相撲の歴史を紐解くと「記紀」に登場します。ノミノスクネとタイマノケハヤが相撲をして「ノミノスクネがタイマノケハヤを蹴り殺した」とあるんですな。これが相撲の歴史のはじまりというんですが、「蹴り殺す」ようなものが、ほんまに相撲であるかどうか?議論のあるところです。格闘技でもないし、これは決闘に近い。
一説によると、古代の領土争いの代行戦争で、ノミノスクネは出雲系の闘士で、タイマノケハヤは奈良系の闘士で、出雲と奈良の争いで出雲が勝った・・・とか、そういう話もあります。タイマというのは当麻寺のタイマで、実際に奈良の地名にあります。ぼくはノミノスクネは出雲系ではなくて河内系では?とも思ったりしているんですが、それはまた別の話。
中世では信長が相撲を愛好したといいます。尾張・名古屋の若い衆を集めて相撲をとらせた。それで力のある奴を自分の部下にしたとか。弓取り式というのは信長が考案したという説もあるそうです。しかし信長の時代の相撲も、権力者の嗜好といったところでした。他には寺社仏閣でも相撲をやっていたようですな。これは勧進相撲といいました。まぁ、神事のようなものです。
今日のような観客を集めて、そこからお金をとって「興行」という形で、相撲が定着をするのは江戸時代は元禄の大坂です。大坂の堀江で興行スタイルの相撲を初めて、それが大坂相撲の発祥。日本相撲史のエポックメイキング。
大坂相撲はスポンサーは大坂商人です。金持ちが多かった。だから相撲取りの後援者のことをいまでも「タニマチ」といいます。このタニマチは大坂の谷町のこと。地下鉄谷町線の谷町ですわ。ここは船場からみると東にあって、上町台地の高台になってまして、大金持ちの成功者が数多く住んでいた。
大坂相撲のころは相撲というのは、賭け事、ギャンブルの対象でした。また商人が金で力持ちを雇って、相撲取りに仕立てて、これは一種の店の宣伝ですな。タレントCMみたいなもんです。それで相撲を取らせた。もちろん八百長だって当然のごとく横行していました。「興行」ですからな。面白い取り組みにしないといけない。お客を入れて、沸かせないといけない。これが大ウケにうけて、大坂庶民はおろか、日本全国からも大坂相撲を見たいと、群衆が押し寄せた。
大坂相撲の成功を見て、江戸でも相撲が始まります。江戸相撲。江戸は武士のまちでした。日本全国から武士、藩屋敷が集まった。そこで相撲を取ることは、これは力自慢です。「わが藩はこれだけの強い男がいるのだ。どうだまいったか」というプライドをかけた誇りの相撲。江戸相撲はだから八百長なんて一切なし。まじめ。ついには将軍さまの閲覧する相撲なんてのも行われます。
そのうち藩の領内だけでは相撲取りがいないからというんで、日本全国を飛び回って、田舎の力自慢を金で集めて、それを「わが藩の相撲取り」なんていってました。いまでいうたら高校野球の強豪校みたいなもんですな。都道府県を飛び越えて、野球のできる中学生をスカウトして、それを集めて、強い野球チームを作る。そこまでして勝ちたいか?勝ちたかったんでしょうな。
やがて大坂相撲と江戸相撲が対決するようになります。勝負は火を見るより明らか。大坂相撲はまるでダメ。そりゃそうですわ。大坂相撲の相撲は興行です。八百長ですから。江戸相撲は本気。本気と書いてマジと読む。しかも日本全国から力自慢の男を見つけてくる。大坂相撲はコテンパンにやられます。「なんや大坂相撲て大したことあらへんなぁ」ということで、やがて大坂相撲は人気がなくなり、徐々に衰退していって(いろいろと内紛なんかもあったようですが)最終的には昭和初期に東京相撲に吸収合併される形で消滅しました。
