「大阪七墓巡り復活プロジェクト2020」の動画リンク

2020 年 8 月 23 日 Comments off

「大阪七墓巡り復活プロジェクト2020」の動画リンクです。ようやっとんな…。つーか、私は一体、何をしているのでしょうか…?

①大阪七墓巡り2020動画①梅田墓地跡

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/2435671846737398/

②大阪七墓巡り2020動画②北向地蔵尊(阪急三番街)

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/621846652050623/

③大阪七墓巡り2020動画③源光寺〜道引地蔵尊〜南浜墓地

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/300339801382364/

④大阪七墓巡り2020動画④沖向地蔵尊(葭原墓地跡)

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/300020217931903/

⑤大阪七墓巡り2020動画⑤蒲生墓地

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/230762371506224/

⑥大阪七墓巡り2020動画⑥京橋空襲慰霊碑

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/801649037242026/

⑦大阪七墓巡り2020動画⑦大阪城天守閣

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/969063366902842/

⑧大阪七墓巡り2020⑧真田山陸軍墓地

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/317568269364395/

⑨大阪七墓巡り2020動画⑨東高津延命地蔵尊(小橋墓地跡)〜梅川忠兵衛比翼塚

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/1338146979728641/

⑩大阪七墓巡り2020動画⑩浮世小路〜法善寺

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/775035106579066/

⑪大阪七墓巡り2020動画⑪榎地蔵尊(千日墓地跡)

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/309344030143096/

⑫大阪七墓巡り2020動画⑫榎地蔵尊(千日墓地跡)〜三津寺墓地

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/732012707531654/

⑬大阪七墓巡り2020動画⑬太子墓地跡(飛田墓地跡)

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/3156615251113388/

⑭大阪七墓巡り2020動画⑭阿倍野墓地(千日墓地迎仏)

https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/218407682927521/


カテゴリー: 雑感 タグ:

大阪七墓巡り復活プロジェクトとは何か?

2020 年 8 月 15 日 Comments off
カテゴリー: 雑感 タグ:

僕の曽祖父は陸奥利宗といいますが、妻(僕の曾祖母)が薩摩藩の鉄砲指南役の小山田休次郎家の二女でヲカといいました(陸奥という東北由来の苗字のくせに僕は薩摩藩士の血を引いているw)。その姉で小山田家長女のタカが嫁いだのが鮫島訓石。

2020 年 8 月 2 日 Comments off

僕の曽祖父は陸奥利宗といいますが、妻(僕の曾祖母)が薩摩藩の鉄砲指南役の小山田休次郎家の二女でヲカといいました(陸奥という東北由来の苗字のくせに僕は薩摩藩士の血を引いているw)。その姉で小山田家長女のタカが嫁いだのが鮫島訓石。

えらい妙な名前やなと思って、昔、調べたんですが、じつは薩摩焼・苗代川窯の陶工でした。苗代川陶工は秀吉の朝鮮出兵で連れてこられた朝鮮陶工の一族です。司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』の舞台でも有名ですな。いまも苗代川には鮫島佐太郎窯(鮫島訓石の弟子筋)が現役で活動してはります。いっぺん現地に行ってみたいんですが…。

それで陸奥利宗の義理の兄となる鮫島訓石ですが、有名な沈壽官一族(白薩摩系)と並ぶほどの薩摩焼の名手でした。とくに黒薩摩の評価が高いようですが、その訓石の作品が大阪は新世界で開かれた第5回内国勧業博覧会(1903)に出品されておりましたw

「古銅紋彫刻花瓶」などを出していたそうですな。代金は300円。現在の価値でいえば約600万円ぐらいですか。流石。

仕事で内国勧業博覧会の原稿を書かないかんので調べていたら、自分のご先祖さまが出てきました。まさかの出会い。びっくりww

※1枚目の画像は勧業博覧会の雑報。2枚目が黒薩摩と鮫島佐太郎氏の記事。


カテゴリー: 雑感 タグ:

