来年の大河ドラマは平清盛やそうです。いろいろと清盛のことを調べたんですが、あまりにも早すぎた天才とでもいいましょうか。これほどの大人物とは思いませんでした。彼は後白河法王(院政)と戦い、藤原家(摂関家、公家勢力)を倒し、東大寺の大仏(宗教権力)を焼き払いました。天皇と公家と宗教という三すくみの暗黒の中世時代を破壊して、武家社会の幕開けを切り開いた。
清盛は律令制、国群制、公地公民制に支配されるのではなく、自分の領地を所有して、そこを自分たちで治めるということを始めました。これは、それまでの権力の概念を覆します。どこそこの生まれ、母方が宮家といった血で収める政治や、仏罰が当たるぞ、神罰が下るぞ、といった迷信的な宗教的権威で政治をするのではなく、力で、富で、政治を行う。事実、清盛以降「一所懸命」の武士(源平)が誕生してきます。これはまさしく前近代の萌芽です。
また清盛は海がない京都を捨てて、海外進出しようと都を神戸・福原京に遷しました(治承4年・1180年)。日宋貿易を展開して富を得ようとしたんですな。
それ以前の国際交流といえば遣隋使や遣唐使です。それも菅原道真の建議(寛平6年・894年)以降は途絶え、平安中期以降の日本は鎖国体制でした。また遣隋・遣唐使は律令、経典などを大陸から日本に伝えるためのものでしたが、清盛は史上初めて富を得るために大陸に船団を送り込みました。日本史上で初めて「外交」ではなくて「貿易」を始めた男ともいえます。250年以上に渡る鎖国体制を打ち破って貿易を始め、力を、巨万の富を蓄えて、天下を牛耳った。
清盛はそのために自分の資本を擲って人工島「経が島」(兵庫津)まで開拓しています。このとき現代に繋がる国際貿易港・神戸の源流のようなものが芽生えたといえますし、その精神の有り様、ベクトルとして、日本史上初めての神戸っ子第一号は、まさしく清盛でしょう。
平家を倒した源氏は鎌倉に幕府を置きました。京都よりさらに東。大陸ははるか彼方。頼朝という男は一国二政府(京都と鎌倉)といったユニークな政治体制を作り上げましたが、どこか暗くて閉鎖的です。不思議なことに源氏の子孫の家康にもそれがあります。また平家の子孫の信長は、どこか清盛的です。ぼくは頼朝よりも清盛の開明性に強く惹かれます。源氏ではなくて平家政権がもう少し長く続いていたら、日本は来るべき大航海時代への足掛かりを掴んでいたかも知れません。平家、神戸、福原京の夢、可能性。そこが壇ノ浦で滅びました。それが惜しい。あまりに、惜しい。
ちなみに清盛は高熱の謎の奇病で亡くなっていますが、これは大陸性の伝染病=マラリアではないか?という説があるとか。これがもし本当であれば、清盛は昇殿から降りて、直に大陸の人間や異民族と触れあって交流したんでしょう。その好奇心、知的探求心が仇となって、不治の病に繋がった。歴史は因果なものです。
画像は神戸市兵庫区の荒田八幡神社にある「福原遷都八百年記念碑」です。
日本の都市をつまらない、くだらないものにしている要因のひとつが、都市を機能別に、効率よく、ゾーニングしようとする考え方です。それは平面的、二次元的、限定的な思考で、ヘーゲルの目的論的世界観に毒された構成です。人間の精神は、もっと自由奔放、大らか、テキトー、矛盾相克であって、都市にも「創造的進化」が必要なんです。「カオス」「遊び」「アート」「余白」「トマソン」といった要素が都市には不可欠なんですわ。
要するに都市とは、われわれと同じように、生成流転していくものということです。生まれ、成長し、衰え、滅び、また生まれる。完全完璧な都市など、この世にはなく、常に都市は未完成であり、輪廻のように、その有様を変容させていく。固定化しようとしてしまった段階で、その都市は都市ではありません。それは巨大なコンクリートの塊、空虚な墓石に過ぎない。都市に必要なのは、やわらかさ、かろやかさ、しなやかさ。つまり、多様性。
だから、ぼくが考える理想のまち歩きとは、都市を空間的(言い換えると「もの的」)な場として捉えるのではなく、ベリクソンが提唱する時間的(純粋持続)な場として捉えようという試みです。つまり、まち歩きは「探訪」ではなく「逍遥」なんです。そうすることで、そこに「創造的進化」が生まれてくる。
もっと都市に「生の飛躍」を。élan vital!
