堺市、大阪狭山市、河内長野市の3市の共同プロジェクトで、来年春頃に「西高野街道」(堺~大阪狭山~河内長野~和歌山県橋本~高野山)をテーマにしたガイドブックを発行します。今年の春から西高野街道について、あれやこれやと文献を調べたり、実際に街道を歩いて、現地調査などを行い、いま校正段階まで来ているのですが、この西高野街道が深いといいますか、じつに面白いんですわ。
大阪というのは古くから街道が発達した都市で、例えば竹内街道(堺~松原~羽曳野~太子~竹内峠~奈良・飛鳥)というのは、推古21年(西暦613年)に作られた「日本最古の国道」といわれています。「国道」「官道」であるだけに、歩いてみると道が「まっすぐ」であることに気づかされます。港(堺)と都(飛鳥)を結ぶ官製道路なんで、合理的で直線的なんですな。
西高野街道は、いつ頃できたのかは定かではないのですが、くねくねと曲がっていますし、細道、坂道、脇道、鉤字、三叉路、分岐点などが非常に多い。高野山という山岳宗教があって、それに向かって周辺の人々が散り散りに歩き出した道ですので、お決まりのコースというのは実はないんです(そのおかげで地図作りが大変なんですが)。民衆が作り上げた道というのが歩いてみれば、よくわかります。
また面白いのが、高野山への道だから真言密教の道というわけではなく、いろんな宗教が入り乱れて混在としています。聖徳太子、行基菩薩ゆかりの地や、「太神宮」という現地在住の方のみに信仰されている神さま、安倍清明の辻、北斗七星を信仰する妙見さん、無数のお地蔵さんやお稲荷さんなど、弘法大師以前のお寺や神社が無数に存在していて、何がなにやらさっぱりわからない。はては人魚のミイラなんて奇怪なご神体にも出会いました。
http://mutsu-satoshi.com/2008/10/30/
この西光寺というのは、和歌山県橋本市の山間にあります。山間から見渡せば、遠くに紀ノ川が見えますが、人魚なんてどこにもいるように思えません。摩訶不思議な寺院ですが、ここで「ほんまもんの人魚かどうか?」なんてことを訪ねるのは無粋というもので、こういう人魚のミイラを信仰した民衆の存在はまぎれもなく「ほんまもん」ですから。高野街道の魅力というのは、そういう寓話性、物語性にあります。民衆の「想い」「祈り」「救い」がたくさん残っている。そういう意味では、高野街道には「ほんまもん」がたくさん詰まっています。どうです?素晴らしい街道や思いませんか?
ガイドマップが完成すれば(2009年春頃予定)、堺市、大阪狭山市、河内長野市の役所、駅などで配られます。数も少なく、なかなか入手は難しいかもしれませんが、ぜひ手にとって、高野街道を歩いてみてください。
苅萱堂(西光寺)にて拝見させていただきました。
http://www.hashimoto-kanko.com/detail/index.php?%B4%A3%B3%FE%C6%B2
昔、佐賀県伊万里の松浦一酒造さんで「河童のミイラ」を見たことがあるんですわ。
http://www2.saganet.ne.jp/kappa/miira.htm
あんときも驚きましたが「まぁ、佐賀県伊万里なら、そういうのがあってもおかしないかなあ」なんて思っておりました。しかしぼくの地元を通る西高野街道(堺~高野山までの巡礼街道)にこんなもんがあったとは・・・。驚きましたよ。
西高野街道は深いです。色んな民衆宗教が混在していて、とてつもなく奥が深い。ウォーキングガイドブック(来年春に発行予定)作成の仕事で取材したのですが…良い経験させてもうてます。
高野街道の本を作る仕事があって、堺市内の図書館で「高野街道」と名前がつく本や資料はかたっぱしから借りているんですが、それらを片手に街道を歩くと、あまりにも記述にマチガイが多いことに気づきました。
地方新聞や地域の郷土研究家の本はさすがに素晴らしい情報量なんですわ。事細かに調べております。若干、マニアックともいえますが(笑)逆に世間では名前が通ってる某巨大新聞の「高野街道をたずねて」なんてコラム記事がめちゃくちゃ取材がいい加減です。石碑の場所はまちがえてるし、地名はまちがえてるし、寺の開基の年号もまちがえてるし・・・あまりにもずさんな取材で驚きました。