新聞は検索型(言葉)やない。紙面をめくること(無言語)で情報に触れる。子供にはまず新聞で世界観(未知の言葉を知る)を広げさせ、それからネット検索が効率的。

2020 年 7 月 24 日 Comments off

新聞は検索型(言葉)やない。紙面をめくること(無言語)で情報に触れる。子供にはまず新聞で世界観(未知の言葉を知る)を広げさせ、それからネット検索が効率的。


カテゴリー: 雑感 タグ:

子供がネット検索しても語彙が貧困やから同じページをグルグルするだけ。「語彙を増やす」には本を乱読したり他者と対話せなあかん。いっちゃん楽なんは新聞を読むですw

2020 年 7 月 24 日 Comments off
カテゴリー: 雑感 タグ:

2012年7月24日。住吉大社。神館。玉座の間。

2020 年 7 月 24 日 Comments off
カテゴリー: 雑感 タグ:

知る人ぞ知るの堺探検クラブw

2020 年 7 月 24 日 Comments off
カテゴリー: 雑感 タグ:

『沙界怪談実記』(意訳)

2020 年 7 月 10 日 Comments off

『沙界怪談実記』 意訳
※おそらく安永7年(1778)春に書かれたもの

宝暦年間(1751~1764)
明和年間(1764~1772)
安永年間(1772~1781)

①絹屋町の妖怪・・・安永2年(1773)の中頃、絹屋町5丁目に河内屋宗兵衛という絹織屋がいた。隣の織場は夜は誰もいないが、そこから瓦石を投げる大男がいた。修行の僧に聞くと、江戸から大火事で避難してきた狐だという。かつては南宗寺に住むが居心地が悪い。住みたい場所ができたので、わからせるために怪しい行動をとった。そこで祠を建てて住むことを許したが、まだ悪さをする。「妻子がいるからそれと一緒に住みたかった」らしい。

②北蛇谷の飯縄の法術・・・宝暦(1751~1764)の中頃、大阪天満からやってきた祈祷師がいた。北蛇谷の空き家で寝泊まりしたが家の様子がおかしい。怪異が起こる。この祈祷師は飯縄の法(霊的な小動物を駆使して託宣や占いなどを行う)を使うから、その狐や小動物の仕業であろう。

③川尻町の老獺・・・宝暦(1751~1764)の頃、湯屋町西六間筋に住む浄瑠璃のうまい銅屋何某が中の町浜で演芸をして、その帰り道、宿院の大溝で犬のような、背たけ一丈のすさまじい謎の生物と出会い、4、5日、臥せってしまった。

④高須町に鬼の腕ありし話・・・宝暦14年(1764)10月17日の朝、よろづや吉右衛門という置屋が、軒下を掃除しようとすると、格子の溝に毛深くて、真っ黒の逞しい鬼の腕が切り捨てられていた。黒山の如くの見物客ができたが、役所に訴え出て調査されたが、王子が上の墓地に埋められた。

⑤櫛屋町の戯れ狸・・・宝暦(1751~1764)の頃、櫛屋町中浜筋の染物屋・泉屋伊兵衛の隣の家には妖怪が住んでいた。妙な物音がするので下人と見に行くと、謎の音があちらこちらから聞こえる。明け方には4、50人ほどの足音がして音が消えた。狸の腹鼓だろうと噂された。

⑥万代庄金口村の異獣・・・明和8年(1771)夏、旱魃に苦しんだ夏。忠平衛という農人が井の中で妙な獣を捉えた。口とがり、毛色は赤黒で、目は丸く大きく、猿の尾で、狸に似ている。カエルやトカゲ、川魚を食べた。浪花の人に売り飛ばし、その金で村人は酒宴をして楽しんだ。

⑦寺地町大道より古銭堀出す・・・明和2年(1765)冬。米屋が5尺ばかり地面を掘ると、厚板の箱が出てきた。中には篆字の古銭で、5、6貫ほどあった。昔、このあたりは少林寺という禅寺で、その墓地に葬ったものであろうか?

