清浄な良水は神水として崇められ、讃えられますが、不浄な悪水は忌避されます。日本人の、古代神道の、ケガレの思想はそういうところからきていますが、それが徹底しているのが、じつは意外にもモンゴルだったりします。
というのもモンゴル人は湿地帯を徹底して嫌うんですな。湿地帯は細菌が多い。病原菌が多い。だから近づかない。沈殿し、滞留することを、彼らは好まない。一箇所に留まらない。澱まない。馬に乗って、移動式の居住(ゲル)で、草原を転々と移動していく。ゲルにはなんと人間の生活スタイルの基本であるトイレに類する装置すらないそうです。大小をしたらそこは既に汚れる。もう次に移動していく。(ちなみに人糞は、牧畜犬が食べます。だから結局、なにも汚れない)
こうして彼らは遊牧民という生活スタイルを完成させました。彼らが生活して立ち去ったあと、大地には、なにも残らない。じつに綺麗なもんやそうです。残さないこと。汚さないことを徹底した生き方。
モンゴルといえば成吉思汗(ジンギスカン)。かれもまた、巨大な中華文明の宮殿を手に入れても、そこに住もうとも思わなかったとか。政治は致し方なく宮殿で行い、夜にはゲルに帰っていったんですな。だから墓すら不明です。世界最大の帝国を築き上げた英雄の墓が判らない!じつに摩訶不思議な面妖な話です。痕跡がない。わずか800年前の遺跡がわからない。最初からないんかも知れませんな。作らなかった。世界中の考古学者が成吉思汗の墓を探し出そうと努力しているんですが、愚かしい行為に思えます。彼らは草原に死ぬから、墓なんかいらないんでしょう。生きてきた痕跡を残さない。ただ流れていく。草原が墓です。究極のエコロジカルな生き方だといえるし、無の哲学の実践者ともいえます。
モンゴルは資本主義国家の基準では、発展途上国に分類されます。どこが発展途上国なものか。もうすでに彼らは、彼らなりの完成された哲学、社会、文明を作り上げてますわ。彼らに資本主義の、近代の毒を盛る必要はありません。むしろ混迷する世界こそがモンゴル的方法論を見習うべきでしょう。
なにが大切か。正解か。それを気付かせてくれる。教えてくれる、可能性の国だとぼくは思ってます。
大阪あそ歩は長崎さるくに影響されています。長崎が「まち歩き」という手段を採用したのは実に先進的なことで、長崎人をぼくはパイオニアとして、尊敬してます。
「歩く」という漢字は「少し止まる」と書きます。まち歩きとは、まちを歩いて(少し止まって)考える。思う。話す。感じる。そういう時間をもつことです。これがいかに大切なことか。まちは、ぼくらの人生、ライフそのものなんですから。ところが、大部分の日本人は、まだそのことにまったく気付いていない。
長崎は、65年前の今日に、まちをロストしました。一瞬のうちに、なにもかもが蒸発して消えてなくなるという、信じられない、痛ましい体験をしました。まちとはなにか?を考えたでしょうし、誰よりも、まちの大切さを知っている。長崎さるくは、そういうまちの物語から生まれてきたと、ぼくは思ってます。
今日は長崎原爆投下日。長崎のまちを歩けませんが、大阪から、静かに、祈りたいと思ってます。
新選組の6番隊、7番隊、10番隊などは大坂をメインに活動していたといいます。しかし、この辺りの隊士の活動歴について・・・要するに「大坂の幕末」について・・・司馬遼太郎はあまり小説に書いてません。なぜか?