そもそも地方には「地方新聞」というのがあって、ちゃんとしたメディアの地位を確立しています。たとえば愛知では中日新聞(275万部)、北海道では北海道新聞(121万部)、広島なら中國新聞(72万部)、神戸なら神戸新聞(56万部)、京都なら京都新聞(51万部)、新潟の新潟日報(50万部)、山陽の山陽新聞(48万部)などなど……東京にすら東京新聞(59万部)なんて地方新聞があります。
ところが大阪には、そういう「地方メディア」として影響力を持つ新聞が乏しいんです。「大阪日日新聞」(ぼくは愛読してますが!)という素晴らしい媒体はあるんですが、いかんせん発行部数は7750部ほど。良い新聞なのに、大阪府民は880万人もいるのに、1万部に満たないのは、忸怩たる思いがあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E6%97%A5%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E
なぜ大阪だけ、こんな状況になっているのか?というと、昔は大阪にもちゃんと地方新聞があったんですが、これがだんだんと巨大化して「朝日新聞」(元は大阪朝日新聞)や「毎日新聞」(大阪毎日新聞社が東京の日報社を買収して毎日新聞に)、「産経新聞」(夕刊大阪新聞社から「日本工業新聞」として創刊)になってしまったんですわ。大阪の地方新聞だったのに東京の四大新聞になってしまい、おかげで大阪に立脚した、大阪を代表する地方新聞というのがなくなってしまったわけです。
明治以降の中央集権国家構造が閉塞して「地方の時代」に突入しようと舵取りしつつあるときに、大阪の情報を誠実かつ良心的に発信する媒体が大阪には欠けているんです。これは地方都市・大阪として非常にリスキーな状況で、大阪の悲劇でもあります。実際に京都新聞なんか凄いですよ。京都のことを調べようと思ったら、ぼくはまず、とにかく京都新聞をリサーチします。四大新聞が束になっても適わないネットワークを持っていて、事細かな京都情報を掲載していますから。大阪にもそういう新聞を作る(育てる)必要性があります。とくに僕はライターでメディアに携わる人間ですから、「大阪メディアの空洞化」には多大な危機意識をもってます。
別段、新聞という媒体でなくてもいいと思いますが、地方メディア=大阪メディアの確立は急須でしょう。いつまでたっても大阪がYTT(吉本・たこ焼き・タイガース)といった一元的なイメージから逃れられないのも、このあたりに起因があると見てます。
人類の過去2000年間の経済成長率というのは、平均すると「年率実質0.2パーセント」とか。とくに西暦1世紀から17世紀ごろまで(産業革命以前)は、ほとんど横ばい状態。
産業革命以前に生まれ、仮に50年の生涯とすると、生まれてから死ぬまでで、ようやく10パーセントほどの経済成長ということになります。これでは、ほとんど自分の暮らしの向上に対して無関心で、なんの変化も感じなかったでしょう。 それほど、ゆっくりと、じっくりと、人類は歩んできた。
要するに現代日本の年率1パーセントの経済成長でも人類の歴史の中では異常な事態だということです。中国のような年率10パーセントの経済成長などは、もはや天変地異、青天の霹靂のレベルです。過去の人類の営みを大きく逸脱している。そんな猛スピードで経済成長する社会は、それ相応のリスクが発生しています。例えばエネルギーの枯渇であったり、自然環境の破壊であったり、コミュニティの崩壊であったり、なにかしらの人類社会を脅かす弊害、危機が巻き起こっている。
いまのぼくらに必要なのは、市場規模を抑制する智恵と勇気です。極論をいえば、ぼくは全世界の市場の成長率は「年率0.2パーセント」でいいと思ってます。それが人類の長年のスタンダードなんですから。なにを急いでいるのか。焦っているのか。
ゆるやかに、たおやかに、しかし、健康的に。歩みは遅くても、健全な人類社会の成長度合いがあるはず。それを尊重したいと思ってます。
来月10月2日に、南大阪を楽しむための地域情報サイト「キットプレス」さんから「南大阪のおいしいお店」(定価980円)というグルメムック本が販売されます。
※南大阪を楽しむための地域情報サイト「キットプレス」
http://www.kit-press.com/index.html
※南大阪のおいしいお店