⑧少林寺町の地下より古碑出土・・・明和2年(1765)頃、少林寺町の八百屋何某のうちの井戸を67尺ばかり掘ると石碑や欠けた地蔵や壺などが出てきた。これも少林寺の墓跡だろう。

⑨槐樹の霊神童子を悩ます・・・花田口の禅通寺に古い大きな槐(えんじゅ)の樹があった。寺の借家にいた塩屋権平が伐ろうとすると鮮血が出て、みんな恐れたが切り倒した。夜、権平の子供が火のような大熱が出て、おかしなことを言い出す。家が振動して大風が吹くと部屋の片隅に一丈ほどの異形の者が現れたが、権平が茶碗を投げつけたら消えた。和尚曰く「槐の霊ではなくて住家を追われた狐狸の仕業だろう」。霊符を貼ると何も起こらなくなった。

⑩綾之町妖怪吉事を告げる・・・綾之町山口筋の金田屋の商家は化物がでる。明和7年(1770)の冬に奉公人が来たが夜中に世間話をしていると、台所で客をもてなすような米を研ぐ音や豆を煎る音や煮炊きの音がするが戸の隙間から覗いても何もない。戸に大石が打ち受けられる音がするが翌日みても何もない。庭を掃除する音などもよく聞こえる。商売に利益がでると、そのような現象が起こって告げてくれる。

⑪湊村の婦嫉んで魂幽霊となる・・・安永2年(1773)の夏、湊村中筋の三人家族の女房が病死した。その後、幽霊が出る。私も7月24日に岸和田の地蔵参りの帰りにここを通ると、寒気がして、白いものが家の中に入ったり出たりして消えた。近頃、血気の男が4、5人、見物に訪れるが一人の時にしか現れないという。時々、青く光る火の玉も出る。

⑫古井より霊火よく出没す・・・神明の農人町に古い井戸がある。昔は民家があったが、いまは野原になっているが、こある日の夕暮れ、この井戸から緑色の火の玉が出た。昔、この井戸で死んだものの魂だろうという。

⑬川尻の上下に夜々怪あり・・・宿院の川尻に上下というものがいて、その家はあやしいことがよく起こる。明和5年(1768)、手代のものが小便にいくと、仁王のような真っ黒いものがいて、手代は小便もせずに逃げ帰ってきた。酔っぱらって寝ていると手の生えた手が顔を撫で回す。この辺りは大水道があり、蓋をして数年、掃除していない。あやしいものがいて、この付近の家はよく奇怪なことが起こる。

⑭妖猫の起居よく人に似たり・・・天神の片原町には昔は人家も少なく、天神の森で道も暗かった。南の入口をさる坂というが、ここは夜中に怪しいことがよく起こった。宝暦(1751~1764)の頃、蝋燭屋があり、そこの老猫は戸障子などを人間のように開け閉めする。夜中は油をねぶったりする。遠くに捨てにいったが、帰り道を覚えていて、人間よりも先に家に戻る。しかしある日、いきなりいなくなった。

⑮老猫よく人の話を聞く・・・湯屋中浜に私の知人の医者がいた。この家にも老猫がいたが、人間のいうことを理解していた。魚の番をさせると、他の猫を寄せ付けない。新しい紅絹の首輪をかけてやると、いつのまにか失ってしまったので怒ると裏のゴミ捨て場にいってくわえて持ってきた。下男をっている者がいると飛び掛かってやめさせようとする。しかしある時、猫が失敗をしたので怒ると、その日の夜からどこかへいってしまった。

⑯土砂場の妖怪人を悩ます・・・南宗寺町顕本寺の借家に由平がいた。南宗寺の裏の砂利場で砂利を掘っていると大熱が出て、たわ言を繰り返す。暴れるので5、6人で抑えないといけない。医者も怖がって来れない。祈祷をすると「我は土砂場に長く住んでいたものだが、この男は不浄を犯したからそこに住めなくなった」という。また元に戻すからといって祠を建てて奉った。すると男も回復した。