ひとつには大坂が比較的、平和だったこと。幕末の騒乱に対して、大抵の大坂人の反応は「また武士がしょうもないことをやっとる」というもので、徳川でも薩長でもどっちでもええというのが大勢でした。勤皇派も倒幕派もいなかった。商人は利を追いかけるものでイデオロギー(正義体系)に命をかける商人なんていません。要するに争いごとがなかった。
ふたつめ。隊士の活動が小説にならない活動だったから。この大坂新選組の活動の大部分は、じつは大坂商人への借金申込みでした。当時の大坂は日本最大の商都。新選組は、軍資金調達のために駆けずり回り、大坂商人に頭を下げて、お金を貸してもらったんですな。司馬遼太郎はこういう光景は「ヒロイックな新選組像を壊す」「絵にならない」と考えて小説には詳しく書いてません。現実離れした、人間らしさのない、生活感を乖離した新選組像が巷間に伝わっているのは、司馬遼太郎がそれを排除したからです。歴史小説家・子母沢寛がすでにヒロイックな新選組を書いてましたから、第二世代となる司馬遼太郎は、ほんとはリアリティのある新選組を書く必要があったという気がしますが、子母沢寛以上のロマンで脚色しました。ちなみに、大坂の旧家などには、今もようさん新選組の借金申し込みの証文が残っているといいますが、新選組は崩壊したので大抵、大損してるそうです。
みっつめ。司馬遼太郎が大阪人だったから。司馬遼太郎は初期は大阪を舞台にした小説を書きました。ところが大阪人が大阪にいて大阪を書いている以上は東京文壇には認められないんですな。ローカルの小説家として終わる。単なる大阪自慢で終わる。書いても売れない。司馬遼太郎は大阪を書かなくなり、代わりに書いたのが坂本龍馬や新選組で、その中からも極力、大阪のエピソードは省きました。『竜馬がゆく』『燃えよ剣』における大阪の描写の少なさは意図的なものです。だから司馬ブーム、竜馬ブーム、新選組ブームが起きたときも高知や京都は便乗しましたが、大阪はスルーでした。大阪での坂本龍馬の物語、新選組の物語が司馬小説には描かれていませんから。今も大部分の大阪人は坂本龍馬や新選組が大坂で活動していたことを知りません。
国民的大作家、歴史小説の第一人者を生み出しながら司馬遼太郎が、その出自ゆえに「歴史都市・大阪」を書かなかったのは、大阪の不幸でした。それは武家社会偏重の東京的史観か、天皇・公家社会偏重の京都的史観しかない日本人の歴史認識の薄さ、弱さとなり、日本社会全体の不幸にもなってます。いまこそ、第三極として、町民社会に立脚した大阪的史観・・・『忠臣蔵』や『源氏物語』ではない。『世間胸算用』『心中天の網島』の世界観です・・・が必要なのではないか?
石碑を見て、そんなことを、つらつらと考えました。
大阪市西成区生根神社のだいがく祭。毎年7月24日、25日と大阪天満宮の天神祭と同日に祭礼をやるので、大阪在住の方にも、あまり知られてませんが、大阪人なら必見の夏祭です。
清和天皇の治世、天安2年(858)頃に、難波の地がかつてないほどの酷い旱魃に襲われました。「こりゃなんとかせにゃならん」というので生根神社にて「日本六十六州の一の宮」と描かれた66個の御神燈と66個の鈴を掲げた櫓を打ち立てて雨乞いの祈願をしたところ見事に雨が降った・・・というのが「だいがく」の起源です。1200年以上続く伝統の祭礼で、天神祭(951年)はおろか、京都の祇園祭(869年)よりも古く、長い歴史を誇ります。
面白いのが京都の祇園祭との共通性。じつは祇園祭は京都に疫病が流行ったさいに「66本の鉾」を立てて厄払いをしたのが起源といわれていますが、「旱魃の雨乞い」(生根神社)と「疫病の厄払い」(八坂神社)、「66本の提灯と鈴」(生根神社)と「66本の鉾」(八坂神社)と妙に符号が一致するんですな。「だいがくは祇園祭のルーツである!」なんてことは言いませんが、もしかしたら、なにか、だいがくの雨乞いの成功が、祇園祭の祭礼に影響を与えたり、ヒントになったのかもしれません。また祇園祭は大いに変容して、現在は山車の祭礼になっていますが、だいがくは、当時そのままのスタイルで、古式をそのまま伝えています。そういう意味でも非常に貴重です。
なにはともあれ、こういう歴史ある祭りが、ひっそりと伝えられていることが、大阪のまちの奥深さ。ぜひ一度は、ご鑑賞を。
※最初の画像は「だいがく」です。高さは約20メートル。重さは約4トンほどとか。台に太鼓をくくりつけてあって踊り手もいます。昔はこれを担いで練り歩いていたそうで100人以上の担ぎ手が必要とされます。その練り歩きは、さぞかし盛大で、迫力満点だったことでしょう。
