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‘雑感’ カテゴリーのアーカイブ

大阪松竹座 「壽 初春大歌舞伎」

2011 年 1 月 2 日 Comments off

http://www.kabuki-bito.jp/theaters/osaka/2011/01/post_17.html

今日はこちらへ。

お目当ては玩辞楼十二曲の「廓文章」。
藤屋伊左衛門が藤十郎と聞けば、行かねばなるまい。

楽しみです。


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住吉大社 初詣 「住吉大社御鎮座千八百年記念大祭」

2011 年 1 月 1 日 Comments off



大晦日から二年参りで住吉大社へ。
「住吉大社御鎮座千八百年記念大祭」のチラシがありました。

住吉に 斎く祝いが 神言と 
行くとも来とも 船は早やけむ


人生の凪も。漣も。荒波も。渦潮も。
坐す住吉大神の御業です。

おみくじは「小吉」でした。
ありがたいです。感謝。


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2011賀春 水郷 蘇州 京杭大運河 

2011 年 1 月 1 日 Comments off



年始のご挨拶。今年もよろしくお願いします。


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上海から帰ってきて

2010 年 12 月 29 日 Comments off

上海の列車からの光景と、日本の列車からの光景を見比べて、ふと思ったこと。上海郊外と見比べて日本は、じつに空が青い。山が緑緑してます。

日本には梅雨があります。モンスーン地帯で台風も来る。高温多潤なんですな。だから稲作が成功したし、なによりも森が生まれました。

堺の仁徳陵は5世紀頃の人工建造物ですが、緑が生い茂って、いまは密林のようになっています。日本というのは30年も経てば、鳥が空から糞を落とし、木々が生えて、森と化していく。人間が手を入れなくても、勝手に緑が増えていく。これはまさしく神の恩恵です。

大陸の中国ではこうはいきません。万里の長城は人工建造物のままで、決して苔むすことはなかった。あれ、当たり前ですが、だれかが手入れしているわけではありません。空気が乾燥してますから、ずっと人工建造物のままなんですな。日本では考えられません。

また中国の大地も水を含まない大地だそうです。中国の黄土というのは、パラパラとした砂だそうで、森を形成するほどの水分は含まないとか。上海郊外も緑は少なく、灰色の大地ばかりが広がっていました。

じつは、いまから3500年前は、中国大陸は大密林地帯だったことがわかってます。いまの南米大陸、アマゾンのようだった。それが紀元前16世紀頃に殷や商といった青銅器文明が勃興したことで滅びました。青銅器の製造には大量の材木を燃やしますから、それ故に中国大陸から森や密林があっというまに消え去ったんですな。

中華文明にとって不幸だったことは、大陸の森は人間が一度でも手を入れると、自然に回復力がないという脆弱な森であったこと。中国は、世界初の青銅器文明、ものづくり文明が勃興しておきながら、それが古代史の段階でストップしてしまうのは、こうした自然環境に要因があります。

逆に日本には、森があるから、燃やすべき材木が大量に取れたから、森林を伐採しても30年で勝手に森が復活してくれたから、製鉄技術が耐えることなく、長く保たれることになりました。そして、それが日本人のものづくり文化、技術を維持することに繋がり、深く醸成され、近代化、現代のテクノロジー産業にも生きているというわけです。

堺でいえば、古代に古墳を作った土師たちは、中世には河内鋳物師となり、近世には鉄砲鍛冶屋、近代には刀・包丁鍛冶となり、それが現代の自転車産業へと繋がっています。なんと1500年という長きに渡って、ものづくりを継承することが出来た。これはすべて、日本が高温多潤の自然環境の島国であったことと、どれだけ伐採しても、勝手に再生してくれる、豊かな森の生命力のおかげです。

森は大切です。なんか宮崎駿みたいなこといってますが(笑) その恩恵を日本人は忘れてはいけません。


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大阪住吉 土佐藩住吉陣屋跡(坂本龍馬訪問の地)

2010 年 12 月 28 日 Comments off





大阪あそ歩ガイド、大阪龍馬会の長谷さんからの情報です。「大阪住吉 土佐藩住吉陣屋跡(坂本龍馬訪問の地)」(現在の東粉浜小学校や東粉浜幼稚園付近)の記念碑が建立されたそうです。住吉1800年の歴史に、また彩りが添えられました。