http://www.kit-press.com/mook/minamiosaka/index.html
じつはこのムック本で、ぼくが取材ライターとして制作に携わりました。もしどこかの書店でお見かけしたらぜひとも買ってください。立ち読みはあきまへんで(笑)
ライターなんて稼業をやっているとグルメ取材が多く、世間一般の人よりは色々なところで美味しいものを食べている自負はあります。そんなぼくが驚いたのが南大阪、泉州グルメのレベルの高さ!これが半端やなくて、ほんまに美味しいんですわ。大阪市内にも素晴らしいお店はありますが、泉州地域のほうが総体的な、平均的なレベルは高いのでは?と、認識を改めました。
なぜレベルが高いか?といいますと、やはり南大阪は大阪市内に比べると、まだまだ都市化していないんです。自然が豊かで近郊農業が非常に盛ん。「地産地消」が生きてるんですわ。取材していてもレストランでは「貝塚の水ナスを使ってます」、ケーキ屋さんでは「泉州地鶏の卵を使用しています」と自慢げにおっしゃるお店が多い。これが大阪市内だと残念ながら「北海道産のジャガイモ」とか「宮崎県の地鶏」になってしまう。フードマイレージといいますが、やはり鮮度が違いますから。食材の良さという点で南大阪・泉州に地の利があるようです。
また関西新空港ができてから、泉州地域は急速に多国籍化しました。欧州の田舎料理のお店やらアジアの本格エスニック料理店やらと、いろんなお店が意外なところに出来ています。バラエティ感に富んでいて、じつに面白い。大阪の観光といえば大阪市内ばかりがクローズアップされがちですが、市内以外にも面白い土地柄や、美味しいグルメがいっぱいあります。ぜひ「南大阪のおいしいお店」を買って要チェックしてください。
http://www.city.osaka.lg.jp/miyakojima/page/0000016853.html#koharu
都島区の大長寺にある「紙治と小春の遺書」です。ご住職さまから、すこぶる貴重な寺宝を拝まさせていただきました。ありがたいことです。
画像ではわかりにくいかも知れませんが、非常に流麗で、線のしっかりした文字でした。ぼくは直感で女性(小春)の手によるものだと推測したのですが、どうでしょうか。もしそうだとすれば、小春は新地の遊女ですが、高い教養と矜持があって、慎み深く、粋な女性だったと思われます。そうでなければ、こんな美しい文は書けないでしょう。
紙治が恋焦がれたのも、判らないでもありません。
1、桃谷駅
かつて上町台地の東には河内湖が広がり、大陸との交易船が行き交いました。また江戸時代から明治時代にかけては見事な桃畑が続いて「桃山」「桃谷」と呼ばれたことが駅名の由来です。当初は桃山駅でしたが明治38年に伏見桃山駅と混同されるので現駅名に改称しました。桃は中国原産の舶来植物ですが、はるかなるユーラシア大陸の息吹を感じる地名・桃谷から「大阪あそ歩」がスタート!
2、桃谷商店街
JR桃谷駅から疎開道路(太平洋戦争時、爆撃の延焼を防ぐために建物を疎開させて出来た道路)までの商店街。創業50年以上を誇るイカ焼き発祥の店・桃谷いかやき屋など、下町風情の商店街として親しまれています。途中で南北に交差する猫間川筋は、猫間川を暗渠化したもので、猫間川は「高麗川が訛ったもの」という説があります。
3、つるのはし跡
日本書紀の仁徳天皇14年の条に「猪甘津に橋わたす。すなわちその処を号けて小橋という」(為橋於猪甘津即号其処曰小橋也)の記述があって、これが文献上、日本最古の橋です。湿地帯の河内湖にはよくツルが飛来したので、いつしか「つるのはし」と呼ばれました。猪飼野村明細帳(江戸時代)には「全長20間(36.4メートル)幅7尺5寸(2.3メートル)の板橋」という記録がありますが、大正12年(1923)に新平野川が開削され、昭和15年(1940)に旧平野川は埋め立てられて廃橋となりました。「しのぶれど 人はそれぞと 御津の浦に 渡り初めにし ゐかい津の橋」という小野小町の歌が残っています。
4、猪飼野保存会館
もとは猪飼野若中会と称していましたが、昭和48年に住居表示施行によって猪飼野の地名が消滅するので、由緒ある地名や史跡、地車などの文化を伝承することを目的に現名に改称されました。平野川に架けられている猪飼野新橋や市バスの猪飼野橋停留所などには、まだ地名は残っています。