⑰戎町の土蜘蛛の陰火・・・延享(1744~1748)の頃、えびす町六間筋通りに夜中、あやしき火の玉がでる。丸くて、銀森の梢に下がったり、堀の上に留まったり、道を歩いたり、屋根の棟を伝ったりする。青色で、霊火ではなくて、土蜘蛛の火に似ていると当時の夜番がいっていた。そのうちなくなった。いまは木立も少なくて、怪しいことは起こらない。

⑱飢死の老翁子孫を殺す・・・安永2年(1773)、大黒町の蜂介には妻、子供2人、老父と住んでいた。老父が病気で下痢をするので食事を与えないでいると食べものが欲しいと訴える。隣の奥さんが見かねて密かに食事や祝い事のお膳、菓子なども与えたりした。ある時、老父から今生の限りで餅を食べたいと頼まれたが、奥さんは蜂介に知られると大変なことになるからと蜂介の妻に言伝しようとした。その様子を聞いた蜂介は腹を立てて追い返す。老父が死ぬと3日後の夕方、蜂介は震えて引きつけを起こし、隣の奥さんを呼びだし、亡くなった老父の声で「食事を頂いて嬉しかった。その礼をいいたかった」という。その45日後、蜂介はあがきながら死んだ。その夜に妻がまた震え出し、「餅を食べれなくて残念であった。山、萱原で待っている」といい、妻も死んだ。蜂介の子も同じように死んだ。わずか一か月で3人も取り殺された。もう一人の娘も死ぬだろうと思っていたが、そうはならず、この娘は祖父の看病で朝夕の茶湯を運び、優しく介抱したので逃れたのだろうという。

⑲老婆餓死して婦を殺す・・・大黒町であびこ屋という豆腐屋に老いた姑がいた。嫁はつらいあたり、食べ物を与えないので、衰弱し、ついに亡くなった。臨終のさいに枕から身をあげて嫁を睨んで「お前はむごい嫁だ。死後三日以内に恨みを晴らしてやる」と歯ぎしりしながら宣告した。嫁は恐ろしくて逃げだしたが、三日目の夜に狂い死にした。自分で喉をしめて物を食えない状態だったという。

⑳大小路浜の首なしの死体・・・昔、大小路の浜に首なしの死体が打ちあがったことがある。衣服も卑しいものではなく、まだ死んでまもない遺体で、なんでこうなったのか、誰にもわからなかった。最近、道頓堀の豊竹若太夫(1681~1764)がこの出来事を取り込んで浄瑠璃をやって流行っているという。狂言の題は『北条時来記』(これは享保11年・1726年4月に初演)という。

㉑七堂浜夜々霊鬼あり・・・昔、堺の北の庄に七堂伽藍があって、その西の浜を七堂の浜といったと古老はいう。この浜に夜な夜な怪しいものが現れる。日ごろから人の出入りがない場所だが、土地勘のある人がこの地を掘ってみると古い石塔や地蔵が多く出てきた。これらを墓地に移して施餓鬼をしたら、この頃は怪しきものは出てこなくなった。この場所も昔、墓地で、そこでなにか障るようなことをしたのだろう。

㉒三村の神霊悪穢場を悪む・・・南の芦原浜は漁師が多く住んでいる。この氏神の大寺の神輿は八月祭のさいに遷座するが、どれだけ快晴でもにわか雨が降る。ところがある時、神地の土を三尺ほど入れ替えたら神事のさいに雨が降らなくなった。そのさいに墓のものが出てきたりしたが、神地の場所も元は墓所であったが、それを知らずに神地としたので、それを戒めるために雨が降ったのだろう。

㉓床下の古碑迷ふ・・・大道筋えびす町に箱屋があるが、安永2年(1773)の春に家の者が代わる代わるに病気になる。有験の僧に占ってもらうと家の内に怪のものがある。これを取り除けばいいという。いろいろと調べると床下に古い石塔があった。墓碑もわからないがお寺に送って供養をすると、みんな病気が快復した。