「場所は住吉村中在家にある。幕府からの拝領地に建てたもので敷地は一万七十九坪七合五勺。海浜に面し、構えはほとんど城郭といっていい。土佐藩では住吉陣営と通称していた。幕府が外国陸戦隊の堺上陸にそなえて建てさせたものである。吉田東洋が幕府の機嫌をとるために必要以上の経費を投じて造営した。武装も相当なもので沿岸に砲台をつくり、陣中にはオランダから購入したゲベール銃五百挺を用意し、陣営の指揮官には家老級を置き、藩士五百人を収容している」
司馬遼太郎『竜馬がゆく』 より

「幕府は万延元年(一八六〇)九月、大阪湾岸防衛のため土佐藩に対し、中在家村・今在家村(粉浜村の旧名)錯雑地に一万七十九坪余(約三・三ヘクタール)の土地を与え陣家を構築させた。土佐藩では後藤象二郎を普請奉行に、職人をはじめ木材・石材等にいたるまで土佐から運び込み、文久元年(一八六一)五月完成させた。絵図面によると、陣屋は西側紀州街道沿いを正面に、東側(上町台地西崖)を除く三方面にほぼ半周する形で堀を巡らせていた。正面の橋を渡った正門すぐに陣屋本殿、その東側に武芸所(文武館)、士大将・士分用宿舎は北側に間口三十五間の平屋建二棟を、郷士以下足軽宿舎は上町台地崖沿いに南北間口七十二間の二階建一棟、その他厩舎・火薬庫・射撃場・操練場などを備え、約三百人が常駐していた。任務の一端として、木津川口千本松付近から対岸にかけて鉄鎖をわたし、それを上げ下げして船の航行を制限するなど防備に努めたという」
『住吉区史』より


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大坂の鯛と江戸の鰹

2010 年 12 月 27 日 Comments off

大坂人は鯛を好みました。「めでたい」の鯛。大坂ではかつて節分から数えて八十八夜までを俗に「魚島」といいました。春先になると瀬戸内には鯛が大量に現れて島のように見えたからで、この時期の鯛は豊漁で値段も安く、味も最高に素晴らしいので大坂商人たちは、常日頃、お世話になった得意先などに鯛を贈ったそうです。

対して、江戸は鰹です。鰹は「勝つ」に通じるので、武家社会に好まれた。また春先になると将軍様は「初鰹」を食べる習慣があって、江戸っ子は権威主義ですから将軍が食べている初鰹をなんとかして入手しようと躍起になりました。文化9年(1812)3月25日に魚河岸に入荷した初鰹の数は17本で、うち6本が将軍家。3本は高級料亭・八百善が2両1分で買い、そのうち1本は歌舞伎役者の中村歌右衛門が3両で買って大部屋役者にふるまった…なんて記録も残ってます。当時の下男、下女の1年間の給金が1両2分ぐらいで、どれだけ法外の値段やいうのがようわかりますな。いまのお金に換算すれば1本500万円とか600万円ほどです。「女房を質に入れても食べたい初鰹」という江戸川柳はこういう時代背景から生まれてます。

ちなみに鰹は回遊性の魚で太平洋をグルグル泳いでるんですが、本当は春よりも秋のほうが美味しいんです。「戻り鰹」というやつで海水温が低い影響で脂がのってるんですな。春の初鰹よりも安くて美味しい戻り鰹を好んだのが実は大坂人です。浪花っ子は将軍家が食べるからといって、まずくて高い初鰹を必死になって買いあさる江戸っ子を「江戸馬鹿」といって嘲ったとか。

大坂と江戸の都市の性格、文化特性の違いですな。実を取る大坂。名を取る江戸。


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御幸森天神宮 王仁博士「難波津の歌」 和文・ハングル歌碑

2010 年 12 月 26 日 Comments off



「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」

この歌は応神天皇の死後、大雀命と菟道稚郎子とがお互いに皇位を譲り合って3年間ほど空位となり、結果的に大雀命が跡を継いで仁徳天皇となったさいに、その治世の繁栄を願って王仁博士が詠んだ歌とされています。