5、平野街道道標
「右 八尾 久宝寺 信貴山」「左 大阪」「慶応二年丙寅二月建之 鐘講」と刻まれているので幕末動乱期の1866年建立とわかります。「信貴山の毘沙門天は寅の年・寅の月・寅の日に出現する」という伝承がありますが、世の中が騒然としていた「丙寅」の年に道標が建てられたのは、そういう時代背景や信仰の影響が感じられます。
6、木村権右衛門家屋敷跡・ご神木
「猪飼野から生駒山まで他人の土地を踏まずに行けた」という伝説で知られる大富豪・木村権右衛門の邸宅跡です。戯作者・太田南畝(蜀山人)の大阪見物記「葦の若葉」(享和元年・1801年刊)にも「橋(つるのはし)の向かいに屋高く作れる家見ゆ。何がしの守の御苑にやと問うに、権右衛門といえる農夫の家なるよし。素封の類なるべし」と記載されています。現在は駐車場ですが、樹齢400年の椎の木のご神木と、立派な石灯籠、庭石が残されています。木村家は木村重成(大坂夏の陣で討死。享年23歳)の姉婿である猪飼野左馬助の子孫で、ご神木は重成公お手植えという伝承もあります。
7、大東邸
猪飼野村の旧家で笠屋儀兵衛と称した大東家のお屋敷。猪飼野村の旧家は引っ越しなどでほとんどが解体されてしまったので、この屋敷のみが猪飼野村の面影を偲ばせる唯一の貴重な存在です。とくに土蔵の外壁材は古い船板を使った風格のあるもので見物です。大東邸の北向かいも木村姓の旧家でしたが立ち退いて、桃谷南公園になっています。
8、鶴栖山 安泉寺
鶴栖山(鶴の栖む山)という曰くありげな山号の浄土真宗大谷派の寺院で猪飼野村の総氏寺です。創建年代は不詳(江戸時代初期?)ですが代々のご住職の苗字は「猪甘」といいます。大正14年(1925)に本堂を改築して太鼓楼を廃して、現在の竜宮城を思わせる立派な鐘楼門が建立されました。第18代木村権右衛門(源尚敏氏)が独力で寄進したもので、いまでも大晦日になると、参拝者はこの鐘楼門の除夜の鐘をついて、猪飼野に年の暮れを告げます。
9、御幸森天神宮
いまから1600年ほど前に第16代仁徳天皇が、たびたび鷹狩で行幸なさったので「御幸の森」と呼ばれました。仁徳天皇の崩御後、西暦406年に猪飼野の人々が天皇のご神霊を奉ったことが神社のはじまりで、境内東側に遙拝所(仁徳天皇腰掛石)があります。「敬神愛国・家運長久」の標柱(大正3年建立)は第17代木村権右衛門(源強義氏)の寄進で、安泉寺の鐘楼門を寄進した18代は強義氏の長子です。面白いのが神馬像右手の「さし石」(ゆうに70キロを超えます)で、豊作祈願に村の若者が持ち上げて力比べをしたり、また石をさし上げると「一人前の男になった」証明で、一種の通過儀礼が行われました。古きよき猪飼野村の光景が目に浮かびます。本殿や拝殿は国の登録有形文化財。樹齢700年を超えるムクの木も市の指定保存樹林です。
10、御幸通商店街
日本最大のコリアタウン。キムチやチジミなど定番の韓国グルメや、色鮮やかなチマ・チョゴリの専門店、豚足や豚頭も並ぶ精肉店など、約120もの店舗があって、3分の2が在日コリアンが経営するお店です。大正11年(1922)に築港~済州島に定期連絡船「君が代丸」が就航したことがきっかけで済州島出身者が多く、店先に韓国の伝統帽子・モジャをかぶる済州島の守り神・トルハルバン(石製の爺さんを意味する済州島の方言)を置く店もあります。
11、班家食工房
韓国文化を五感で感じる体験型パビリオン。観光客のための無料休憩スペースがあるほか、食材や韓国雑貨のおみやげコーナーや、李朝時代、17世紀頃の韓国を再現したチマチョゴリの展示、試着(有料)が可能です。またキムチ手作り体験(要予約)やハングルを学ぶ一日体験講座、韓国舞踊、テコンドーなどの文化教室など、多種多彩なイベントを行っています。(お問合せ:06-6718-1100)
12、猪飼野新橋
昭和62年3月に平野川改修時に架け替えられ、「猪飼野の由緒を伝えよう」と、親柱は仁徳天皇に因んで前方後円墳の形に、欄干の支柱は曲玉を模したユニークなデザインとなっています。14個の丸い金属板には「為橋於猪甘津号其処曰小橋也」と日本書紀の一節が記されています。
13、流れる千年(韓国伝統文化博物館)