三好徹『チェ・ゲバラ伝』。古本屋で何気なく買いました。キューバ革命の英雄チェ・ゲバラが来日していたことは知っていたのですが、じつは大阪・北新地の料亭に飲みに来ていた・・・という衝撃の事実を、この本で知りました(笑)
1959年(昭和34年)の正月にキューバ革命を成功させた当時31歳のチェ・ゲバラは、さっそくキューバ親善使節団の団長として外遊に出て、キューバ砂糖の売り込みで来日しました。キューバにとって砂糖の売り上げは国家財政運営の要。ところが革命後、キューバは最大の砂糖輸出国だったアメリカと対立するので、その代替として、急激に経済成長を遂げようとしていた日本との交渉に乗り出したわけです。東京・霞ヶ関のあとは、大阪に立ち寄って財界と交渉し、そこで接待を受けて北新地のとある料亭(店名までは記載されてませんでした。どこでしょうかね・・・?)でゲイシャガールを見たとか。同行のフェルナンデス大尉の回想では
「自分たちが見たゲイシャは、非常にモラルがあり、かつ格式があるように見えた。アメリカ人がいったこととは、まったく別な感じをうけた。チェも同じ想いをもったとみえ、そのあとで私にこういった。『見たかね。アメリカ人たちがいった説明とわれわれが見たのとは、ぜんぜん違うじゃないか』 じじつ、そのとおりだった。パレ・ナシオナールで見るような踊りだったし、非常に美しかった。ただ長い時間タタミに座らされたことだけは、とてもつらかった」
とあります。「アメリカ人がいったこと」というのは日本滞在中のホテルで偶然、出会ったスペイン系アメリカ人から「ゲイシャガールは売春婦である」というようなムチャクチャな説明を受けていたことに起因します。ちなみに酒嫌いで有名なゲバラですが、この日だけは(生涯最初で最後の)日本酒を口にしたそうです。さすがのゲバラも、北新地のゲイシャ体験に感銘を受けたのかも知れません(笑)
大阪ではこのほかにも久保田鉄工の堺工場での見学(耕作機、農業機械などに興味を示したとか)や、大阪コクサイホテル(現在のシティプラザ大阪)での大阪商工会議所主催の歓迎パーティーなどにも出席したようです。日本滞在中のゲバラは革命戦士らしく、常に野戦服(軍服)だったそうで、町中を歩いていると、時には人だかりの山が出来たとか。その後、ゲバラは広島に向かい、原爆資料館を見学して「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか?」と語った・・・という有名なエピソードになります。
個人的に大阪滞在の話が興を覚えたのでご紹介しましたが、それだけに留まらず、チェ・ゲバラの劇的な生涯を、詳細に、丁寧に、リサーチしてます。良い本です。オススメ。
相撲の歴史を紐解くと「記紀」に登場します。ノミノスクネとタイマノケハヤが相撲をして「ノミノスクネがタイマノケハヤを蹴り殺した」とあるんですな。これが相撲の歴史のはじまりというんですが、「蹴り殺す」ようなものが、ほんまに相撲であるかどうか?議論のあるところです。格闘技でもないし、これは決闘に近い。
一説によると、古代の領土争いの代行戦争で、ノミノスクネは出雲系の闘士で、タイマノケハヤは奈良系の闘士で、出雲と奈良の争いで出雲が勝った・・・とか、そういう話もあります。タイマというのは当麻寺のタイマで、実際に奈良の地名にあります。ぼくはノミノスクネは出雲系ではなくて河内系では?とも思ったりしているんですが、それはまた別の話。
中世では信長が相撲を愛好したといいます。尾張・名古屋の若い衆を集めて相撲をとらせた。それで力のある奴を自分の部下にしたとか。弓取り式というのは信長が考案したという説もあるそうです。しかし信長の時代の相撲も、権力者の嗜好といったところでした。他には寺社仏閣でも相撲をやっていたようですな。これは勧進相撲といいました。まぁ、神事のようなものです。
今日のような観客を集めて、そこからお金をとって「興行」という形で、相撲が定着をするのは江戸時代は元禄の大坂です。大坂の堀江で興行スタイルの相撲を初めて、それが大坂相撲の発祥。日本相撲史のエポックメイキング。
大坂相撲はスポンサーは大坂商人です。金持ちが多かった。だから相撲取りの後援者のことをいまでも「タニマチ」といいます。このタニマチは大坂の谷町のこと。地下鉄谷町線の谷町ですわ。ここは船場からみると東にあって、上町台地の高台になってまして、大金持ちの成功者が数多く住んでいた。