㉔浅香山中にて大蛇を見る・・・浅香山には大蛇がでると昔からいわれるが、見たという人はいない。明和(1764~1772)の頃、農人町に作兵衛という男がいて、浅香山の東に畑をもっていて農作業をしていた。夕方、浅香山の南の堤を通って帰ろうとすると風もないのに芒がサワサワと動く。ふと見ると長さはわからないが大蛇がいてウロコが金のように光り、面は箕をあわせたようで、眼光もすさまじい。作兵衛は臥せっていたら大仙陵の方に大蛇はむかっていった。作兵衛はようよう家に帰ったが4、50日ほど患った。

㉕大蝦蟇の霊が人を悩ます・・・甲斐の町大道筋、木綿屋に長年、大蛙がいた。年々、こどもを産んで増えるのでうるさいと捨てに行ったが、また帰ってくる。捨て方が悪いのだと藁にくくって、海へ沈めたが、その日の夜から主人は大熱を出して妙なことを口走る。蛙の慰霊をしたら治った。

㉖大寺片原森の鬼の童子・・・大寺片原町は昔「瑞の森」といって暗い場所であやしきものがいた。雨傘がほどかれたり、雨夜には雨傘をとられたり、提灯の火が消えたりして有名であった。最近は家や人も多くなり、森も切られて、奇怪なことはなくなった。明和4年(1767)の冬・霜月に町の下役人が用事があってやってきた。八つ時(深夜2時)の頃に通ると、町の番屋の前に7、8歳のこどもがいた。顔を見ると目が大きく光ってみえる。足早に逃げたが、後から追いかけてくるような気がして振り返ると、顔は盥ほどもあり、目は月日のように光り、または鏡のようで、身長は軒よりも高い。生死の境と思いながら光明真言を唱えて家に帰って目を回した。4、50日ほど床に伏していたが、ようやく回復して、事の顛末を話すことができた。

㉗大小路の瓦屋の妖怪婚姻す・・・大小路の東に瓦屋何某がいた。この主人は殺生が好きで、魚や鳥や獣を狩って食べる。ある時、万代村の庄屋の美しい娘と仲人のおかげで結婚することとなった。輿入れの日に宴会を用意して、三々九度の杯を交わし、食事をとろうと思うと、座敷の方から百人ばかりの声でどっと笑いだした。何事か?とみると、誰もいない。食事もない。どういうことだと万代村にいくと、娘の家などないし、仲人は遠国にいっているという。狐狸にばかされたわけだが、常日頃から殺生をしていたので憎まれたのだろう。

㉘雷公内船の漬物を喰ふ・・・櫛屋町中浜に高須の半兵衛という長崎渡海の船頭がいた。長崎から堺に上るさいに順風だったのに、にわかに嵐に襲われた。錨をおろして停泊していたが、やがて雷が落ちて、みんな目を回した。そのうち嵐が去り、船玉明神さまのおかげだと御礼して、夕飯を用意しようとして桶を覗くと香の物がひとつもない。おかしいと探るが糠だけで中の漬物は全部無くなっていた。これは雷公の仕業だと船頭は語った。

㉙狐架空の津波を告げる・・・明和9年(1772)8月5日の夜八つ時(深夜2時)過ぎ、錦の町農人町で、大風がきてドウドウと鳴り渡って、「津波だ津波だ」と百人ばかりの声が聞こえ、西の海の方の家の人々は驚いて逃げる用意をしたが、何事も起きない。静かなままである。驚いていると、やがて夜が明けて、ますますみんなは怪しんだ。この事件の前に上(飢え)の王子の墓守のところに「異形のもの」がやってきて、「いまから堺のまちの連中を騒がしてやるから見物していろ」といって消え失せた。おそらく津波はこのものの仕業だろう。狐の類と思われる。

㉚上の町に狸の化物出没す・・・上の町はすべて大家で一町に両側で家は三軒ほどで、さびしいまちだ。ここに隠居屋敷があり、化物が住んでいる。明和の頃、私の知人が住んでいたが、夜になれば騒がしく、振動することもよくあった。ある夜、主人が外出して八つ時に帰ると、庭で女の子が掃除をしていた。箒をもって裏の方にいくが、台所では顔をそむけて、後ろ姿しか見えなかった。あるときは小坊主になって床の下から走って出てきたが、姿は見せるが顔は見せないという。