2007年11月にオープンした韓茶カフェ。1階は朝鮮王朝時代の民具などが置かれた博物館や、美しい韓国雑貨などを販売するコーナー。2階では韓茶&韓スイーツ、韓流プレートランチのほか、料理研究家、洪貞淑(ホンジョンスク)さんが約1000年前の高麗王朝時代から続く伝統酒の醸造法を本場・韓国で学んで、約2年の歳月をかけて完成したという幻の天然韓酒「四香酒」(サヒャンジュ)などが楽しめます。(お問合せ:06-6716-7111)
14、弥栄神社
文禄年間(1592~96年)に出雲の熊野坐神社(現在の松江市・熊野大社)より勧請されました。社殿は熊野大社の原寸を計って、それを縮尺して建設した大社造です。長く牛頭天王社として素戔嗚尊が祀られましたが、明治43年(1910)に旧・岡村の御館神社(現・弥栄神社お旅所 ご祭神・仁徳天皇)が合祀されて二柱となりました。御館神社は仁徳天皇の御弓場(的殿)の跡地と伝えられています。
15、鶴橋本通商店街・鶴橋卸売市場・高麗市場など
焼肉店が非常に多く、夜には美味しそうな焼肉の匂いと煙が充満しますが「鶴橋駅周辺のにぎわい」として環境省の「かおり風景100選」に選ばれています。民族衣装や雑貨、小物などを扱う店舗も多数見られて、エキゾチックな雰囲気ですが「大阪あそ歩」で心地よい運動のあとは、美味しいアジアン・グルメに舌鼓して、海外旅行気分を味わって帰りましょう!
京都・宇治名物の中村藤吉本店にて。
http://www.tokichi.jp/
抹茶パフェって、なんでこんなに美味しいんでしょうかね。やみつきです。
1、神ノ木駅
かつて住吉の地が海岸地帯であったころに、大きな古松があり「神の木」(現在は消失)として崇められていたことから駅名になりました。駅近くには神ノ木地蔵さんがいます。ここから「大阪あそ歩」がスタート!
2、六道の辻 閻魔地蔵
道が1本増えて「七道の辻(?)」になっていますが、昔は6本道の交差点だったので、今でも「六道の辻」と呼ばれています。仏教の輪廻転生の教えでは、人が死ぬと生前の行いを閻魔王に審査されて、六道(地獄・餓鬼・畜生・人間・修羅・仏界)のどこかに生まれ変わります。地獄に落ちたさいに唯一、救済してくれる仏さまが地蔵菩薩ですが、地蔵菩薩は、じつは閻魔王の化身という説があります。閻魔地蔵は、そうした考え方が反映された珍しいお地蔵さんで、その昔、難波の浜辺から運ばれて、六道の辻に来たさいに、急に重くなって一歩も進めなくなったので当地に安置されました。戦国時代の天文7年(1538)の銘が刻まれて、恐ろしい閻魔大王の姿をしていますが、心は優しい地蔵菩薩として地域住民に崇められています。とくに本堂の後ろに回って壁を撫でながらお願いごとをすると霊験あらたかとか。
3、生根神社
住吉大社より古くから当地に鎮座していたという伝承があります。ご祭神は少彦名命で、現在の本殿(大阪府指定重要文化財)は淀殿の寄進で造営されました。境内社の天満宮の菅公の木製御神像は、文明14年(1482)、天台法主・融円律師の作で国宝級の価値を有しています。菅公像は時代を経るにつれて、怒りの表情から笑顔に変わる傾向がありますが、木製御神像は無表情で、過渡期にあることがわかります。また本殿東側にある穴のあいた石=神明穴立石は少彦名命が海外に行ったさいの浜の石を運んで「何首鳥」(漢方薬、強精剤の名前)と刻んで霊石として崇めたものです。和歌浦より一夜で住吉浜までやってきた…という伝説などもあります。現在は穴の位置は東西を向いていて、伊勢神宮を遥拝できるように立てられています。
4、一運寺
推古21年(613年)に聖徳太子が建立して、最澄、空海、法然などもご説法なさったという住吉きっての名刹です。境内には赤穂浪士の大石良雄・主税の親子と寺坂吉右衛門のお墓があって、これは赤穂浪士を資金面で援助した大坂商人・天野屋利兵衛の子孫が建てたものです。利兵衛は討ち入り用の槍を堺の職人に製作依頼しましたが、職人たちはふって沸いたような臨時収入に住吉の料亭・三文字屋で豪遊しました。このとき運悪く隣座敷に町奉行の与力衆がいたことで「なぜ槍の製作を依頼したのか?」と怪しまれてしまい、利兵衛は捕縛されて拷問されます。しかし義理堅い利兵衛は「天野屋利兵衛は男でござる!」と啖呵を斬って吉良邸討ち入りが終わるまで決して口を割りませんでした。ちなみに捕り物劇の舞台となった料亭・三文字屋は、現在では奇しくも住吉警察署となっています。
5、宝泉寺 十三仏