面白いのが、ずっと時代が下って江戸時代に、この「難波津の歌」を、対馬の通訳館がハングルに翻訳して、それを朝鮮通信使に贈呈したこと。その墨書が、いまも兵庫県たつの市の旧家に所蔵されているそうで、「こういうものがあるのか!」と地元の関係者が驚き、尽力して、その結果、おそらく日本で唯一であろう和文とハングルの併記の歌碑が御幸森天神宮に建立されました。

じつは御幸森天神宮は、仁徳天皇がよく訪れたという鷹狩の森で、また古代にはこの辺りは猪飼野・猪飼津(猪甘野・猪甘津)と呼ばれた渡来人の大集落がありました。さらに猪飼野は、現在は日本最大のコリアタウンになっていて、1500年の時を越えて、日韓交流の歴史が現在進行形で積み重なっている・・・という実に不思議な、奇跡のようなまちです。

いかにも猪飼野、御幸森天神宮に相応しい和文・ハングル歌碑。これも大阪の歴史の奥深さの証明でしょう。


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龍の知恵

2010 年 12 月 25 日 Comments off

龍は古代の部族の聖獣で、神です。古代には、狼や熊を崇めた部族がいるように、龍を崇めた部族がいました。

部族間の戦争がある時、勝ったものが負けたものに部族の神を強要します。仮に虎の部族と、鳥の部族がいて戦争が起こり、虎の部族が勝ったとすれば、鳥の部族は鳥の神を徹底的に抹殺し、虎の神に絶対服従を誓いました。

では、戦争ではなく、同盟などで連合した場合はどうなるのか?

例えば、蛇の部族と鳥の部族が争っていたが、決着がつかなかった。結局、お互いの部族の若者と女性を結婚させて連合することにした。この時、蛇の神と鳥の神の合一が行われます。蛇なのに羽が生えて、空が飛べる、新しい神になるわけです。キメラ(合成獣)の誕生ですな。

龍というのは地球上に存在しません。蛇のような身体で、羽があって空を飛び、鷲のような爪を持ち、魚のような鱗に覆われ、雷を落としたり、雨を降らしたりする。なぜ、こんな想像上の神が登場したのか?といえば、そこには、こうした古代の部族の闘争と合流の歴史があるからです。

虎や熊や狼の部族は、武力のある、強い部族やったんでしょう。だから動物の姿のままです。龍の部族は敵を滅ぼさなかった。外交力があり、部族闘争を収める知恵があった。東洋文明は、龍や鳳凰や朱雀、麒麟、玄武など数多くのキメラを産んでいます。武力ではなく外交力や融和、対話を重視した。その証明が、これらの聖獣です。これは東洋文明の知恵そのものでしょう。

韓国と北朝鮮。日本と中国。どこの国にも龍信仰があり、聖獣信仰があり、愛されています。言語や政治形態、歴史は違いますが、崇める神は同じ。東洋には部族間闘争を解決できる、龍の知恵があると、ぼくは深く、強く、信じています。


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韓国・ソウル 清渓川復元事業

2010 年 12 月 24 日 Comments off



高速道路を壊して、50年ぶりに、潤いのある風光明媚な河川を復活。韓国、ソウル市民の輝かしい栄光。本当に素晴らしい。いつの日か、水都大阪の象徴だった四ツ橋(西横掘川、長堀川)も、清渓川のように復活させたいですが・・・。

●清渓川
http://www.kampoo.com/jp/travel/cheonggyecheon_map.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B8%93%E5%B7%9D
●清渓川復元事業の事業期間は2年3ヶ月

●事業の具体的内容
・覆蓋構造物と高架構造物の解体:5.4km
・水路と川底の造成:5.7km
・維持用水の供給:10.9km の維持用水路を通じて、1日に12万トンを供給
・橋梁建設:22 個
・景観造成:5.8km