東京相撲(江戸相撲)はいつのまにやら「相撲は国技」と自称するようになりました。しかし興行自体は儲かってないとか。国から税金免除、補助金などをもらって成立してるんですな。八百長することは、ぼくはべつになんとも思いません。しかし八百長するなら儲からないと。「面白い!」とお客さんが入るようにしないと八百長をする意味がありませんわ。
完全に民間で独立自営でやっていた栄光の大坂相撲を見習ってほしいですな。

古本屋で入手しました。角川ソフィア文庫が「立川文庫傑作選」として野花散人の『太閣と曽呂利』を復刻したものです。角川ソフィア文庫は、ほんとええ仕事してくれますねえ。嬉しい。
立川文庫は大阪は心斎橋の出版会社・立川文明堂が出した文庫本です。当初は上方講談を活字にしただけのものですが、大正時代には一大ブームを巻き起こしました。その第一弾は『諸国漫遊一休禅師』。第二弾は『水戸黄門』。じつは一休さんも水戸黄門も、いま現在、世間にこれだけ名が浸透して広まっているのは、立川文庫の大ヒットのおかげです。
面白いのが、上方講談で登場する一休さんは朝廷や寺院に反逆して、黄門さまは幕府のやりすぎを懲らしめて成敗する存在だったこと。いかにも大阪生まれのアンチ権力、ダーティーヒーローで、それが庶民にウケたんですな。
ところが一休さんも水戸黄門も全国区となって、東京のメディアが発信するとなると、そのキャラクター像が変容します。例えば「テレビアニメ一休さん」では一休さんが太政大臣・将軍の足利義満を助けたり、「テレビドラマ水戸黄門」では黄門さまは幕府の手先のお目付役のようになってしまう。「お上」には逆らわない存在に加工されてしまう。毒を抜かれるといいますか、いかにもお江戸らしい。こういうのを見ると、やっぱり東京は官僚のまちやなぁ、と思います。
大阪は庶民のまちです。立川文庫には、その庶民性が息づいている。だから、面白い。

大晦日から二年参りで住吉大社へ。
「住吉大社御鎮座千八百年記念大祭」のチラシがありました。
住吉に 斎く祝いが 神言と
行くとも来とも 船は早やけむ
人生の凪も。漣も。荒波も。渦潮も。
坐す住吉大神の御業です。
おみくじは「小吉」でした。
ありがたいです。感謝。
上海の列車からの光景と、日本の列車からの光景を見比べて、ふと思ったこと。上海郊外と見比べて日本は、じつに空が青い。山が緑緑してます。
日本には梅雨があります。モンスーン地帯で台風も来る。高温多潤なんですな。だから稲作が成功したし、なによりも森が生まれました。
堺の仁徳陵は5世紀頃の人工建造物ですが、緑が生い茂って、いまは密林のようになっています。日本というのは30年も経てば、鳥が空から糞を落とし、木々が生えて、森と化していく。人間が手を入れなくても、勝手に緑が増えていく。これはまさしく神の恩恵です。
大陸の中国ではこうはいきません。万里の長城は人工建造物のままで、決して苔むすことはなかった。あれ、当たり前ですが、だれかが手入れしているわけではありません。空気が乾燥してますから、ずっと人工建造物のままなんですな。日本では考えられません。
また中国の大地も水を含まない大地だそうです。中国の黄土というのは、パラパラとした砂だそうで、森を形成するほどの水分は含まないとか。上海郊外も緑は少なく、灰色の大地ばかりが広がっていました。
じつは、いまから3500年前は、中国大陸は大密林地帯だったことがわかってます。いまの南米大陸、アマゾンのようだった。それが紀元前16世紀頃に殷や商といった青銅器文明が勃興したことで滅びました。青銅器の製造には大量の材木を燃やしますから、それ故に中国大陸から森や密林があっというまに消え去ったんですな。
中華文明にとって不幸だったことは、大陸の森は人間が一度でも手を入れると、自然に回復力がないという脆弱な森であったこと。中国は、世界初の青銅器文明、ものづくり文明が勃興しておきながら、それが古代史の段階でストップしてしまうのは、こうした自然環境に要因があります。
