大阪まち歩き大学。佐渡島留学編。佐渡國一宮。度津神社。
度津と書いて「わたつ」。「わた」は「海」の古語。おそらくは海神(わたつみ)が訛って「わたつ」になったと思われる。佐渡島は島ですから一宮が海神を祀る宮であるのは当然といえる。
ただ御祭神は興味深いことに五十猛尊(イソタケル)とか。イザナギ、イザナミの孫、スサノオの子で、航海の神でもあるが基本的には林業の神として祀られる。いろんな樹木の種子を天界から齎し、スサノオと一緒に新羅に渡りますが風土が合わない。日本に土の船で渡って(だから航海の神でもある)、あちらこちらに植林を行い、それで日本国中を緑豊かな風土にした。
上方では林業の盛んな和歌山で有名で、あちらこちらに祀られている神さまというイメージだが、佐渡島一宮の御祭神なのは色々と気になるお話。
ただ佐渡といえば金山だが金の精錬には当然、大量の薪、木炭が必要となる。豊かな森林資源があるから金山経営も成立する。佐渡島、金山の繁栄は植林の神・五十猛尊のおかげともいえる。
大阪まち歩き大学。佐渡島留学編。草刈神社。
草刈神社は佐渡國一宮の度津神社の直ぐ近くにある。かつてはこの辺りに草刈村という村があり、その氏神であったらしい。江戸時代には「八王子牛頭天王」「祇園羽茂神社」と呼ばれていたと説明書きに書かれてあった。
この神社で有名なのが6月15日の羽茂まつりで奉納される「鬼舞つぶろさし」(県の無形民俗文化財)とか。
「つぶろ」とは夕顔(細長いウリ)の中をくり抜き、そこに種子を入れたもので、これをヒョットコ面をかぶった男性が股間にあてて振り回し、オカメ面をかぶった「ささらすり」(女性役)のおかげ(?)で種子をばら撒く…という実にわかりやすく子孫繁栄、五穀豊穣を祈願する性の祭礼です。ググったらいっぱい画像、動画が出てきますw
なんでも文禄時代(1592〜1595)に榊原藤七という人物が京都の祇園祭で習得して持ち帰ったそうで、しかし現在の京都の祇園祭には「つぶろさし」なんて影の形もない。ぜひとも先祖帰り、祖国凱旋で京都のまちなかで「つぶろさし」をやって欲しいなあ。
茅葺の能舞台もあって、これも素晴らしい。佐渡島は世阿弥が流された。その影響もあってか、あちらこちらの集落に、いまだに能舞台がある。陸続きの本州とは違って島はどうしても新しい文化、文明の伝播は遅い。なかなか入ってこない。能楽という「ニューメディア」がいまだに佐渡島では現役で世阿弥の息吹が感じられる。これもまた凄い。
草刈神社の拝殿の裏には夫婦和合を意味する連理の木もあった。榊は佐渡島では自生しないという。榊は神道の儀式には欠かせない。御神木として植えられたものが育ったということか?