㉛宿院の天狗人を使つて遊ぶ・・・安永2年(1773)の夏のはじめ、宿院北半町のある家の男の子がいなくなった。祈祷をしても何もわからず、行方不明で、ついに葬式が行われた。4、5日ほどたつと兵庫の方から送られてきたが、何を訪ねても何も答えない。日にちが経つと、ようやく意識を取り戻してきたので、なにが起こったのか?と聞くと、その日は門前で見知らぬ山伏がやってきて、目を閉じよというので、その通りにしたら空中を歩いていた。いろんな名山や古跡、霊仏場を巡ったが、1日ぐらいのことと思ったら5日ほど時間が経っていたという。

㉜戎島米市場の変化・・・戎島米市場には狐や狸が多くてあやしいことがよく起こる。安永6年(1777)の夏、会所の写り取り(相場の書記)がうどん屋へいったら帰ってこない。探すと、宿院の浜磯部にいて、連れて帰った。どうしてあんなところに?と聞くと、うどん屋へ行こうとしたら道が多くて辿りつけなかったので帰ろうとしたという。足も裾も泥まみれであった。

㉝古室の怪異主人を苦しむ・・・明和2年(1765)の夏、上の町北野町に高林という医者がいたが、その家は妖怪屋敷といわれていた。ある時、雨戸より人が出入りする音がしたので、老母は老人が小便にいったのだろうと思って、ふと覗いたら、その姿は真っ白いもので、やがて消え失せた。またある夜、主人が小便にいくと同じく真っ白いものがふわふわとやってきて、やがて目の前にくると煙のように消えた。こういうことが度々起こったが主人は狐狸の仕業と相手にしなかった。しかし老母が怖がるので、やがて引っ越しした。

㉞夫婦鬼となり空家に泣く・・・湯屋山田町天神の前に道具屋があった。父、祖母、娘がいた。明和(1764~1772)の頃、父が病気になり、10日ばかりして亡くなった。祖母も病に倒れ、隣家の人も駆けつけたが、祖母も死んでしまった。その後、娘も同じ病に倒れ、7月の中頃、暑さが増して、ますます病が重くなった夜に、娘には庭に亡くなった祖父母が現れて嘆き悲しんでいる様子が見えた。夜が明けて、その様子を話して恐れていたが、ほどなく亡くなった。近隣の方が葬式を出したが、7日7日の仏事のあいだ、夜になると火の玉が出て、老母の泣く声が鳴り響いたという。そのあと長く空き家であったが、近頃、新築され、いまは怪しいことはおこらない。

㉟千日橋下より霊泉湧出す・・・明和元年(1764)2月、北の端千日橋の堤より霊泉が出た。ある漁夫がいて足痛で悩んでいたところ、僧侶がやってきて「近々、霊泉が出る。これは弘法大師の霊泉で、足の病気もこれで治る」と告げてどこかに去っていった。あやしいもんだと思っていたが、千日橋の湧水で足を洗うと、病気が治ったという。

㊱南蛇谷町の老翁薬を施す・・・南蛇谷町に藤兵衛という浪人がいた。11年間、毎日、大寺さんの社前で飴を売る店を出していたが、明和4年(1767)の秋に、奇妙な療治の店を始めて、いろんな人の難病を治した。無学で貧しいのにどこでそんな療治を覚えたのか?と聞くと、さる月の二十二日に大寺で奇相の老人が現れて「お前は素直な生まれつきで、長く貧しさに苦しんだが、この霊法を授けよう」と教えてくれた。その教えを守って治療を施しているという。

㊲山口日向の奇卜術・・・岸和田の東・土生村に山口日向という安倍晴明の末裔がいた。卜術に詳しく、家の奥に天社という神霊を祀って、妻には農業をさせ、自分は医者であった。明和2年(1765)の夏に堺・大小路の和泉屋仁平の女房が肩、腕が痛んで、いろんな医者にかかったが治らない。日向に会うこととなったが、日向は「これは薬では治らない。家の中に霊像があるはず。そのタタリである」というので家を調べたら先祖伝来の阿弥陀像があった。肩、腕が欠けていたので修復したら女房も完治した。

