いわきのカオスモス

2025 年 10 月 16 日 Comments off

【いわき時空散走】いわきでリサーチしていると驚くのが「あちらは泉藩だから」「あそこは笠間藩だから」と藩領で話をする古老、長老がそれなりに、ごろごろ、いはることw

日本も近代国民国家を始めて150年ぐらいになりますが、なんせ幕藩体制時代は270年続きましたから。まだまだ土地や共同体や人の意識、無意識に、幕藩体制時代の名残り、影響、作用は強くあるようです。

いわき市誕生の「14市町村(5市4町5村)合併」も凄いんですが、また幕藩体制時代のいわきがこれまた複雑怪奇で。幕末時では平藩、湯長屋藩、泉藩、幕府領(小名浜領)、棚倉藩、笠間藩、多古藩、飯野八幡宮領、旧窪田藩領などがあったことが資料で確認できます。

仙台藩(伊達)、米沢藩(上杉)、会津藩(松平)、水戸藩(徳川)のような大藩で地域がまとまっていたら話はわかりやすく、それなりに藩の特性、性格、ベクトル、イデオロギー、カラーも統一的になりますが、いわき地方は継ぎ接ぎ、チグハグ、飛び地だらけ。まったく、そこに、統一性など、ないw

東北の藩といえば戊辰戦争の悲劇で「そうだオレたちには奥羽列藩同盟の固い絆があるじゃないか」と思うんですが、これがまたいわきの場合はグラデーションがありまして…。笠間藩なんかは新政府軍側についておりますし、小名浜領民(幕府領で幕府は遠いので結構、地元民の自由裁量があったようです)は新政府軍を手引きした…というような話もあります。結局、まとまらないw

もともと戦国時代にいわき地方を収めた岩城氏という中世からの豪族がいるんですが、この岩城氏があまり強権的な武家ではなかったようです。どちらかというと小競り合いをして、テキトーなところで手打ちして、外交やら政略結婚(伊達や佐竹とも親戚です)やらで地域を取りまとめていった。合従連衡的に地域の豪族たちが繋がって、それでいわきをまとめたというような調整型で、交渉型で、賢い武家ともいえます。

だから江戸時代にも、いわきには大藩がなかった。大体、戦国時代の地方覇者が、江戸時代の幕藩体制下となると外様の大藩の支配者となりますから。岩城氏(関ヶ原で日和見して家康から領地没収されたんですが…)は伊達氏や佐竹氏、上杉氏のような巨大な権力者ではなかった。

中世の岩城氏の分権的統治。近世の小藩乱立。近代の14市町村。いわきは、いつの時代も、基本的に、バラバラであったといえますw

いわき時空散走は、いわきの百花繚乱の文化、歴史、物語を伝えるものですが、そのマトリックスは、たぶん、これです。強い巨大な権力が、あまり、この地には君臨しなかった。それがゆえの、いわきのカオスモス。自由。


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来年2026年のいわき市は市制60周年

2025 年 10 月 16 日 Comments off

【いわき時空散走】1966年、いわき地域の14市町村(5市4町5村)合併。これでいわき市は日本一広い市(合併当時)となった。

「新産業都市を作る」という国主導の地方行政改革のプロジェクトで誕生したんですが、よくみると郡境(双葉郡)を越えて合併していたりもする。時代ですなあ。とんでもない規模の合併やな…と思いますが、このカオスモスぶりが、いわきの面白さ。醍醐味。凄さ。

いわき時空散走は日本初のコミュニティ・サイクル・ツーリズムで、それぞれのコミュニティ(地域、まち、集落)の歴史、文化、物語を伝えようとするプロジェクトです。そのために、いわき市内30ヵ所で時空散走マップを作成しようと動いています。

来年2026年のいわき市は市制60周年。いわき時空散走のような全史的な取り組みが誕生して、それぞれのエリアのみなさんに、めちゃくちゃ好意的に受けとめられているのは、非常に興味深いことではないでしょうか?


