先だって江尻 浩二郎さんと二人っきりで大阪七墓巡り復活プロジェクトを歩いたのですが、そのご感想を江尻さんが記事にしてくれました。ありがとうございます!^^

2022 年 4 月 9 日 Comments off

先だって江尻 浩二郎さんと二人っきりで大阪七墓巡り復活プロジェクトを歩いたのですが、そのご感想を江尻さんが記事にしてくれました。ありがとうございます!^^

七墓については以下がそれなりにまとまってます。月刊石材さんに寄稿したものですが、よろしければご笑覧ください。

■大阪七墓巡り復活プロジェクトについて
陸奥賢(観光家/コモンズ・デザイナー/社会実験者)

http://wp.me/pxlkK-2k4

それで、先だっては、江尻さんと僕と、おっさん2人で、2日間で46キロほど七墓跡を歩いてイチャついてたんですが(ひどい)、なぜそんなことをしたのか?というと、ちゃんと目的がありまして。それはいわきの幻の巡礼「十十王申す」を復活させよう!という高邁崇高なる大義(?)があったからです。そのために一緒に「幻の巡礼」の七墓を歩いてみたということです。

「十十王申す」に関しては江尻さんの投稿を読んでいただくとして、僕は「十十王申す」を江尻さんから教えてもらった時に「これはぜひともいわきで実際に巡ってみたい!」と思ったわけです。

なんせ資料があるようで、ない。というか、ほぼ、ない。十王堂も残ってない。十王堂跡は何となくある。数えたら10以上あったりする。しかし、どこをどう巡っていたのか、いまいち、よくわからない。

何もかもしっかりと残っていると新しく何かを付け足す「余白」がないわけです。「保存会」とかあると、どうしても、それはある種の権威となり、そこからの逸脱は難しくなる。それがダメというとるわけやおまへん。伝統を守ることの大切さ、素晴らしさ、凄さは重々、承知しております。しかし、伝統は伝統たるがゆえに、どうしても「他者」を巻き込むような構造にはしにくい。そうすると、いろいろと難しい部分が出てくる。

だから、かつてはあり、いまは既に失われてしまった謎の巡礼がいい。誰がどのようにやっていたのか、よくわからない曖昧模糊とした巡礼。「余白」がある巡礼。余白があるから、いろいろと試行錯誤や社会実験が可能となる。

これは僕自身が大阪七墓巡りをやっていて思ったことです。七墓は、すでに無くなってしまっていたから、だから「大阪七墓巡り復活プロジェクト」と銘打って、他者を巻き込みながら、アレンジできる。編集できる。創造できる。「復活」といいながら、じつは僕がやっていることは、決して江戸時代の巡礼の模倣、再現、復活ではなくて現代的なテイスト、味付けが加わってます。リデザインしている。それが可能だから「失われた巡礼」は面白い。

虚実皮膜こそが、芸術の華です。うそかほんまかようわからん。「十十王申す」は、そういう巡礼になりえるのでは?と思ってます。今年、江尻さんと徐々に、試験的に、動かしていきます。乞うご期待ください!m(_ _)m

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先日久々に大阪へ。歩く巨人・ 陸奥 賢さんに案内されて「七墓巡り」を。江戸時代、大阪町衆に流行したこの巡礼は、盆中、市中郊外にあった7つの墓地を巡り、有縁無縁を問わずその霊を慰めたものだそうです。陸奥さんはこれを130年振りに復活させ、七墓から大阪を観る「七墓史観」を提唱しています。今回はオンライン配信をしてアーカイブがありますのでぜひこちらも御覧ください。
七墓巡りFB→https://www.facebook.com/osaka7haka

とにかく興味深い情報が渋滞してて箇条書きでも本になってしまいそうなんですが・・・、陸奥さんはHPやFBに(七墓にかぎらず)とんでもない量の投稿をしてますのでぜひ日々の活動をフォローしてみてください。ちなみにあの「まわしよみ新聞」を発明したのも陸奥さんです。まさに巨人。
陸奥さんHP→http://mutsu-satoshi.com/
陸奥さんFB→https://www.facebook.com/mutsusatoshi

極端なこと言うのもあれですが、いやでも今回のこれを超える「まち歩き」体験はもう自分の人生にないんじゃないかという気がしますね。博覧強記、その教養、批評性、さらに軽妙な語り口。間違いなくホンモノ中のホンモノなのでありまして、みなさんも是非ナマで陸奥さんを体験していただきたいと思います。七墓に限らず普段も様々なガイドをされてます。

さて、なぜ今回二人で七墓を巡ったかというと、実は陸奥さんと一緒に、かつて磐城で行われていたという幻の巡礼「十十王申す(とじゅうおうもうす)」を復活させようと思っているのです。
明治中頃に書かれた大須賀筠軒「磐城誌料歳時民俗記」に以下のような内容の記述(1761年に書かれたとされる書物からの引用)があります。「村里から鉦太鼓で老若男女がまじり、14、5人連れで城下へくる。神社仏寺を廻って念仏踊りをする。町家新盆の家の前で踊る。また呼び入れて念仏させる家もある。町々を巡り、夜深まって村里へ帰る。若輩の男子は鉦太鼓を打ち鳴らし、十王堂十か所を巡る。これを十十王申すという」

念仏踊りとはいわゆる「ジャンガラ念仏踊り」です。町々で踊り狂ったあと、若輩の男子だけが(おそらく夜を徹して)10か所の十王堂を巡り、そこでもジャンガラを打ち、念仏踊りを踊ったんでしょうね。いやはやなんてことでしょう。死ぬまでに一度やってみたい。若輩の男子じゃなくてもやりたい。

十王というのはものすごく平たく言うと、地獄の審判を行う十名の裁判官です。閻魔さんだけが突出して有名ですが、もともとはこの十王の中の五番目の方。7日目、14日目、21日目、28日目、35日目・・・と順次裁判を受けていきますが五番目、つまり35日目の裁判官が閻魔さまということですね。

余談ですが、1671年に磐城平藩が出した七月九日付の令達に「念仏踊りや百堂参りは行ってもよいが、大勢で美麗を尽くしてはならない」ということが書かれています。つまり当時は大勢で美麗を尽くしていたわけですが、その後、にぎやかな念仏踊りが史料に現れるのは100年後ですから、しばらくは大人しくしていたのかもしれません。

ここに出てきた「百堂参り」も気になります。検索してみると霞ヶ浦の旧出島村あたりには今も「百堂巡り」というものがあるようです。これは初七日に地蔵(堂)を100ケ所巡って紙札を貼り、故人を供養するのだとか。当時の磐城にもそのようなものがあったのでしょうか。

また気になるのは百という数で、1671年に「派手にやるなよ」と言われた「老若男女の念仏踊りと百堂参り」が、100年後には「若輩の男子だけの念仏踊りと十十王申す」になっている。10✕10=100ですから、どこかでなんとなくつながっていたらと妄想するのも楽しいです。閻魔さまの本地は地蔵菩薩ですしね。

「十十王申す」については前掲書にしか記述がなく、詳しいことはよく、というかさっぱりわかりません。しかし磐城は古くから浄土教が盛んなところでして、十王信仰も当然あつかったはず。郊外を歩き回ってみるとあちらこちらで古い十王像を見つけることができます。

ということで「十十王申す復活プロジェクト」始動というわけですが、せっかく陸奥さんとの共同作業なので、わたしには欠落しているところの「批評性」をもって、磐城平という地方に新たな光を当てる「十十王史観」を立ち上げたい、くらいの気持ちで頑張って行きたいと思います。知らんけど。



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『福島白河バージョン まち歩きフォトスゴロクノート』、ついに完成です!!!

2022 年 4 月 8 日 Comments off

去年の後半はこの仕事にドップリだったんですが『福島白河バージョン まち歩きフォトスゴロクノート』、ついに完成です!!!

福島県立博物館さんのポリフォニックミュージアムのプロジェクトにアーティスト枠として招聘され、白河の高校生と白河のまちを結びつけるワークショップとコミュニケーション・ツールの開発…ということで作成したのがこちらです。

元々、大阪ではフォトスゴロクを作成して、いろんな現場で使っていたのですが、それを編集、カスタマイズし、福島県バージョン、白河市バージョンのまち歩きフォトスゴロクを作成しました。

構成は大まかには5つ。

①白河まち歩きフォトスゴロクのワークショップの藤城 光さんのレポート(読ませます!)

②僕の白河リサーチのレポート「白河を逍遥しながら」

③「まち歩きフォトスゴロクの作り方」「まち歩きフォトスゴロクの効果」

④「陸奥賢作成の白河まち歩きスゴロク」(こんな感じで作ります…という一例の紹介です)

⑤みんなで実際に作ることができる「白河まち歩きフォトスゴロク」「福島まち歩きフォトスゴロク」

特に凄いのが⑤でして。このノートは去年の仕事の報告書であるのですが、それだけに収まらずに「あなたも実際にまち歩きフォトスゴロクが作れまっせ!ぜひとも作ってください!」という「遊びの仕掛け」が組み込まれています。

今回のプロジェクトはやりながら報告書で留まっていては勿体ない…という気がしていて出来ればプロジェクトのプロセスや方法論ややり方が開示され、共有され、実行され、社会化されていく…というカタチまで持って行きたかった。なので報告書+実践ツールを一体化してノートに纏めてみました。

僕はコモンズ・デザイナーと名乗って諸々の社会実験プロジェクトを展開してますが要するに「いつでも、どこでも、だれでも使用可能な社会財、共有財を作りたい」というのが常に念頭にあります。『まち歩きフォトスゴロクノート』はコモンズ・デザインの理念に則った最新作品です。

これはまた僕ひとりだけの力ではなくて福島県立博物館さん、白河のコミュニティカフェ「エマノン」のみなさん(とくに代表の青砥 和希さんには多大なご協力を頂きました。青砥さんがいないとこのプロジェクト成立してません!本当に感謝です!m(_ _)m)、白河の高校生のみなさん、白河各地のミュージアム関係者や白河市役所の方など、いろんな方にお世話になり、ご協力頂き、試行錯誤しながら完成しました。

いまはノートはミュージアムやアート関係者に配布されていると思いますが、数に限りがあります。PDF化して公開されて福島、白河のいろんな方にダウンロードしてプリントアウトしてもらい、あちらこちらでまち歩きフォトスゴロクが作られて欲しいなあ…と考えてます。

できれば、福島、白河の中学生、高校生たちにやってもらいたい。学生さん、若者たちが「わがまち」を発見し、語り合い、遊ぶツールになれば、これほど嬉しいことはありません。


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大阪まち歩き大学。大正区まち歩き。昭和山へ。山頂で三線の練習をしている方が。よろしおますな。

2022 年 4 月 8 日 Comments off
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昔、西成区の千本中に住んでいたときは、ふらっと渡船に乗って木津川を越えて平尾へ。沖縄そば食って帰ってました。

2022 年 4 月 8 日 Comments off

大阪まち歩き大学。関西沖縄文庫。かじまや。うるま御殿。

昔、西成区の千本中に住んでいたときは、ふらっと渡船に乗って木津川を越えて平尾へ。沖縄そば食って帰ってました。

贅沢な遊びです。控え目にいいますが、最高でしたなあ。


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大阪まち歩き大学。世の中にはいろんな御神籤がありますが、たまに無料の御神籤があって。大今里の八剣神社(八王子神社御旅所)の御神籤もそのひとつ。

2022 年 4 月 8 日 Comments off

大阪まち歩き大学。世の中にはいろんな御神籤がありますが、たまに無料の御神籤があって。大今里の八剣神社(八王子神社御旅所)の御神籤もそのひとつ。

僕は三番。吉でした。


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大阪まち歩き大学。大正区まち歩き。姫島山専稱寺。 大正区の三軒家はかつて姫島と呼ばれていたという伝承がある。この姫島がアカルヒメ伝説(古代の新羅王子アメノヒボコの妻。DV夫だったので大阪に逃げてきたという)と結びつく。

2022 年 4 月 8 日 Comments off

大阪まち歩き大学。大正区まち歩き。姫島山専稱寺。

大正区の三軒家はかつて姫島と呼ばれていたという伝承がある。この姫島がアカルヒメ伝説(古代の新羅王子アメノヒボコの妻。DV夫だったので大阪に逃げてきたという)と結びつく。

ところが姫島は三軒家だけではく西淀川区姫島にもある。西淀川区姫島のみなさんは「アカルヒメがやってきた姫島はうちや」といい、大正区三軒家のみなさんは「いやうちこそアカルヒメがやってきた姫島や」という。

僕は西淀川区姫島をまち歩きするときは「あのアカルヒメがやってきた姫島です!」といい、大正区三軒家をまち歩きするときは「ここがアカルヒメがやってきた姫島です!」と案内してます。
天下御免の日和見です。


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大阪まち歩き大学。大正区三軒家。近代紡績工業発祥の地。三軒家公園。

2022 年 4 月 8 日 Comments off

大阪まち歩き大学。大正区三軒家。近代紡績工業発祥の地。三軒家公園。

明治15年(1882)に澁澤栄一や藤田伝三郎の出資で、ここに大阪紡績会社(現在の東洋紡)を設立した。
『あゝ野麦峠』や『女工哀史』のような話があるのかと思いますが、大阪紡績は男どもの夜這いが酷かったとか。女工ばかりだから寮に忍び込もうとした。

地方の紡績工業だと逃げ出さないように外側から女工の部屋のカギをかけたそうですが、大阪は女工たちが内側からカギをかけたとか。あんまりにも大阪の男どもが忍び込んでくるので面倒臭かった。

昔、大正区の郷土研究家で生き字引といわれたMさんから聴いた話。Mさんももう亡くなられて10年ぐらいになるが、そのMさんが直接、大阪紡績の女工さんから、そういう裏話を聞いたとか。

なんの文字の記録がないから、ほんまかどうか、ちょっとわかりません。わかりませんが紡績工場といっても場所や時代によって、いろいろな労働環境があり、女工の実態があったということでしょう。


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本日はグランキューブ中之島。大阪府高齢者大学の入学式。僕は毎年、まち歩きの講師をしている。

2022 年 4 月 8 日 Comments off

本日はグランキューブ中之島。大阪府高齢者大学の入学式。僕は毎年、まち歩きの講師をしている。

今年も2300名を超える受講生で日本一の社会人大学といわれている。「入学式」があり、その会場がグランキューブ中之島というのも凄い。今年で15年目を迎える。

大阪近郊のシニアのみなさんには一度、オススメします。凄いネットワークです。知人、友人がようさんできまっせ。


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大阪まち歩き大学。西長堀。大阪木材市売市場発祥の地。

2022 年 4 月 8 日 Comments off

大阪まち歩き大学。西長堀。大阪木材市売市場発祥の地。

大阪は材木市場のまちだった。木材は切って、すぐ使えるわけではない。切ったばかりの木材は生木で、まだ木の内部に養分が生きている。生木をそのまま木材として使ってしまうと芽が出たり、成長(膨張)したりして家具が歪む。

切ったあとは乾燥させることで質の良い木材となる。近代は専用の乾燥室などがあるが江戸時代にはそんなものはない。だから水中乾燥という方法が使われた。木材を池や沼地の貯木場に沈めて、そうして木の養分をゆっくりと抜いていく。

水中に入れることで乾燥はゆっくりとなる。切った木材を外に放置していると乾燥が早く割れやすくなる。水中乾燥はその心配がない。ただ木の種類にもよるが長いものは10年20年と寝かしたりするという。

早く乾燥させたいときは海水につける。海は塩水だから浸透圧の関係で木の養分の抜けが真水よりも早い。しかしあまり早く抜けると木の香りなども抜けて木が死んでしまう。

いちばんいいのが真水と海水をブレンドにすること。そして、これが大阪の堀川だった。大阪は満潮や干潮によって時には淀川、大川の水が流れ込み、また時には大阪湾の海水が流れ込む。汽水のエリアで真水と海水が入り混じる。これがじつは木の乾燥にいっちゃん適している。

海水で他よりも早く木の成分が抜け(商品として市場に出るのが早い)、しかし川水で、木の香りなどは保たれる。大阪の堀川は良質な貯木場であり、だから木材市場が立ち、殷賑を極めた。その最大の市場が西長堀川界隈だった。

大阪は位置もよかった。畿内半島には紀州があり、日本最大の木材生産地で大阪は近い。さらに大阪湾は瀬戸内海の東に位置していて、四国や九州の山々の良材も運び込まれた。船でそのまま大阪湾に入り、大阪市中の堀川で貯木された。

僕もこどもの頃は西道頓堀川あたりで木が浮かんでいたのを覚えている。こどもがよく遊んでツルッと滑って川に沈んでしまい、不幸な事故も多かったという。「絶対にこどもは貯木場では遊んでいけない!」というのが決まりだった。それを破ると本気で親や木材屋に殴られたという。

貯木場は近代は大正区に多かった。その後、大正区の貯木場の大部分は埋め立てられ、住之江区あたりに移転した。南港、平林あたりには今も巨大な貯木場が並んでいる。

モノレール越しに貯木場を眺めるのが好きだが正直、あまり木は浮かんでいない。どこか寂しい光景となっている。しかし、それがまた良い。時代の流れというやつだろう。


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新潟市内を歩いていた時に発見した石宮神社

2022 年 4 月 8 日 Comments off

新潟市内を歩いていた時に発見した石宮神社。石が神さん。こういう神社は好きですな。江戸時代の「流作場」というエリアにあったとか。

新潟は文字通り、潟ばかり。すぐ水につく。いろんなものが流れていく。流作場なんてのは名前からして危険。そういう場所にあっても流されない巨石であったのだろう。神の石として崇められる。

また、実は、あえて「流作場」なんて大変な名前をつけることで、しかし年貢を免除してもらう…という意味合いもあったりする。「ここは田畑作ってもダメなんですわ大変なんですわすぐ流されるんですわ(=だから免税地にして)」PR。

荒田とか窪田とか沼田とか泥田とか、なんでそんなダメな地名に?と思いますが、実は、あえて、そういう名前にして免税地、税金免除を狙ったりしたとか。

農民は、庶民は、常に、したたかであります。


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