逆に日本には、森があるから、燃やすべき材木が大量に取れたから、森林を伐採しても30年で勝手に森が復活してくれたから、製鉄技術が耐えることなく、長く保たれることになりました。そして、それが日本人のものづくり文化、技術を維持することに繋がり、深く醸成され、近代化、現代のテクノロジー産業にも生きているというわけです。
堺でいえば、古代に古墳を作った土師たちは、中世には河内鋳物師となり、近世には鉄砲鍛冶屋、近代には刀・包丁鍛冶となり、それが現代の自転車産業へと繋がっています。なんと1500年という長きに渡って、ものづくりを継承することが出来た。これはすべて、日本が高温多潤の自然環境の島国であったことと、どれだけ伐採しても、勝手に再生してくれる、豊かな森の生命力のおかげです。
森は大切です。なんか宮崎駿みたいなこといってますが(笑) その恩恵を日本人は忘れてはいけません。


大阪あそ歩ガイド、大阪龍馬会の長谷さんからの情報です。「大阪住吉 土佐藩住吉陣屋跡(坂本龍馬訪問の地)」(現在の東粉浜小学校や東粉浜幼稚園付近)の記念碑が建立されたそうです。住吉1800年の歴史に、また彩りが添えられました。
「場所は住吉村中在家にある。幕府からの拝領地に建てたもので敷地は一万七十九坪七合五勺。海浜に面し、構えはほとんど城郭といっていい。土佐藩では住吉陣営と通称していた。幕府が外国陸戦隊の堺上陸にそなえて建てさせたものである。吉田東洋が幕府の機嫌をとるために必要以上の経費を投じて造営した。武装も相当なもので沿岸に砲台をつくり、陣中にはオランダから購入したゲベール銃五百挺を用意し、陣営の指揮官には家老級を置き、藩士五百人を収容している」
司馬遼太郎『竜馬がゆく』 より
「幕府は万延元年(一八六〇)九月、大阪湾岸防衛のため土佐藩に対し、中在家村・今在家村(粉浜村の旧名)錯雑地に一万七十九坪余(約三・三ヘクタール)の土地を与え陣家を構築させた。土佐藩では後藤象二郎を普請奉行に、職人をはじめ木材・石材等にいたるまで土佐から運び込み、文久元年(一八六一)五月完成させた。絵図面によると、陣屋は西側紀州街道沿いを正面に、東側(上町台地西崖)を除く三方面にほぼ半周する形で堀を巡らせていた。正面の橋を渡った正門すぐに陣屋本殿、その東側に武芸所(文武館)、士大将・士分用宿舎は北側に間口三十五間の平屋建二棟を、郷士以下足軽宿舎は上町台地崖沿いに南北間口七十二間の二階建一棟、その他厩舎・火薬庫・射撃場・操練場などを備え、約三百人が常駐していた。任務の一端として、木津川口千本松付近から対岸にかけて鉄鎖をわたし、それを上げ下げして船の航行を制限するなど防備に努めたという」
『住吉区史』より
大坂人は鯛を好みました。「めでたい」の鯛。大坂ではかつて節分から数えて八十八夜までを俗に「魚島」といいました。春先になると瀬戸内には鯛が大量に現れて島のように見えたからで、この時期の鯛は豊漁で値段も安く、味も最高に素晴らしいので大坂商人たちは、常日頃、お世話になった得意先などに鯛を贈ったそうです。
対して、江戸は鰹です。鰹は「勝つ」に通じるので、武家社会に好まれた。また春先になると将軍様は「初鰹」を食べる習慣があって、江戸っ子は権威主義ですから将軍が食べている初鰹をなんとかして入手しようと躍起になりました。文化9年(1812)3月25日に魚河岸に入荷した初鰹の数は17本で、うち6本が将軍家。3本は高級料亭・八百善が2両1分で買い、そのうち1本は歌舞伎役者の中村歌右衛門が3両で買って大部屋役者にふるまった…なんて記録も残ってます。当時の下男、下女の1年間の給金が1両2分ぐらいで、どれだけ法外の値段やいうのがようわかりますな。いまのお金に換算すれば1本500万円とか600万円ほどです。「女房を質に入れても食べたい初鰹」という江戸川柳はこういう時代背景から生まれてます。