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地方の衰弱こそが日本の衰弱

2025 年 10 月 5 日 Comments off

ニッシーのご案内とご紹介で阿賀町役場にいき、いわき時空散走と歌垣風呂について説明。その後、新潟市役所も訪問して、まちなか観光の担当者の方に、いわき時空散走について話をする。ありがたいことに反響は良かったと思います。嬉しい( ´ ▽ ` )

福島も新潟もやたらめったら広い。広いからどうしても車社会になってしまう(いわき市は日本の中核市の中で最も自動車依存率が高い都市です)。しかし時速50キロ、60キロみたいなスピードで車移動をしていたら地域、地元、ふるさと、コミュニティなんかまったく見えてこない。わからない。何も知らない。それで「自分のまちには何もない」なんてことを平気でいってしまう。

まちの歴史、文化、物語、魅力に触れないから愛郷心が寛容されず、「地方には何もない」なんていう哀しい若者になり、だから都会に出ると、自分のふるさとに帰ってこない。車社会の弊害、悪影響は地方都市の人口流出の問題なんかにも繋がっています。

こういう地方都市の車社会偏重、重症的な車依存の構造から脱却するためのツール、手段として自転車(電動自転車)という交通インフラの整備と普及は必須、当然であるし、「地方都市×自転車」という組み合わせは、時代の要請もあれば、地方都市再生のキッカケ、一助になると僕個人は思ってます。

地方の衰弱こそが日本の衰弱です。なぜ僕がいわきやえびので時空散走、自転車観光、コミュニティ・サイクル・ツーリズムをやるのか?というのも、そうした社会課題への挑戦です。


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大阪でのまち歩きは、もはや僕なりのレジスタンス、引かれ者の小唄、滅びの美学であります

2025 年 10 月 5 日 Comments off

ずっともうかれこれ18年ぐらい僕は大阪で「大阪の人が大阪のまちを歩く、楽しむ、遊ぶまち歩き、地産地消の観光、内需の観光、コミュニティ・ツーリズムをやりましょう!」といって実際に実践もしてきましたが、維新政治でコミュニティ・ツーリズムのプロジェクト(大阪あそ歩は観光庁長官表彰も受賞して、大阪は日本でも有数のコミュニティ・ツーリズムの都市になる可能性はあったのに…)は予算ゼロになって僕はめでたく卒業(失職だけどw)になったし、その後、大阪市政は完全にインバウンド観光に振り切ってカジノ万博を開催して、もうまちなか、道頓堀なんかにはほんまに日本人がいない。歩いていない。インバウンド客だらけで道頓堀はジェントリフィケーションの問題がおこり(松竹座閉館もその流れやないですかね?)、オーバーツーリズム、観光公害の実態や危険性にようやく少し気づき始めて「あれ?これ?まずくない?」というのが一般の方々にも周知、認知されるようになってきた…かな?まだ、この外資依存、外需頼みの路線、続けますか?日本の内需やら地産地消を成長、促進させる方向に社会を、経済を、産業を転換しませんか?

まあ、僕は、愚直に、実直に、淡々と、大阪で、まち歩きし続けますよ。大阪でのまち歩きは、もはや僕なりのレジスタンス、引かれ者の小唄、滅びの美学であります。

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インバウンド政策に市民の怒り「自国民は置き去り」「効果感じられず」 経済専門家が「観光立国は無理」とする決定的理由(AERA DIGITAL)

https://news.yahoo.co.jp/articles/6e257f40b8bb2d3a17422f0e997cc5dbd8a1bc63


https://news.yahoo.co.jp/articles/6e257f40b8bb2d3a17422f0e997cc5dbd8a1bc63

■「観光立国」は成り立たず

経済のプロはどう見ているのか。作家で社会的金融教育家の田内学さんはこう指摘する。

「経済の視点から見て、観光立国は成り立ちません」

なぜなのか。そのボトルネックは「人手不足」だという。

背景から見ていこう。日本は衣食住に欠くことのできない資源の多くを輸入に頼っている。エネルギー自給率は15.3%(2023年度)。食料自給率(カロリーベース)も38%(同)にすぎない。