㊳金龍井の怪物よく人を奪ふ・・・甲斐町山口に金龍井がある。昔は禅林海会寺という大寺であったが、いまは南宗寺に移っている。だから今はこの場所は海会寺前という。その海会寺の井戸は龍宮に通じていて、あやしいことがよく起こった。明和(1764~1772)の中頃、何某という男が井戸のあたりで小便をすると井戸が鳴動して男はいなくなった。いろいろと探したが見つからない。また木屋という男も同じく井戸のほとりで行方不明になった。

㊴樹下を掘りて仏像を得る・・・安永3年(1774)の春、綿屋の何某が甲斐町中浜筋に住んでいた。樹木が好きでいろんな木々を移したり、植えたりしていた。ある時、大木を移そうと四尺ばかり掘ると何か固いものがあった。下人が掘り出すと、石仏であった。洗い清めて木の下に安置した。古い仏像で、珍しいものだが、どういう経緯で何年間も土の中に埋まることになったのだろうか。

㊵奸人の妻悪報を受ける・・・湯屋の町浜に何某という無道のものがいた。高利で金を貸し、返済できないと借人の女房を奪った。自分の妻と同居したが、2人は常に妬みあった。ある時、本妻が風邪で病に伏せ、どんどんと悪化し、妾を妬みながら死んだ。17日後、亡霊となって家に現れ、奥の方にいって消えた。それを見たものが亭主にいうと、亭主は仏道に励むと熱心に弔いをした。ある夜、妾の夢の中に妻の亡霊が出て来て、髪を振り乱し、怨みがましく睨みつけてきたので、妾があっと叫んで、その声に驚いてみると、妾は正気を失っていた。それから悩みだし、病に倒れ、妻の亡霊が恐ろしいといいながら死んだ。家もだんだんと衰えて、ついに亭主も滅んで、なにもなくなった。

㊶新田橋下の河童人を咬む・・・材木町の浜に松屋新田があった。そこに農民が行き来する丸木橋があったが、この橋の南詰は潮の勢いが強く、また川の中にどれほど深いかわからない底なし穴があった。そこに河童が住むといい、夏から秋にかけては大人も子供も誰も釣りなどはしない。昔、芋屋の13歳の息子と、十三屋という魚屋の12歳の息子がこの辺りで遊んでいたらイナという魚を見つけた。どっちか取るかと競争していたら、いきなり十三屋の息子が川の中にズブズブと引き込まれていった。芋屋の息子が助けようとするが、足を爪のある手で痛いほど握られ、恐ろしくて川から逃げだした。十三屋のこどもは新田の南の堤で見つかったがすでに死んでいた。その死体を調べると肛門が咬み破られ、避けていた。ここから五臓の血をすすったのだろう。河童の仕業である。

㊷超善寺い迷鬼出没す・・・ある日の夕方、超善寺の和尚がいたときに、怪しき姿のものが入ってきて、しばらくいたが、忽然と消えた。また和尚が寝ていたら、怪しきものが枕元に立った。和尚は「なにかいいたいことがあればいってみよ」というと、「私は昔、この寺の墓に葬られたものだが、もう誰も見舞いのものが来なくて、迷っている。和尚の慈悲で回向をお願いしたい」という。和尚は不憫なことだと思い、「名はなんという?」と尋ねると「暁夢信士」「夕露信女」の戒名を答えて消えた。翌日、調べると石碑があった。非業の死を遂げたものだった。和尚は大施餓鬼の大法会をした。明和3年(1766)の事で、これは和尚から私が直に聞いた。