大坂相撲のころは相撲というのは、賭け事、ギャンブルの対象でした。また商人が金で力持ちを雇って、相撲取りに仕立てて、これは一種の店の宣伝ですな。タレントCMみたいなもんです。それで相撲を取らせた。もちろん八百長だって当然のごとく横行していました。「興行」ですからな。面白い取り組みにしないといけない。お客を入れて、沸かせないといけない。これが大ウケにうけて、大坂庶民はおろか、日本全国からも大坂相撲を見たいと、群衆が押し寄せた。
大坂相撲の成功を見て、江戸でも相撲が始まります。江戸相撲。江戸は武士のまちでした。日本全国から武士、藩屋敷が集まった。そこで相撲を取ることは、これは力自慢です。「わが藩はこれだけの強い男がいるのだ。どうだまいったか」というプライドをかけた誇りの相撲。江戸相撲はだから八百長なんて一切なし。まじめ。ついには将軍さまの閲覧する相撲なんてのも行われます。
そのうち藩の領内だけでは相撲取りがいないからというんで、日本全国を飛び回って、田舎の力自慢を金で集めて、それを「わが藩の相撲取り」なんていってました。いまでいうたら高校野球の強豪校みたいなもんですな。都道府県を飛び越えて、野球のできる中学生をスカウトして、それを集めて、強い野球チームを作る。そこまでして勝ちたいか?勝ちたかったんでしょうな。
やがて大坂相撲と江戸相撲が対決するようになります。勝負は火を見るより明らか。大坂相撲はまるでダメ。そりゃそうですわ。大坂相撲の相撲は興行です。八百長ですから。江戸相撲は本気。本気と書いてマジと読む。しかも日本全国から力自慢の男を見つけてくる。大坂相撲はコテンパンにやられます。「なんや大坂相撲て大したことあらへんなぁ」ということで、やがて大坂相撲は人気がなくなり、徐々に衰退していって(いろいろと内紛なんかもあったようですが)最終的には昭和初期に東京相撲に吸収合併される形で消滅しました。
東京相撲(江戸相撲)はいつのまにやら「相撲は国技」と自称するようになりました。しかし興行自体は儲かってないとか。国から税金免除、補助金などをもらって成立してるんですな。八百長することは、ぼくはべつになんとも思いません。しかし八百長するなら儲からないと。「面白い!」とお客さんが入るようにしないと八百長をする意味がありませんわ。
完全に民間で独立自営でやっていた栄光の大坂相撲を見習ってほしいですな。
古本屋で入手しました。角川ソフィア文庫が「立川文庫傑作選」として野花散人の『太閣と曽呂利』を復刻したものです。角川ソフィア文庫は、ほんとええ仕事してくれますねえ。嬉しい。
立川文庫は大阪は心斎橋の出版会社・立川文明堂が出した文庫本です。当初は上方講談を活字にしただけのものですが、大正時代には一大ブームを巻き起こしました。その第一弾は『諸国漫遊一休禅師』。第二弾は『水戸黄門』。じつは一休さんも水戸黄門も、いま現在、世間にこれだけ名が浸透して広まっているのは、立川文庫の大ヒットのおかげです。
面白いのが、上方講談で登場する一休さんは朝廷や寺院に反逆して、黄門さまは幕府のやりすぎを懲らしめて成敗する存在だったこと。いかにも大阪生まれのアンチ権力、ダーティーヒーローで、それが庶民にウケたんですな。
ところが一休さんも水戸黄門も全国区となって、東京のメディアが発信するとなると、そのキャラクター像が変容します。例えば「テレビアニメ一休さん」では一休さんが太政大臣・将軍の足利義満を助けたり、「テレビドラマ水戸黄門」では黄門さまは幕府の手先のお目付役のようになってしまう。「お上」には逆らわない存在に加工されてしまう。毒を抜かれるといいますか、いかにもお江戸らしい。こういうのを見ると、やっぱり東京は官僚のまちやなぁ、と思います。
大阪は庶民のまちです。立川文庫には、その庶民性が息づいている。だから、面白い。
大晦日から二年参りで住吉大社へ。
「住吉大社御鎮座千八百年記念大祭」のチラシがありました。
住吉に 斎く祝いが 神言と
行くとも来とも 船は早やけむ
人生の凪も。漣も。荒波も。渦潮も。
坐す住吉大神の御業です。
おみくじは「小吉」でした。
ありがたいです。感謝。
上海の列車からの光景と、日本の列車からの光景を見比べて、ふと思ったこと。上海郊外と見比べて日本は、じつに空が青い。山が緑緑してます。