※次の画像は「だいがく」の提灯部分がグルグル廻っているところ。「だいがく」はじつはメリーゴーランドのように提灯が回転します。初めてこの仕掛けを見たときは、さすがに度胆を抜かれました。ちなみに隣にあるのが「中型だいがく」。あと小型の「ギャルだいがく」というのもあるそうです。「ギャルだいがく」て・・・。
『天文十九年十二月 聖ザヴィエル 堺に上陸し 日比屋了慶の館に入った。
是れ 西洋文明傳来の始で 近世日本文化は 茲に花と匂った。』
ザビエルはスペイン人ではなく「バスク人」です。バスク人はスペイン北東からフランス南西部のピレネー山脈周辺の山岳民族で、後期旧石器時代から住み続け、ヨーロッパでも最も古い民族といわれています。ザビエルはスペイン・バスク地方のナバーラで生まれ、その地方貴族でした。そもそもザビエルという名前そのものがじつはバスク語で「新しい家」という意味やそうです。
当初は山岳民族でしたが、やがてイベリア半島北岸のビスケー湾に居住するバスク人が出てきて、彼らは11世紀頃にノルマン人と交流。そこで捕鯨の文化を学習してクジラを食べる民族になりました。やがて13世紀頃に大西洋に進出。16世紀にはバスク人の捕鯨技術は最盛期を迎えました。とくにクジラのヒゲが高値で売れたそうで、これは甲冑、帽子、コルセットの骨などの装飾品に利用されました。当時の上流階級の女性を締め上げていたコルセットはバスク人が捕鯨しないと誕生しなかったわけです。
ヨーロッパ社会では非常に珍しい捕鯨の民で、大西洋(外洋)で縦横無尽に活躍することが可能なほど、卓越した航海技術を有していたバスク人。このバスク人の中から世界史を揺るがす超一流の冒険家が生まれています。ファン・セバスティアン・エルカーノ。スペイン王国に仕えてフェルディナンド・マゼランの船団を指揮して、1522年、史上初となる世界周航を達成した男です。「世界周航を成し遂げた男はマゼラン」とよく言われますが、マゼランは途中のフィリピンで戦死してますから彼自身は世界一周を成し遂げていません。正確には「世界周航を成し遂げたのはマゼラン船団」で、それは船団を引き継いだエルカーノがいたからでこそ達成できた偉業でした。もっと誉め讃えられるべき男なんですが、残念なことに巷間ではあまり知られてません。
いずれにせよ1522年のエルカーノの世界一周成功は「大航海時代」の幕開け、口火でした。そして、その後の1549年にフランシスコ・ザビエルが日本にやってくる。こうして考えると、ヨーロッパ社会から遙かなる極東の日本にまでやってきたのが、なぜバスク人宣教師のザビエルであったのか?がよく理解できます。
バスク人の輝かしい栄光と冒険はその後も続きます。例えばラテン・アメリカで独立運動を指導してベネズエラ、コロンビア、ペルーなどを誕生させたシモン・ボリーバル。またアルゼンチン出身でキューバ革命に携わったチェ・ゲバラもバスク系アルゼンチン人でした。「エルカーノ→ザビエル→ボリーバル→チェ・ゲバラ」と続けば、世界に冠たるバスク人の冒険家、情熱家の系譜を見る思いです。
ちなみにゲバラも被っていたトレードマークの「ベレー帽」はバスクの民族衣装です。バスク人たちがピレネー山脈に住んでいたさいに、厳しい天候に耐えるため、また蚊や蝿、蜂といった虫から頭を刺されるのを守るための帽子だったといわれています。ベレー帽こそはバスクの象徴であり、それが全世界の軍隊で軍帽として採用された。これは「バスク人の勇猛果敢な冒険心に肖りたい」という深層心理かも知れません。まぁ、最近は女性のファッションアイテムとしても利用されていますが(笑)
最後に。坂口安吾の処女作『風博士』にバスクのことが記載されてます。これがまた面白い。ご紹介。
「諸君は南欧の小部落バスクを認識せらるるであらうか?仏蘭西(フランス)、西班牙(スペイン)両国の国境をなすピレネエ山脈を、やや仏蘭西に降る時、諸君は小部落バスクに逢着するのである。この珍奇なる部落は、人種、風俗、言語に於て西欧の全人種に隔絶し、実に地球の半廻転を試みてのち、極東じやぽん国にいたつて初めて著しき類似を見出すのである。これ余の研究完成することなくしては、地球の怪談として深く諸氏の心胆を寒からしめたに相違ない。而して諸君安んぜよ、余の研究は完成し、世界平和に偉大なる貢献を与へたのである。見給へ、源義経は成吉思可汗(ジンギスカン)となつたのである。成吉思可汗は欧洲を侵略し、西班牙に至つてその消息を失ふたのである。然り、義経及びその一党はピレネエ山中最も気候の温順なる所に老後の隠栖を卜したのである。之即ちバスク開闢の歴史である。」