㊸河童新川にて人を喰ふ・・・安永5年(1776)の夏、木櫛屋町の六間筋の扇屋で手間仕事をするものがいた。横町八百屋の息子と仲がよかった。ある時、浜に海水浴にいき、海の中で遊んでいたら、扇屋が「ワッ」と言い出して海中に沈んだ。八百屋の息子は怖くて逃げだし、人を呼び、扇屋を引き上げたがすでに死んでいた。これも肛門が裂けて食われていた。毎年、このようなことが起きる。後世の戒めになれと思い、書いておく。

㊹大仙陵に大鯰出現す・・・堺の辰巳(南西)に大仙陵がある。この山は昔、仁徳天皇が葬られたところで、日本国中から人が集められて陵が築かれた。山の中は名所が多くて有名だが、この回りに大きな堀があり、深さもどこまであるか知らない。虫や魚も多い。この堀にある時、忍び込んで網を引いたが、真っ黒の巨大なものが引っかかって、みんな恐怖で逃げ出した。最近もそれを見たものがいて、四間(約7.27メートル)あまりの大鯰であったという。

㊺池中の怪物網を奪ひ去る・・・大仙陵の堀で、また忍び込んで夜中に網を張るものがいた。なにかかかったので喜んで引き上げようとしたが、上がらない。次第に強く引かれて縄も切れてしまい、すべて打ち捨てることになった。一体、どれだけ巨大なものが中にいるのやらと噂になった。これより網を入れるものがなくなった。

㊻魂炎出て市中の飛行す・・・木の下町に物知りがいた。そのものがいうには、このあいだ夜八ツ時すぎに用事があって外に出て、ふと北の方をみると、盆ほどの大きさの青青とした火の玉が、ある家の軒の窓から出て来て、徘徊して飛んで行った。「これは一体、どういうことなのか?」と私に話をしたが、おそらく非業の死を遂げたものがいて、その死者の妄執だろうと思う。

㊼夢中に相通ず・・・えびす町六間筋に大倉屋何某がいた。長年の友人がいたが、その友人の妻と浮気をする夢を見た。ある日、その友人の妻が来て、縁先で酒を飲んでいると、妻は「夢というのは妙なものをみることがあって、じつは亭主と浮気をする夢をみたことがあるんです」と言い出した。亭主も驚いて夢の中身を語ると、お互い、全く同じような夢であったので、夢の中で契りあったのだなぁと大いに笑い合った。

㊽不積善の家に鬼児産る・・・車の町六間筋に淡路屋万兵衛というものがいたが、無道のことが多かった。その頃、子供が生まれたが、女の子で、容貌もよくなく、うつけで、唖だった。2人目は男であったが、十五か月で出産し、髪は赤く、2つの角があり、歯は生えて、牙があり、目も丸く光り、恐ろしく万兵衛は一目見て絞め殺した。世にいう鬼子であった。妻も悩んで、ついには病気になり、死んでしまった。不幸なことが続き、万兵衛もついに病死した。残された亀治郎という子がいたが乞食となり、亀亀と呼ばれて、うつけ者で、ついに安永2年(1773)の春に死んだという。

㊾死屍掌中の金を放たず・・・大小路に毎年、茶店を出して旅人を休めて施薬するものがいた。「なぜそんなことをしているのか?」と聞くと、市の町浜に何某といえるものがいたという。貧乏であったが、ある朝、海辺にいくと旅人が死んでいた。衣服もよく懐中に財布があった。財布を見ようとするが、死者が財布を握って離れない。そのまま捨てて帰って妻にそのことを話したら「それはどうせ誰かに奪われる。私たちにくれたら供養するからといいましょう」という。もう一度、元に戻って、妻にいわれた通りにいうと死者の握りしめていた財布が開いた。その金で懇ろに供養をして、あまったお金で商売を始めたら運が開けて栄えることになった。大小路の施薬はその死者への追善としてやっていますという。


カテゴリー: 雑感 タグ:

第46番札所。桑実寺。近江八幡市。安土町。

2020 年 6 月 24 日 Comments off
カテゴリー: 雑感 タグ:

三輪神社。矢場。星野勘左衛門の殊勲。 尾張藩として紀州藩には負けられないと思ったかw

2020 年 6 月 21 日 Comments off
カテゴリー: 雑感 タグ: