる。実際に阪神淡路大震災の前に、大阪の上町台地界隈の井戸が、急に水量が増えて、井戸から水が溢れ出てくる…という奇妙な現象が起こっていたとか。
こういう古代人の、自然を崇める、自然に寄り添う知恵を、現代人は忘れがちですが、意外にも大阪のまち歩きで、そういう知恵を発見したりします。大阪は古い土地柄ですから、そういうことが往々にしてあるんですな。 とくに上町台地上に多い。スピリチュアルなことをちょっというと、ここは「龍脈」というのが通ってんですわww
これだけ都市化された大阪のまちなかでも丁寧に歩いてみると、密かに息づいている古代人の敬虔な信仰を体感することができる。大阪のまち歩きの、ひとつの面白み、醍醐味、喜びです。
画像は有栖山清水寺の玉出の滝。大阪市内唯一の天然の滝です。
「大阪に 着きてはじめて 見し空を 元禄の世の 空とおもひぬ」・・・東京出身の歌人・吉井勇は、かつて大阪の空をこう歌った。
大坂の陣によって豊臣家が滅亡すると、大坂は商都として繁栄をはじめた。淀屋、住友、鴻池といった財閥が成長し、天下の富の七割を占めたという船場、天下一の花町・新町、世界初の先物市場の堂島、芝居街の道頓堀といった百花繚乱のまちを作り上げ、そうしたまちを舞台に「浮世草紙」の井原西鶴や「心中物」の近松門左衛門が登場してくる。京の天皇・江戸の将軍といった権威権力を仰がない大坂の町衆は、自由闊達なプラグマティズムで元禄の世を謳歌した。『好色一代男』の世之介のように、『曽根崎心中』のお初のように、人間がもっとも人間らしく生きようとした元禄こそは、京や江戸にはない大坂の都市文化で、だからでこそ吉井勇はその憧憬を隠さなかった。
この「町衆のまち」という遺伝子は、現代大阪にも色濃く息づいている。大阪のまちを丁寧に歩けば、そこかしこに元禄の匂いや色、雰囲気を感じ取ることができる。元禄的性格の大阪人が精一杯、生きている。高速道路とコンビニとファミレスとファーストフードによって非人間化していく日本の都市の中で、これほど貴重な都市体感はなく、大阪のまちを歩くことは、この「人間らしさ」との邂逅に他ならない。
大坂人は鯛を好みました。「めでたい」の鯛。大坂ではかつて節分から数えて八十八夜までを俗に「魚島」といいました。春先になると瀬戸内には鯛が大量に現れて島のように見えたからで、この時期の鯛は豊漁で値段も安く、味も最高に素晴らしいので大坂商人たちは、常日頃、お世話になった得意先などに鯛を贈ったそうです。
対して、江戸は鰹です。鰹は「勝つ」に通じるので、武家社会に好まれた。また春先になると将軍様は「初鰹」を食べる習慣があって、江戸っ子は権威主義ですから将軍が食べている初鰹をなんとかして入手しようと躍起になりました。文化9年(1812)3月25日に魚河岸に入荷した初鰹の数は17本で、うち6本が将軍家。3本は高級料亭・八百善が2両1分で買い、そのうち1本は歌舞伎役者の中村歌右衛門が3両で買って大部屋役者にふるまった…なんて記録も残ってます。当時の下男、下女の1年間の給金が1両2分ぐらいで、どれだけ法外の値段やいうのがようわかりますな。いまのお金に換算すれば1本500万円とか600万円ほどです。「女房を質に入れても食べたい初鰹」という江戸川柳はこういう時代背景から生まれてます。
ちなみに鰹は回遊性の魚で太平洋をグルグル泳いでるんですが、本当は春よりも秋のほうが美味しいんです。「戻り鰹」というやつで海水温が低い影響で脂がのってるんですな。春の初鰹よりも安くて美味しい戻り鰹を好んだのが実は大坂人です。浪花っ子は将軍家が食べるからといって、まずくて高い初鰹を必死になって買いあさる江戸っ子を「江戸馬鹿」といって嘲ったとか。
大坂と江戸の都市の性格、文化特性の違いですな。実を取る大坂。名を取る江戸。