狂人・風博士の遺書の一文です。バスク人は習俗や言語構造が日本人に似ているそうで、それは文化人類学上の謎なんですが、なんと博士は「源義経→ジンギスカン→バスク人の祖先」だから、というんですな。ぼくが「バスク」なるヨーロッパの小地方と民族を知ったのは、この作品に接したことがキッカケでした。以後、ぼくにとってバスクは憧れの地です。
人間は水がないと生きていけません。しかし大坂は海に近く、井戸を掘っても塩気の水が多く出ました。真水の井戸は非常に貴重でした。だから真水が出る亀の井(四天王寺)、利休井(玉造稲荷)、玉出の滝(清水寺)、梅川(高津宮)、青湾(桜之宮)などはコミュニティの生命線として守られ、それらの多くはサンクチュアリとして崇められました。その代表格のひとつが露天神の露の井でしょう。生命の源の水を崇拝する・・・古代から続く原始シャーマニズムの姿を留めた聖地。大阪には、意外と、そういう寺社仏閣が多いです。
船場を焼いた大塩の乱(1837)の翌年に洪庵が船場・瓦町で適塾を開いてます。大塩焼けの焦土が復興する中で、適塾が出てきた。歴史いうんは、妙な符号をあわせますな。大塩は「知行合一」の陽明学者で、洪庵は「滴滴」なる蘭方医。まったく人間性も哲学、人生観もちがうんですが、なんとなく共通項を感じなくもありません。大塩は幕府に逆らって爆死して、洪庵は大坂を離れるのがいやで「討ち死にする所存」で江戸に召抱えられて客死した。「死にざま」が似てるせいかな?
色々と調べていて面白い、ユニークな男の存在を発見しました。天満の池田良輔。はじめは大塩平八郎の「洗心洞」で漢学を学んで、のちに洪庵の「適塾」に入って蘭学を学んで、医者になったという男です。大坂には、こういう人物もいたんですな。
文化13年生まれ(1816)で明治27年(1894)に79歳でなくなってます。洪庵の勧めで和歌山藩に仕えて、明治以降は陸軍省で西洋兵学や航海術などの翻訳を行ったとか。『法朗西文典案内』(1867)といった著作があるのもわかってます。フランス語の案内書でしょうかね?法名は「慈妙院孝英日法居士」。和歌山市東長町の正住寺に墓があるとか。
これは、いっぺん、いってみたいですな。
ちょっと大阪府庁に行く用事があって、ついでに大阪歴史博物館を通りました。画像は大阪歴史博物館の屋外に復元された高床式倉庫です。古墳時代(5世紀頃)に、大阪歴史博物館周辺に16棟もの建物が規則正しく建設されていて、古代の港湾施設の倉庫群だと考えられています。
この法円坂遺跡界隈は、その後、生玉森、前期難波宮、後期難波宮、石山、大坂本願寺、豊臣大坂城、徳川大坂城、陸軍兵器本部(砲兵工廠)、昭和大阪城・・・と変遷に次ぐ変遷を重ねていきます。まさに大阪の歴史がミルフィーユみたいに重層して積み上げられたところに、いま、大阪歴史博物館が建っている。
日本全国広しと言えども、こんなとこはありません。圧巻ですな。
NY名物のフラットアイロンビル(Flatiron Building:23rd Street bet.5th Ave. & Broadway)。1902年の建築。高さは285ft(87m)で階数は22階建て。完成当時はニューヨークでも最も高い建築物だったとか。ブロードウェイと5番街が交差するデルタ地帯に併せて設計されていて、最も細い部屋は1メートル弱ほど。
まちは路地、裏路地、小路、袋小路、細道、曲がり道、くねくね道、抜け道、四辻、六道、坂道、崖地、窪地などで構成されていて、複雑であれば複雑であるほど、面白く、楽しい。碁盤目のように理路整然と区画整理(ゾーニング)されたニュータウンには、個性もなにもなく。まったく、なんの興味も、魅力も、面白みもありません。
NYを歩いて思ったのは、NYはブロードウェイがあることで、随分と救われていること。大阪・船場にも、ああいう斜めの道が欲しいですな。歩道で、車通行禁止にするんです。パレードや出店もOK。大阪・船場のまちが、俄然、おもろなると思いますよ。船場にブロードウェイを作ろう!(笑)
NYとLVにいってきました。
写真はNYのTribute WTC Visitor Center。
http://www.tributewtc.org/index.php
いろいろと思うところがありましたが、言葉にできません。
なにかいえば、ウソになりそうです。
グラウンド・ゼロには新しい貿易センタービルが建つようで工事中でした。
救いのような。祈りのような。