この連理の木や「つぶろさし」の祭礼もあるので草刈神社は縁結びの神さまとして信仰をあつめているという。そんな神社であるが能舞台では「道成寺」をやるらしく、ちゃんと釣鐘の舞台装置がついているらしいw
夫婦和合の「連理の木」と元祖ストーカー殺人事件の「安珍と清姫」。なかなか皮肉というかカウンターが効いていてよろしい。
大阪まち歩き大学。佐渡島留学編。佐渡汽船カレー。イカのスパイスキーマカレー。
お土産としてフェリーで売られていたが、これ、レトルトでカレールーだけの販売。肝心要の「佐渡島(ご飯)」は自分で作らないといけない。
逆にいうと自分で「佐渡島(ご飯)」を作れば、別にどんなレトルトのカレーでもOKではないか?という疑問が生まれてくる…。
本日は比叡山へ。
去年の春、父から突然「比叡山に行きたいから連れて行ってほしい」といわれた。父はあまり宗教的なことに興味関心がない人間だから、こういう要望は珍しい。「なんで比叡山に?」と思いつつも連れていくと約束していた。今にして思うと父なりに何か死期を悟る…というようなことがあったのかも知れない。
しかしコロナの影響や僕の仕事の都合もあって予定がなかなか決められず、結局、11月23日に比叡山に行くことになった。レンタカーの予約もして父も楽しみにしていたが、その直前の11月5日に父は倒れて意識不明の重体に。比叡山に行く予定の11月23日は病院で迎えて、その3日後の11月26日に父は往生した。
父の葬儀、四十九日法要も無事に終え、しかし納骨式は春先まで伸ばした。なんせ比叡山の冬は寒い。春になるのを待って「比叡山に連れていく」という父との約束を果たそうと考えた。それで4月2日の今日、父の遺骨を抱えながら比叡山をお参りした。
ええ天気でよかった。次は納骨式。
父は僕に「比叡山に連れて行ってほしい」と遺言(遺言というほど大袈裟なものではないが…)をして、僕もそのつもりで動いていたのだが、母はなぜか「お父さんは琵琶湖に連れて行ってほしいといっていた」と比叡山から琵琶湖に遺言の中身が変わっていた。
母は父が亡くなってから混乱気味で、歳も歳だから認知症もあり、記憶が勝手に書き換えられる。「別に母の気が済むならいいか…」と比叡山から足を伸ばして琵琶湖の浮御堂もお参りした。
「ああ。これで、お父さんの遺言を果たせた」と母は満足そうだったので、もはや何も言うまい。
【新潟県】阿賀町の風舟にてまち歩きフォトスゴロクの研修。
阿賀町を歩き、気になったもの、面白いと思ったもの、興味関心を覚えたものなどをスマホで撮影。3〜5枚ほど選択し、フォトプリントでL判写真にしてプリントアウト。それらを組み合わせて、編集して、まち歩きフォトスゴロクを作る。
…はずだったんですが、なんとフォトプリンターが動かないww 急遽、パワポに画像データを貼り付けて印刷して何とか事なきを得る。
同じまち、同じ道を歩いていても、それぞれ見ているもの、感じるもの、撮影するものは全然違う。僕も現地を歩きましたが「え?そんなんあった?」というものがワンサカでてくる。自分のまちの見方、認識が、如何に視野狭窄で、単眼的であることか…と思い知らされる。
まち歩きフォトスゴロクを作って最後はみんなで遊んでみる。これがまた面白い。大事なのは遊び心。遊びだから人は夢中になり、本気になり、熱狂する。
地域おこし協力隊のみなさんと一緒にやりましたが、やり方をレクチャーしたので、今度は阿賀町の高校生たちと一緒にまち歩きフォトスゴロクをやって見るとのこと。ぜひともやってほしい。いろんな発見があるはずです。たぶんw
新潟県。阿賀町。まち歩きフォトスゴロクの研修。大阪屋。
和菓子屋である。店の名物「万代太鼓」(美味しゅうございました)を買いながら「ぼく、大阪からきましてん」と店の方に話しかけてみたら、いろいろと店の成り立ちについてお教え頂いた。
初代の岡嘉平は彦根藩領・近江国犬上郡石畑村(滋賀県犬上郡豊郷町石畑)の生まれで大阪に出て菓子修行を行った。その後、新潟に移り住み、「浪花堂大阪屋」と号して安政5年(1858)に菓子屋を開いたという。腕がよかったのかあっというまに繁盛して、いろんなファンがついたようだ。店の看板は會津八一(別名・渾斎)の揮毫というから凄い。
大阪屋という店名の和菓子は青森県弘前市にもある。聞けば特に新潟の大阪屋と青森の大阪屋は関係ないらしい。「青森にも大阪屋があるのですか?」と逆に質問されたw
弘前の大阪屋の「冬夏」という和菓子は淡い、儚げな味で、じつに絶品だった。弘前の大阪屋の創業者は、じつは豊臣方の人物らしく大坂の陣で敗北し、縁故を頼りながら弘前まで逃げ、そして和菓子屋を開いたという。だから「冬夏」というのは大坂の「冬の陣」「夏の陣」から来ていると聞いた。
弘前の人たちは秀吉贔屓、豊臣贔屓(?)のようなところがある。というのも弘前藩の初代藩主の津軽為信は、かつては南部氏の部下で、しかし南部氏を裏切り、独立した成り上がり者だった。南部氏から何かにつけて目の敵にされていたが、その為信を大名として認めたのが秀吉だった。その御恩を為信は一生、忘れなかった。
秀吉死後、豊臣政権は滅亡し、為信も江戸幕府、家康に帰順するが弘前城の「館神」という神社に密かに秀吉の木像を安置していた。「館神」は「開かずの宮」で江戸時代を通じて中に何があるか?は秘密であったが明治になって開けてみると秀吉像が発見された。幕府に見つかったら改易されるような危険な行為だが、それほど為信は秀吉贔屓、豊臣ファン(?)であったらしい。
弘前には、だから結構、豊臣の残党、逃げてきた人がいるという。その中に弘前の大阪屋の創業者もいたということだろう。
新潟の大阪屋を見た時に「もしかして豊臣方の残党…?」とか一瞬、思って、それで店の方に聞いてみたんですが、全くそうではなかった。残念w
新潟県。阿賀町。まち歩きフォトスゴロクの研修。よくある聖書配布協力会の看板。
日本仏教会も仏教配布協力会(?)を作ってやればいいのに。
「仏の顔も三度まで」
「馬の耳に念仏」
「知らぬが仏」
「釈迦に説法」
あ。ちゃうわ。これ、ことわざや。
新潟県。阿賀町。まち歩きフォトスゴロクの研修。
津川駅から阿賀野川、きりん橋を越えて集落に向かうと琴平清水という道標を発見した。なんだこれは?と思って向かうと、湧水があった。
水上安全と湊町の繁栄を願って宝暦9年(1759)に御番所の新見半蔵と町代の藤左衛門が琴平大権現を御小屋の琴平山に勧請したという。阿賀野川を行き来する帆船や筏乗衆、船荷の積み下ろしをする丁持衆の喉を潤して、留守にする家族は水を汲み、お供物を添えて琴平大権現に安全祈願をしたとか。
いまも飲めるようで飲んでみましたが柔らかい。阿賀野川の伏流水かな。美味でした。
【新潟県】阿賀町にて。まち歩きフォトスゴロクの研修ということで津川駅から出発で阿賀黎明高校までを歩く。
津川駅を出ると、いきなり阿賀野川ときりん橋が眼前に。集落に向かうには阿賀野川、きりん橋を越えて南に向かう必要がある。これが結構、距離がある。歩きながらなんでこんなに集落まで遠いのか?とぼやいたw
疑問に思って、なんで集落から遠く離れた場所に駅(磐越西線)を作ったのか?と聞いてみたら、じつは阿賀町川の北側に昭和電工(現在は新潟昭和)の工場(最寄駅は津川駅の隣の鹿瀬駅)があったとか。それで昭和電工の従業員、関係者の利便性を考えて駅と線路を川の北側、集落から遠く離れた場所に置いたという。集落よりも工場最優先だったということらしい。
実際に昭和電工は1950年代の最盛期には2000名を超える労働者がいたとか。阿賀町に合併する前の津川町の人口は約5000名(2005年)、鹿瀬町は約2000名(2005年)という統計データがあったから昭和電工の労働者が町に与えた経済効果は凄まじいものがあっただろう。
企業城下町の歴史。その記憶を留めているのが、この駅と集落の微妙な距離といえるw