「外国からエネルギーや食料を購入するためには外貨が必要です。では、どうやって外貨を稼ぐのか」(田内さん)

■観光産業には「労働力」が必要

現在、日本は資源エネルギーの輸入にかかる約24兆円の大半を、自動車の輸出(約20兆円)で賄っている。一方、家電メーカーは衰退し、稼ぎ頭だった家電や電子機器の輸出は世界でシェア争いに敗れ、低迷している。

さらに少子化が進み、どの業界も慢性的な人手不足だ。できるだけ少ない人数で、効率よく外貨を獲得する必要があるが、観光産業は労働集約型で、人間の労働力を多く必要とする。

「観光産業が大きくなれば、さらに人的リソースが必要になり、人手不足がさらに深刻化します。すでに観光産業に人材を吸収されて、観光地では介護などの分野でサービスが受けられないことが起きています。別の方法で外貨を稼がないと生活基盤が支えられなくなる」(同)

■日本経済は成長するどころかしぼむ

日本は資源エネルギーだけでなく、デジタルサービスも海外から購入し、貿易サービス収支は慢性的な赤字になっている。

「人手が足りない中で、外貨を効率よく稼ぐには先端技術に力を入れる必要がある。もちろん観光産業での外貨獲得も必要だが、それで“立国”するのは無理がある。日本経済は成長するどころか、しぼんでしまうでしょう」(同)

状況は厳しい。いま、世界を席巻するのは、グーグルやアマゾンのようなプラットフォーム企業で、少ない人数で多額の外貨を得るビジネスモデルの典型だ。

「寡占状態のプラットフォームビジネスにこれから打って出て、収益を上げるのは困難でしょう。だからといって『観光立国』という戦略は根本的に間違っている」(同)

■人手不足の実感が政治家に希薄

なぜ、日本は観光立国に突き進もうとしているのか。

「数十年も前の人が余っていた時代に慣れてしまい、『人手不足』の時代にいるという実感が政治家にはないのでしょう。かつての前提条件で思考する人は、専門家も含めて少なくないと感じています」(同)

田内さんはこう総括する。

「観光立国で、確かに一部の産業に『光』はあるとはいえます。それ以上に『影』が濃いのです」

国民は「観光立国」が落とす深い影を、肌身で実感している。


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ソフト的な「型(エトス)作り」

2025 年 10 月 5 日 Comments off

次から次に「場」(トポス)を作る人はいるが維持が大変で。僕はハード的な場作りではなくソフト的な「型(エトス)作り」を考えた。それがまわしよみ新聞などの一連のコモンズ・デザインです。多種多様な人的交流を促すコミュニケーション・ツール(型)が「場」を活性化させる。


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社会全体に、学びのキャパシティが担保されていない

2025 年 10 月 5 日 Comments off

日本経済新聞から。日本人は中学、高校までは世界的にも知的レベルは高いらしい。しかし大学で停滞し、社会人になると、どんどんと知的レベルが世界水準よりも低下していくという。

どうも日本人の大多数は社会に出ると…会社で働いたり、家庭を持ったりすると、途端に仕事や生活、子育て、親の介護などに追われてしまい、学びの機会がなくなる。また会社側や社会側も多くの社会人に対して、そうしたリスキニングやリカレントの機会や場、時間を提供、準備、用意していない。

以下は僕の実感で、この記事にはないんですが、実は会社をリタイヤしてから、子育てが一段落してから、シニア世代になってから、また学びだす人は多い気がしています。

実際に僕は生涯学習、カルチャーセンター、市民大学系の仕事をあちらこちらでしていますが、30代〜50代の人は、まあ、ほぼ、来ない。ゼロに等しいです。その代わり60代以上のシニア世代はめちゃくちゃ多い。70代80代、なかには90代でも参加という方もいる。

