大阪まち歩き大学。玉造。この手の古い町地図の看板が大好きで見つけるたびに眺めてしまう。撮影してしまう。
「玉造一二三振興町会案内板」は名作(?)で「中島らも事務所」や「2008年オリンピックを大阪に」が時代を感じさせる。
らもさんは事務所前にあった玉造稲荷神社によくお参りして演劇公演の無事を祈願したそうな。ホラー演劇、怖い演劇をやっていたので祟られないように…とお祓いをうけたりしていたという。
らもさんがホラー演劇を作った理由というのが面白い。最初は演劇でコメディをやっていたがウケすぎて観客が何をしても笑う状態になってしまった。役者が舞台に出てきたら、もうそれだけで笑いが起こる。作品の良し悪しなんて関係ない。これではらもさんは面白くない。それでいきなりホラーを作った。観客は最初、いつものようにコメディと思って笑っているが、だんだんストーリーが怖くなってくる。ついに観客は「何これ怖いー!」と叫びだしたとか。可哀想にw
らもさんはそんな観客の混乱を見て、ほくそ笑んでいたらしい。悪人やなぁw
【スコラボ】小学生向けオンライン少人数ライブ授業の「スコラボ」さんからのご依頼で、オンラインまわしよみ新聞の講師をやっています。昨日、参加してくれた生徒さんからのレビュー。
「小学5年生 いつもは終わったら終わり!と切り替えの良い娘ですが、終わってからもずっと新聞を読んで、資料をまとめていました。先生とのやりとりが楽しかったそうです。普段、新聞には見向きもしないのでびっくりしました。」
普段、僕は全く小学生と話することがなく、正直、いろいろと試行錯誤をしているのですが、それなりに生徒さんたちには楽しんでもらえているようで嬉しい限り。新聞の面白さ、みんなと一緒に語り合う楽しさ、自分の世界観を広げる大事さに気づいてくれたら何よりです。
スコラボ、僕の授業以外にも、面白そうな授業がてんこもりです。僕がうけたいぐらいw 小学生のみなさんにオススメです!ぜひ受講してみてくださいm(_ _)m
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■スコラボ
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■めざせ大スクープ!ニュース探偵クラブ
新聞をみんなで読めば、楽しく盛り上がれる!「まわしよみ新聞」をみんなでつくりましょう!新聞をみんなで読むことには、「自分の世界を広げる可能性」と「みんなでまわしよむことの可能性」を秘めています。このクラスでは、新聞を読むことを通して他者とのコミュニケーション、自分の知らない新たな発見を学んでいきます。
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大阪まち歩き大学。森ノ宮。なにわレース鳩センターさん。
ハト(河原鳩、土鳩)の帰巣本能というのは凄い。その性質を利用して生まれたのが伝書鳩。古代エジプトでも伝書鳩の記録があるそうなので、なんと5000年前からハトは伝書鳩として家畜化されていたことになる。
日本では江戸時代、大坂の堂島米市場の商人たちが伝書鳩を使っていた。日本全国各地の天気や天災、政変、事件などの情報を入手し、それを元に米相場で帳簿米(米の権利)売ったり買ったりを繰り返した。「情報こそが金になる」という金融資本主義の起こりといえる。
近代に入ってからは朝日新聞が他社よりも先んじてスクープを出すために伝書鳩を使ったという。まだ当時は電信や電報、電話といった通信網が日本全国各地になかった。だから事件の現場から伝書鳩を飛ばす方が早い。
その後、帝國陸軍など軍部も伝書鳩を研究して戦争の状況、最前線の様子を知らせるのに伝書鳩の有効性が認められ、実際に使われるようになった。「軍鳩」といわれて太平洋戦争でもいろいろと活躍している。近代戦争というのは総力戦。使えるものはなんでも使う。軍鳩、軍馬、軍犬と人間以外の動物も戦場に駆り出された。
戦後は一転、平和の象徴として鳩が使われ出し、特に1964年の東京オリンピックで聖火台に火が灯されると同時に大量の鳩が一斉に放たれる…という有名な開会式セレモニーで鳩飼育ブームがやってきた。
若者たちが鳩を飼い、育て、伝書鳩レースに自慢のマイ鳩(?)を出して熱い戦いを繰り広げたという。今でも伝書鳩レースに熱い情熱を注いでいる愛好家の方は少なくない。『愛鳩の友』という雑誌も出ている。読むと熱い。パッションが迸っている。
なにわレース鳩センターさんは、今も活動しておられるのがどうかはわからないが(ずっと昔から何度かまち歩きでご紹介しているが人がいるのを見たことがない。ひっそりしている)、屋上に鳩小屋らしきものが見える。いっぺん話を伺ってみたいものだが…。
ちなみに最近の伝書鳩レースは大変だという。伝書鳩の帰巣本能が狂っていてレースをしても帰ってこない。迷子になったりしてレースが成立しない。全滅したりしている。なぜか?世界中、どこでもケータイやら通信やらの電磁波が飛び交っている。それが伝書鳩を狂わせているという説があるが、よくわからない。
迷子になった伝書鳩は郵パックで送られてくるとか。佐川急便とかクロネコヤマトはペットの輸送ができないので郵パックのみ。伝書鳩を始める方は、ご注意を。
基地にしろカジノにしろ軟弱地盤で工事が終わらん。延々と費用が掛かり、だから業者は儲かる。つまり軟弱地盤であればあるほどいい。それを公金でやる。悪徳ここに極まれり。
大阪まち歩き大学。四天王寺。庚申堂。「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿さんがかわいい。
庚申信仰はルーツとしては道教ゆかりの信仰という。四天王寺は聖徳太子建立の日本最古の官寺ではあるが当時の大陸文化は仏教のみならず道教、儒教なども含めて渾然一体となっていて、それがそのまま受容されたようなところがある。日本最初の庚申尊出現の地である四天王寺庚申堂などは、まさしく、その証左といえるだろう。
庚申信仰は日本の農村部で盛んであったという。いまは四天王寺は大阪市のど真ん中、都市の中枢のようであるが、かつては四天王寺界隈から南は都市の外れであり、四天王寺村(農村)今宮村(漁村)の集落があった。
いまでも四天王寺では正月の結願の仏事として「どやどや」という奇祭があるが、これなどもルーツは四天王寺村の若衆と今宮村の若衆の豊作祈願、豊漁祈願の祭礼であった。裸となった若衆が四天王寺六時堂から降り注ぐお札を取り合い、奪い合い、より多くとった村が勝つ(豊作、豊漁になる)というものだった。
庚申日は60日に1日訪れる。人間の体の中に巣食う三尸(3匹の虫。これが人間の行いを見て、聞いて、話をする)が就寝中に天界に行き、寄生している人間の過去60日間の罪業について天帝に報告する。その罪業によって天帝がその人間の寿命を決める。だから庚申日には男衆、女衆が集まり、徹夜でドンチャン騒ぎをする。そうすると三尸は天帝に報告ができないので寿命が縮まることはない。
人間は必ず罪科を犯す。ウソをつき、ズルをして人を騙して悪事を働く。だから、それを報告させないために徹夜で遊ぶ。
「罪科を治そうとする」とか「善人になろうとする」とか「悔い改めようとする」とかではなくて「悪事がバレなきゃええねん」という、いかにも性悪説的ではあるが、ある一面の人間の心理、本質を突いた庚申信仰は、じつにオトナな処世術(?)でありますw
悪事をばらさせないために徹夜でドンチャン騒ぎをしようという開き直ったというか悪事に悪事を重ねてる感じが、これまたいいw
また一応、庚申の日には若い男女が集まるが「そういうことはしてはいけない」というルールになっていたらしい。しかし、若い男女が夜通し一緒にいたら、そんなの守るわけがない。実際に江戸時代の狂歌にこんなのがある。
「庚申は せざるを入れて 四猿なり」
庚申は「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿だが、みんなそんな信仰のことなんかほっぽり出してナンパして口説いて、そういうことをする。なのでそういうことを「せざる」(=してはならない)というルール決めがあり、三猿から四猿になる。
四猿(せざる)というルールを作らないかんぐらい、そういうことが行われていたということです。
庚申信仰、ええなあ。素晴らしいなあw
大阪まち歩き大学。尼崎で発見した「三城同盟参城キャンペーン」。大阪城と尼崎城と岸和田城で連携しているらしい。
https://www.osakacastlepark.jp/sanjou/
うーむ。惜しい。江戸時代の大阪湾には、あともうひとつ淡路島に洲本城があった。ここは西日本最大級の水軍城といわれ、脇坂安治が築いた貴重な「登り石垣」が残っている。上の山城と下の平城とふたつの城を石垣で結びつけたものでまさに難攻不落の名城であった。
洲本城〜尼崎城〜岸和田城で大阪城を取り囲む。トライアングル(三角、三城)ではなくてスクウェア(四角、四城)で西国大名(仮想敵は毛利、島津であろう)に備えていた。そういう観点からみないと瀬戸内、大阪湾の海防は理解できまへん。
いずれ洲本城も、ぜひともキャンペーンに入れてほしいなあ。素晴らしい城やのになあ。
ついに夢の対決である。新旧大阪万博デスマッチ。万博怪獣エキスポラ(手塚治虫作)と死闘を繰り広げる日も近い。
今年度、堺サンドイッチキャンパスの「地形を楽しむウォーキング教室」で講師を務めました。フォトスゴロクを使って、堺のまち歩きスゴロクを作成し、それが堺市立中央図書館で掲示されています。4/22まで。
受講生のみなさんでルートを決め、歩き、写真を撮影し、編集して作成しました。素晴らしいまち歩きスゴロクです。堺のみなさん、ぜひとも見に行ってみてください~^^
大阪まち歩き大学。東成区。さつき児童公園にて。清水太一郎之碑。三三の記念碑。
清水太一郎は明治32年(1899)に大今里村に生まれて33歳で大阪市議に初当選。以来8回連続当選して昭和42年(1967)の引退まで33年間の長きにわたって大阪市政に尽力した。昭和27年(1952)には第47代目大阪市議会議長なども務めた。
「三三の記念碑」というのは「33歳」から「33年間」務めた市議人生の感慨を込めて名づけたのだろう。もしかしたら「散々(33)な目に遭いながらも市議会で闘い続けてきた」というような含みもあるのかも知らない。
面白いというか首を傾げるのが石碑に「王将」「大阪讃歌」という詩?ポエム?のようなものが刻まれていること。「ネオンサインや地下鉄よ伸びよ栄えよ商工の街」「三十星霜浪速の地につくす誠」「命がけでも俺はやる」とか妙にフレーズが時代がかっていて香ばしい。
清水太一郎氏のキャラがなんとなく伝わってきますな。「王将」やったんでしょう。地域のボス感を感じる。
大阪市内では市長では池上四郎、関一、府知事では西村捨三、林市蔵の銅像などがある。市議員の業績を讃える顕彰碑は少ない。あまり見られない。そういう意味では貴重なものかも知れない。
大阪万博2025年よりも紀元2700年大祭の2040年の方がいろいろとアレな気がしている。18年後。狂うやろうなあ。日本。