天元5年(982)に「往生要集」で有名な源信上人によって開基された融通念仏宗の寺院です。石仏の十三仏は元亀年間(1570-73)に、旧住吉村字石本(神ノ木駅付近)にあった巨石をもとに刻んだもので、釈迦如来以外の十二仏は「干支のお守り本尊」として信仰されています。薬師如来、弥勒菩薩、地蔵菩薩の3体は他の石仏に比べて小さく、「石工が計算違いをした?」という説もあって親しみがわきます。また「幽霊の片袖」伝説の発祥地で、元和3年(1617)に、箱根山を歩いていた巡礼者の前に、住吉大社の禰宜・山上松太夫の妻の幽霊が現れて、宝泉寺の道和上人に回向を頼みました。その証拠に「幽霊の片袖」を手渡したのですが、山上松太夫は宝泉寺の檀家で、道和上人は融通念仏宗総本山・大念仏寺の法主となっていたので、現在は大念仏寺の宝物殿に幽霊の片袖と香合が残っています。正式に鑑定したところ、間違いなく、江戸時代初期の片袖という結果も出ています。
6、熊野街道石碑
京都から熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)までの約300キロにも及ぶ参詣道で、その一部はユネスコの世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されています。平安時代中期から熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになり、907年に宇多上皇が参詣すると皇族、女院の参詣(熊野御幸)や貴族の参詣が相次ぎ、とくに鳥羽上皇は21回、後鳥羽上皇は28回、後白河上皇に至っては32回も熊野に参詣しています。室町時代以降は、皇族や貴族に代わって武士や庶民の参詣が盛んになり「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいの街道となりました。
7、池田屋本舗
大阪府下唯一の手作り味噌のお店です。400年以上前の元禄年間に酒造業として創業しましたが、明治初期に味噌作りを始めました。明治、大正、昭和天皇にも献上された「住之江味噌」は住吉名物として有名です。熊野街道と住吉街道の四つ角にあって、表の屋根には住吉大社の高灯籠が置かれています。1892(明治25年)の建築ですが、白壁の虫篭窓など昔ながらの風情を伝える商家で、国指定登録有形文化財になっています。
8、住吉大社
創建211年。日本全国にある住吉神社の総本社で、海神の住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)と神功皇后を祀っています。住吉造の本殿は国宝指定で、遣隋使や遣唐使は、大陸への航海に出発するさいは、必ず住吉大社に参詣しました。住吉津は、日本最古の国際港でもあり、シルクロードの日本の玄関口でした。おとぎ話の「一寸法師」は、子宝に恵まれなかった初老の夫婦が住吉大社に参って子供を出産し、その子供が住吉津から大阪湾、淀川、京にのぼって、武士になるために鬼退治をするという設定です。また名所として知られる反橋(太鼓橋)は、慶長年間に淀殿が寄進したもので、長さ約20m、幅約5.8mの木造桁橋です。朱色の優美なシルエットが美しく、大阪府出身でノーベル文学賞を受賞した川端康成の自伝的小説「反橋」(1948年発表)では、「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです。私は母に抱かれておりました」という名文句によって回顧されています。
9、粉浜商店街
大正8年に粉浜の米屋さん7名が店舗を構えたことが粉浜商店街のはじまりです。住吉大社の門前市として発達して、現在では350メートルの商店街に120店舗もの店が並んでいます。3、4代続く老舗も多く、豆腐やこんにゃく、うどん、おかきなどの専門店などは住吉名物として、遠方からやってくる多くの参詣客から親しまれています。月初めには商売繁盛、家内安全を願うイベント「はったつ市」を主催しています。住吉大社参詣のおみやげ処としてオススメです。
京都は伏見稲荷の取材中に発見しました。
「中国料理 陸奥」!!?
関西圏では陸奥という名前は非常に珍しいんですよ。東北の地名ですしね。入ってみようと思ったら、残念ながら閉店しておりました。むう。どんな味だったんだろうか・・・。