そういったシニア世代の「学び直し」への意欲の高まりには正直、驚かされます。めちゃくちゃ学習、勉強をすることに熱心で、興味関心が高く、僕も講師をやっていて、自然と力が入る。講義を受ける側が前向きだから、僕も手を抜けない。本気になります。だから面白い。

ただ、シニア世代の、そのちょっと「異様」なまでの学習意欲の高まりの背景、裏側には、ある種の「渇望感」「飢餓感」を感じたりもします。つまり人生の最盛期、キャリアピークである30代〜50代(古代インド人がいうところの「家住期」)に「学びの時間を持てなかった」「学びを奪われてきた」という後悔や欠落を感じるんですな。

海外の市民講座や生涯学習、カルチャーセンターは30代〜50代の現役世代が大半なんだとか。そうやってリスキニングやリカレント、学び直しの時間があることで自分の人生設計も自然と変容していく。

自分の中に新たな才能や得意分野を発見して、それをさらに追求したり、研鑽を積むことが可能となる。そこから学問的、アカデミックな業績に繋がったり、社会的な活動を始めて、副業や転職、起業したりなんてことも往々にしてあるとか。

大体、10代20代で、自分の将来、仕事や職業を規定するなんて、あまりにも無謀すぎまっせ。それが自分の性質、性格、特性、パーソナリティと合致しているなんてわからないし、むしろ不一致であることの方が多いでしょう。

そういったさいにもう一度、「学び直し」ができる環境、再チャレンジが許容される状況にあることが、どれだけ社会的に有用で、大切であることか。

日本人のシニア世代の学習意欲の高まりは素晴らしいことですが、惜しむらくは、学んだことを、なかなか社会的な活動や貢献に繋がることは難しいということです。体力的に、健康的に、年齢的に、どうしてもそうなります。

基本的に、だから、シニア世代の学び直しは、どうしても「余暇的な学び直し」「趣味的な学び直し」になってしまう。それがダメというわけではないんですが、もっと早くに、50代に、40代に、30代に、生涯学習やカルチャーセンター、市民大学などに参加していれば、人生にまた違う彩りが、豊かさが生まれていたかもしれない。

シニア世代の受講生が、みんな口癖のように「もっと早くに学びたかった」とほんまにいうんですよ。みなさんも惜しいんですな。「しまった!」と思っている。僕もそう思います。早くに受講の機会があれば、いろいろと可能性があったかもしれない。実に惜しい。

30代や社会人になってから、学び直しの機会がないこと。リスキニングやリカレントに参加する社会人が圧倒的に少ないこと。これは日本社会全体の教育システム不全であり、重大な社会的損失です。

人生は常に学び続けないといけない。学びを辞めてはいけない。生きるということは、常に学ぶということです。学びを辞めては、止めては人生が、社会が停滞する。

学びの機会がないわけではないと思うんですよ。実は、そういったリスキニング、リカレントの場や機会自体は、いろいろと行政や民間会社によって提供されてはいる。いちょうカレッジとかいずみ市民大学とかよみうりカルチャーとか毎日文化センターとか、いろいろあります。全部、僕が講師してるところですがw

そこに参加する人がシニア世代ばかりで偏ってしまっている。30代〜50代の現役世代がどうしても少ない。いろいろと生活やら暮らしで忙しいというのはわかりますが、やっぱり、これ、勿体ないことです。

社会全体に、学びのキャパシティが担保されていない。かなり憂慮すべき現代日本社会の事態ではないかと思います。いや、ほんまに。

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◾️ 日本人の知力、24歳で頭打ち 「学べぬ大人」手薄な支援

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE054IG0V01C24A2000000/


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【学事出版】『読書活動・探究学習を支援する 学校図書館を活用した楽しい読書ワーク』

2025 年 8 月 7 日 Comments off

【学事出版】新刊『読書活動・探究学習を支援する 学校図書館を活用した楽しい読書ワーク』(木下通子編著)を木下さんよりご恵贈いただきました。ありがとうございます!

興味深い読書ワークがいろいろと収録されていますが、その中に「まわしよみ新聞」もご紹介されております!うれしいな~^^

教育関係者や図書館関係者のみなさん、ぜひともご購入ください~!m(_ _)m

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■読書活動・探究学習を支援する 学校図書館を活用した楽しい読書ワーク

https://www.gakuji.co.jp/book/b10136442.html


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棄民されたものが、棄民する

2025 年 7 月 19 日 Comments off

「日本人ファースト」の裏側には「自分たちこそ冷遇され、無視され、差別されてきた」というルサンチマン的な憤怒、怨嗟の感情があるのは否めないでしょう。

実際に「日本人ファースト」を支持しているのは40代、50代の世代らしく、この世代は、まさしく就職氷河期で、ずっと苦しめられ、棄民され続けてきた世代です。バブル崩壊後の1993年~2004年頃に就職活動を行った人たちで、全国では約1700万人ほどいるとか。

何十社と面接を受けるが落ち続けて、ようやく就職できたと思ったらブラック企業でパワハラの被害者になったり、非正規労働、派遣労働者になるしか方法がなくて雇用は安定せず、また雇止めやらで正社員にはなれずに、生活は非常に厳しい。精神的な疾患を抱えたり、ひきこもり、自死、自殺なども多い世代です。

僕自身が1978年生まれで「大卒就職率が60%もなかった」という世代ですから。僕は生まれた家がカルト宗教の家で、親・親戚との関係をこじらせていたから、もう中卒で進学などはせずに16歳から働いておりましたが、知人、友人たちは大学までいったのに卒業後40%が最初から派遣労働やアルバイトやったわけで、本当に今では考えられないぐらい酷い状況であったなぁと思います。キャリア形成の第一歩から既に躓いている。僕は、そういう世代の、まさしくド当事者なので、正直、めちゃくちゃ同世代の人間が抱える「生きづらさ」は、肌感覚でわかっているつもりです。

ただ、じつは「世代格差の問題」というのは、その世代の真っ只中にいると、なかなかわからない。自覚できない。なんせ本人としては他の世代を生きたことがないので比較することができないんです。「与えられた土壌の中で咲くしかない」といいますか、「世の中そういうもんなんやろう」という諦観があるわけです。

しかし、どうも自分たちの世代は不遇で、不運で、不当に扱われて搾取され続けてきたらしい…という「世代間格差」問題への自覚が芽生えてきたのは、じつは、ここ数年のことではないかと思います。そして、そういう問題意識を覚醒させたのが、そのキッカケとなった一因が、僕が思うに海外からの観光客、インバウンドという「目に見えて裕福そうな外国人の存在」ではないか?と思うんですな。

日本が経済的失政(消費税を上げて法人税を下げる)を繰り返し、わずか30年で坂道を転がり落ちるかのように没落していき、すると外国人から「日本は安い」と大量に海外からインバウンドがやってくるようになった。

それは日本の政治家や官僚、大企業などによる政治操作、経済的失政の影響なんですが、人間というのは、そういう経済やら政治やらというような目に見えないものの問題はなかなか認知できません。それよりも目の前にあって、わかりやすくて認識しやすい存在の問題に先ず飛びつくし、囚われる。

とくに幸福そうで裕福そうで経済的に繁栄を謳歌している中国、韓国、アジアなどから日本に来る「同世代」や「若者たち」を見て、その爆買いの様子なんかを見て、観光地に大量に群がるオーバーツーリズムの状況をみて、就職氷河期世代の40代50代は「なぜ自分たちはこんなに貧しいのか…」と比較してしまったのではないか?

「日本人ファースト」という言葉に共振、共鳴、共感する裏側には「日本は日本人ファーストではない。外国人ファーストである」という被害者意識があります。自分たちの生きづらさの問題、自分たちを追い込んでいる「敵」として、「外国人」が「認知しやすくて、わかりやすい」存在だったのではないか?

他者と比較する人間ってのは、大抵、不幸になります。他者、他人と比べて「上だ」「下だ」とかいって一喜一憂する人間は結局、自分の中に価値判断基準がないんです。自分の存在価値がわからない。アイデンティティをロストしていて、自己肯定感がない。

そういう自己肯定感が少ない人間、ない人間が、大量に溢れかえっているのが現代日本社会ということなんでしょう。それは本人の資質や性格もあるかもしれませんが、やはり置かれてきた環境や社会状況などが影響していると僕は思ってます。それが就職氷河期世代を棄民してきた日本政治、日本社会に対する復讐、報復のマトリックスになっている。

棄民されたものが、棄民する。差別されたものが、差別する。不幸の再生産です。こういう不幸の連鎖を、なんとか断ち切る社会にしないといけない。

排外主義者を生み出すような社会は、結局、どこか歪なんです。その歪さをちゃんと把握し、認識しないと、我々の社会は、よりよいものに、先に進めることはできません。


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■いわき時空散走:「時空散走憲章」大公開!

2025 年 6 月 26 日 Comments off

自分がもし仮に海外旅行するとして同じ国、同じ都市に何度も行くか?というと、おそらく、そうではない。「この前はパリにいったから今度はロンドンにいってみよう!ベルリンにいってみよう!」と別の国、別の都市に行こうと考える。海外からの観光客、インバウンド客というのは、だから結局、ほとんど「一過性の客」でしょう。

コミュニティ・ツーリズムは「地産地消の観光」であり、「内需の観光」です。そのまち、地域、集落、コミュニティに住んでいる人と一緒に巡る。いわき時空散走はいわきの人たちと一緒に自転車でまちを巡っている。

同じコミュニティや隣接したコミュニティに所属している人たちと一緒にまちを巡るもんだから、一度、お知り合いになると、そこから長く関係性が続きやすい。なんせ「近い」ですから。なんかあったらすぐ行ける。リピーターにもなりやすい。

また、いわき時空散走はガイドがいません。サポーターという名の対話のファシリテーターがいて、みんなで、まちの思い出話などを語り合う。ガイドからの一方通行のモノフォニック(一声的)な場ではなくて、みんなで双方向に話をするポリフォニック(多声的)な場となる。

だから、知人になりやすい。友人になりやすい。その関係が深まると、中には、なにか一緒に活動、プロジェクトをやる仲間になったりする。

コミュニティ内に知人、友人を作ろう、仲間を増やしていこうというのが、コミュニティ・ツーリズムをやる意義であり、効果のひとつです。

僕が思うに、一過性のツアー参加者が増えても、ただただ、まちを消費するだけの訪問者を増やしてもしょうがない。あまり意味がない。むしろ、まちが大量の一過性の客に消費され、荒らされ、疲弊、疲労、混乱していくことすら起こりかねない。オーバーツーリズムの問題というのは、そういう「一過性の客」ばかりが増殖し、コントロール不能となったことで発生します。

それよりも、一緒になって、まちに生きる知人、友人、まちのために活動する仲間を作ろう、共にまちを楽しもう…というのがコミュニティ・ツーリズムであり、いわき時空散走です。

ありがたいことに、いわき時空散走はどんどんとサポーターが増え、マップが増え、ツアー参加者が増え、着実に、確実に、知人、友人、仲間、同志のネットワークが広がっているし、深まっているし、盛り上がっていってます。ほんまに嬉しいことです。

また、宮崎県えびの市でもいろんな方とのご縁があって、えびの時空散走の取り組みが始まってます。

時空散走は、自分であれやこれやと考えて、いろいろとプランして、スタートしたんですが「あれ?これ?結構、いろんな地方で使えるし、地方のまちづくりに非常に重要なインフラで、必要ちゃう?」と思ったんですよねぇ。汎用性が高いし。

なので、今回「時空散走憲章」という形で、いわき時空散走サイトでも公開してみました。コミュニティ・サイクル・ツーリズムの理念、思想、哲学、概要、方法論が伝わって、いろんな地方なりの時空散走が始まってくれたらうれしい。始まってほしいなぁと考えています。

■いわき時空散走:「時空散走憲章」大公開!

https://jiku-sanso.jp/report/2025/06/23/978/


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近接性の場のメディア(まわしよみ新聞)

2025 年 6 月 23 日 Comments off

「国民とは同じ新聞を読んでいる人たちである」というのがベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』理論。

かつての新聞は、しかし「場のメディア」「共有のメディア」であったことは忘れてはならない。新聞はコーヒーハウスで、新聞縦覧所で、家庭内で、「回し読まれるメディア」であった。決して「個」だけでは完結しない。

新聞は「顔が見える関係性」の中で、その近接性の中で回し読まれて、共に語り合うメディアであった。新聞そのものは「エクリチュール(文字のメディア)」であるが、実は「パロール(声のメディア)」であったともいえる。「新聞」が「新見」や「新読」でなく「新聞」という表記であることは、新聞が対話、会話のツールであり、「音声メディア」であったことの本質を突いている。

ネットメディアは場ではなく、個で完結し、また匿名的なものが大半です。「顔が見えない関係性」の中で文字のやりとり、応酬が繰り広げられる。そして文字というのは、なかなか情感が伝わらない。

これが声のやりとりならば、その声量や声の高低、声色、声の調子やら息遣い、間といったフィジカルな要素があって、「言外の言」的なニュアンスが相手に伝わったりしますが、ネットメディアでは、それらが削ぎ落とされてしまう。非常に冷淡で、無味乾燥で、人間味がないやり取りに見えてしまう。

ネットメディア上のやりとりの多くが、なんとなく対立的で、対峙的で、闘争的に感じられるのは、メディアとして近接性がなく遠隔性のメディアだからでしょう。

川のあちらとこちらで石を投げ合って、お互いの味方同士で相手のことをバーカバーカといいあっているような、不毛なネットメディアのやりとりが多い気がするのは、このネットメディアの「遠隔性」にあるのではないか?と思います。「近接性の場」がない状態で、人が何かやり取りをしても、なかなかわかりあえることは少ないようです。

まわしよみ新聞は、みんなで場に集まって、新聞を持ち込んで回し読むという、新聞が本来、持っていた「近接性のメディア」としての役割を再現、試してみようという社会実験のデザインです。

遠隔的で個のメディア(ネットメディア)全盛の時代ですが、だからでこそ、近接的で場のメディア(まわしよみ新聞)を体験してみることで、いろいろとメディア特性について感じたり、考えたりすることもあろうかと思います。

そんなことをして一体、何の意味があるの?という疑問もあるかもしれませんが、個人的には、現在のネットメディア時代は個個の対立を拡大、肥大化させて、それが結局、分断政治の温床になっているように感じています。

近接性の場のメディア(まわしよみ新聞)を体験することで、国民(想像の共同体)意識とまではいいませんが、コモンズ(共異体)のようなものは確実に芽生えてきます。分断でなくて共鳴、共振、共感のメディア体験であること。そして、それこそが民主主義の要であり、涵養に繋がるのでは?と僕は思っています。

全国まわしよみ新聞サミットは、7/21(月祝)に横浜・ニュースパーク(日本新聞博物館)さんで実施されます。

まわしよみ新聞未経験者、初心者も大歓迎で、お子さんの参加もOKです。すでに親子、小学生の参加申し込みが何名かあり、小学生新聞などもご用意頂きます。

毎年、日本全国各地から参加者がきて、いろいろとまわしよみ新聞を介して人的交流、知的ネットワークが芽生えています。ぜひともご参加してください!( ´ ▽ ` )


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