日本には梅雨があります。モンスーン地帯で台風も来る。高温多潤なんですな。だから稲作が成功したし、なによりも森が生まれました。
堺の仁徳陵は5世紀頃の人工建造物ですが、緑が生い茂って、いまは密林のようになっています。日本というのは30年も経てば、鳥が空から糞を落とし、木々が生えて、森と化していく。人間が手を入れなくても、勝手に緑が増えていく。これはまさしく神の恩恵です。
大陸の中国ではこうはいきません。万里の長城は人工建造物のままで、決して苔むすことはなかった。あれ、当たり前ですが、だれかが手入れしているわけではありません。空気が乾燥してますから、ずっと人工建造物のままなんですな。日本では考えられません。
また中国の大地も水を含まない大地だそうです。中国の黄土というのは、パラパラとした砂だそうで、森を形成するほどの水分は含まないとか。上海郊外も緑は少なく、灰色の大地ばかりが広がっていました。
じつは、いまから3500年前は、中国大陸は大密林地帯だったことがわかってます。いまの南米大陸、アマゾンのようだった。それが紀元前16世紀頃に殷や商といった青銅器文明が勃興したことで滅びました。青銅器の製造には大量の材木を燃やしますから、それ故に中国大陸から森や密林があっというまに消え去ったんですな。
中華文明にとって不幸だったことは、大陸の森は人間が一度でも手を入れると、自然に回復力がないという脆弱な森であったこと。中国は、世界初の青銅器文明、ものづくり文明が勃興しておきながら、それが古代史の段階でストップしてしまうのは、こうした自然環境に要因があります。
逆に日本には、森があるから、燃やすべき材木が大量に取れたから、森林を伐採しても30年で勝手に森が復活してくれたから、製鉄技術が耐えることなく、長く保たれることになりました。そして、それが日本人のものづくり文化、技術を維持することに繋がり、深く醸成され、近代化、現代のテクノロジー産業にも生きているというわけです。
堺でいえば、古代に古墳を作った土師たちは、中世には河内鋳物師となり、近世には鉄砲鍛冶屋、近代には刀・包丁鍛冶となり、それが現代の自転車産業へと繋がっています。なんと1500年という長きに渡って、ものづくりを継承することが出来た。これはすべて、日本が高温多潤の自然環境の島国であったことと、どれだけ伐採しても、勝手に再生してくれる、豊かな森の生命力のおかげです。
森は大切です。なんか宮崎駿みたいなこといってますが(笑) その恩恵を日本人は忘れてはいけません。
大阪あそ歩ガイド、大阪龍馬会の長谷さんからの情報です。「大阪住吉 土佐藩住吉陣屋跡(坂本龍馬訪問の地)」(現在の東粉浜小学校や東粉浜幼稚園付近)の記念碑が建立されたそうです。住吉1800年の歴史に、また彩りが添えられました。
「場所は住吉村中在家にある。幕府からの拝領地に建てたもので敷地は一万七十九坪七合五勺。海浜に面し、構えはほとんど城郭といっていい。土佐藩では住吉陣営と通称していた。幕府が外国陸戦隊の堺上陸にそなえて建てさせたものである。吉田東洋が幕府の機嫌をとるために必要以上の経費を投じて造営した。武装も相当なもので沿岸に砲台をつくり、陣中にはオランダから購入したゲベール銃五百挺を用意し、陣営の指揮官には家老級を置き、藩士五百人を収容している」
司馬遼太郎『竜馬がゆく』 より
「幕府は万延元年(一八六〇)九月、大阪湾岸防衛のため土佐藩に対し、中在家村・今在家村(粉浜村の旧名)錯雑地に一万七十九坪余(約三・三ヘクタール)の土地を与え陣家を構築させた。土佐藩では後藤象二郎を普請奉行に、職人をはじめ木材・石材等にいたるまで土佐から運び込み、文久元年(一八六一)五月完成させた。絵図面によると、陣屋は西側紀州街道沿いを正面に、東側(上町台地西崖)を除く三方面にほぼ半周する形で堀を巡らせていた。正面の橋を渡った正門すぐに陣屋本殿、その東側に武芸所(文武館)、士大将・士分用宿舎は北側に間口三十五間の平屋建二棟を、郷士以下足軽宿舎は上町台地崖沿いに南北間口七十二間の二階建一棟、その他厩舎・火薬庫・射撃場・操練場などを備え、約三百人が常駐していた。任務の一端として、木津川口千本松付近から対岸にかけて鉄鎖をわたし、それを上げ下げして船の航行を制限するなど防備に努めたという」
『住吉区史』より