●清渓川復元事業の流れ。
1967年から10年間をかけて、清渓川上流の約6kmがコンクリートで蓋をされ、10車線の新しい道路が開通。増え続ける交通需要を解消するため、蓋で覆われた清渓川の上に、新たに4車線の高架道路が建設。充実した交通体系により、清渓川の周辺は活気あふれた商業地域として開発され、韓国近代化の初期段階における前進基地としての役割を果たした。1980年代に入り、ソウルの経済規模が膨張するに従い、清渓川周辺の産業的機能がソウル郊外へと移転。そのため清渓川一帯の産業は沈滞し、商業圏も衰退。覆蓋道路の内部の非衛生的な環境問題、増加する交通量による大気汚染、老朽化した高架道路構造物等が発生。それらの問題を解決するため、蓋で覆われた道路を撤去し、清渓川を川として生き返らせる「清渓川復元事業」の実施が決定される。

●目的
清渓川を覆蓋している蓋の構造物及び、その上にある高架道路の老朽化対策。
都市の交通混雑、大気汚染や騒音公害による都市環境の悪化対策。
ソウルの歴史と文化の回復。
江北と江南の均衡発展。

●事業費 3867億ウォン
全額ソウル市予算
2007年1000ウォン=128.35円

※日本円にすると約496億円
ちなみに阿倍野再開発事業の総額は約4900億円やそうです。
http://www.city.osaka.lg.jp/toshiseibi/page/0000021614.html


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上海の彩り~上海開港(1842)から上海万博(2010)まで~

2010 年 12 月 23 日 Comments off

 

1842年。南京条約によって静かな、地味な漁村だった上海が欧米列強諸国に解放されました。中国からは最上級の茶や絹、陶磁器が輸出され、列強からはこれまた極上の阿片が齎され、黄浦江の外灘には壮大流麗な外資系の西洋建物が並んでいきます。

英国人の金融家、ユダヤ人の銀行家、アメリカ人の宣教師、ロシア人のサーカス団員、フランス人の俳優、オランダ人の保険屋、ドイツ人の音楽家、日本人の軍人・・・社交界の名士から大富豪、政治思想犯、犯罪者、亡命者まで。エキゾチックを通り越して、世界の狂乱をそのままダイレクトに輸血したようなカオスの混血都市が誕生したわけです。1930年代には「東洋のパリ」と呼ばれ、2500年に渡る儒教国家・中国の道徳はかつてないほどに退廃します。代わりにダンスホール、社交倶楽部、阿片窟、売春宿が乱立して「魔都上海」の夜の享悦楽は世界中の凡ゆる男を欲情させました。

清末期の混乱も上海の疾風怒濤の急拡大に拍車を掛けました。太平天国や数々の地方反乱から逃れようと大量の避難民が上海に集まり、彼らは苦力(クーリー)として、彼女らは娼婦として、上海経済の最下層の労働者となりました。また弾圧された改革派の闘士たちも上海の漆黒の闇を隠れ蓑としました。孫文も、蒋介石も、毛沢東も、みな上海で決起し、上海の財閥(上海閥)と結託し、やがて中国全土を支配していきます。

しかし1949年に中華人民共和国が成立すると、中国共産党の指導者たちは、名だたる革命家を排出した上海閥の力を恐れたのか、その力を削ごうとします。悪名高い文化大革命では「西欧かぶれ」の上海は最も解りやすい標的となり、呉の英傑である孫権が3世紀に建立した名刹・龍華寺でさえ、徹底的に破壊され、廃寺に追いやられました。中国にとって外国資本によって開発された上海は「屈辱の都市」であり、上海憎しの怨嗟は、なんら外資に関係ない古代の名刹にまで及んだわけです。およそ半世紀近くに渡って共産党指導部は上海閥を弾圧し、その富を強引に吸い上げて、内陸部の首都・北京(北京閥)に供給し続けました。

その流れに変化が訪れるのは天安門事件と、その後、共産党指導部が緩やかながらも改革解放路線に転じたことに拠ります。上海は屈辱の都市から一転して改革開放路線の象徴となり、共産党指導部の承認によって2010年、ついに「上海万博」が成立しました。それが上海閥の勝利であるのか、それとも北京閥の余裕であるのか、その判断は僕にはつきかねますが、ただひとつ言えることは上海万博は、上海という都市の170年の歴史の中で、初めて陽光が当てられた歴史的転換であったこと。

中国に、アジアに、上海あり。その高らかな表明。世界の都市文化に、鮮やかな彩りが添えられました。


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