ちなみに鰹は回遊性の魚で太平洋をグルグル泳いでるんですが、本当は春よりも秋のほうが美味しいんです。「戻り鰹」というやつで海水温が低い影響で脂がのってるんですな。春の初鰹よりも安くて美味しい戻り鰹を好んだのが実は大坂人です。浪花っ子は将軍家が食べるからといって、まずくて高い初鰹を必死になって買いあさる江戸っ子を「江戸馬鹿」といって嘲ったとか。
大坂と江戸の都市の性格、文化特性の違いですな。実を取る大坂。名を取る江戸。

「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」
この歌は応神天皇の死後、大雀命と菟道稚郎子とがお互いに皇位を譲り合って3年間ほど空位となり、結果的に大雀命が跡を継いで仁徳天皇となったさいに、その治世の繁栄を願って王仁博士が詠んだ歌とされています。
面白いのが、ずっと時代が下って江戸時代に、この「難波津の歌」を、対馬の通訳館がハングルに翻訳して、それを朝鮮通信使に贈呈したこと。その墨書が、いまも兵庫県たつの市の旧家に所蔵されているそうで、「こういうものがあるのか!」と地元の関係者が驚き、尽力して、その結果、おそらく日本で唯一であろう和文とハングルの併記の歌碑が御幸森天神宮に建立されました。
じつは御幸森天神宮は、仁徳天皇がよく訪れたという鷹狩の森で、また古代にはこの辺りは猪飼野・猪飼津(猪甘野・猪甘津)と呼ばれた渡来人の大集落がありました。さらに猪飼野は、現在は日本最大のコリアタウンになっていて、1500年の時を越えて、日韓交流の歴史が現在進行形で積み重なっている・・・という実に不思議な、奇跡のようなまちです。
いかにも猪飼野、御幸森天神宮に相応しい和文・ハングル歌碑。これも大阪の歴史の奥深さの証明でしょう。
龍は古代の部族の聖獣で、神です。古代には、狼や熊を崇めた部族がいるように、龍を崇めた部族がいました。
部族間の戦争がある時、勝ったものが負けたものに部族の神を強要します。仮に虎の部族と、鳥の部族がいて戦争が起こり、虎の部族が勝ったとすれば、鳥の部族は鳥の神を徹底的に抹殺し、虎の神に絶対服従を誓いました。
では、戦争ではなく、同盟などで連合した場合はどうなるのか?
例えば、蛇の部族と鳥の部族が争っていたが、決着がつかなかった。結局、お互いの部族の若者と女性を結婚させて連合することにした。この時、蛇の神と鳥の神の合一が行われます。蛇なのに羽が生えて、空が飛べる、新しい神になるわけです。キメラ(合成獣)の誕生ですな。
龍というのは地球上に存在しません。蛇のような身体で、羽があって空を飛び、鷲のような爪を持ち、魚のような鱗に覆われ、雷を落としたり、雨を降らしたりする。なぜ、こんな想像上の神が登場したのか?といえば、そこには、こうした古代の部族の闘争と合流の歴史があるからです。
虎や熊や狼の部族は、武力のある、強い部族やったんでしょう。だから動物の姿のままです。龍の部族は敵を滅ぼさなかった。外交力があり、部族闘争を収める知恵があった。東洋文明は、龍や鳳凰や朱雀、麒麟、玄武など数多くのキメラを産んでいます。武力ではなく外交力や融和、対話を重視した。その証明が、これらの聖獣です。これは東洋文明の知恵そのものでしょう。
韓国と北朝鮮。日本と中国。どこの国にも龍信仰があり、聖獣信仰があり、愛されています。言語や政治形態、歴史は違いますが、崇める神は同じ。東洋には部族間闘争を解決できる、龍の知恵があると、ぼくは深く、強く、信じています。