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堺探検クラブ「三国ヶ丘まち歩きマップ」イラストと解説文

2007 年 11 月 17 日

三国ヶ丘_01

三国ヶ丘_01

①長尾街道
堺から方違神社、河内国府、二上山などを経て式内社・長尾神社(葛城市)に至ります。古代の大津道の後進とされています。江戸時代には大和街道、奈良道などとも呼ばれました。日本書紀に「天武元年(672)に大海人皇子に味方した大伴吹負軍が高安城を占拠すると翌朝、大津道と丹比道(竹内街道)から大友皇子の軍勢が押し寄せてきた」という記述があります。

②方違神社
社伝では崇神8年(紀元前90)に天皇の勅願で物部大母呂隅足尼を茅渟石津原に遣わして須佐之男神を祀ったのが起源です。201年の忍熊王の乱では、神功皇后が三筒男神の教えで八十平瓮を作って方災除けを行って勝利しました。応神帝に方違大依羅神社と名づけられ、仁徳帝、孝徳帝、空海、平清盛、後鳥羽帝、徳川家康などが敬ったと関連文献にあり、明治元年(1868)の東京遷都では17日間の祈祷を行いました。摂津住吉郡、河内丹治比郡、和泉大鳥郡の境にあるので三国山、三国の衢、三国丘と称され、万葉集にも「三国山 こずえに住まふ むささびの 鳥まつがごと われ待ち痩せむ」と出てきます。どこの国にも属さない聖地で、これが堺(境)の地名の由来ともいわれます。また神功皇后が方違神社南の鈴山という丘に黄金の雞を埋めたので、毎朝、美しい金鈴のような雞声が響き渡ったといい、その故事から幸雞の鈴(土鈴)を授与しています。

③旧天王貯水池
明治43年(1910)に堺初の上水道施設として野口広衛の設計で建設。大阪府下では大阪市(明治28年・1895)に次ぎ、総面積662平方メートル、約6万人の給水を補いました。正面入口は水道先進地の欧州にならって凱旋門風で、内部天井も優美な半円形のヴォールト架構です。貯水槽周囲は盛土で直射日光を遮り、細菌繁殖を防いで水質維持を図りました。また堺は良質な粘土が取れるので優れた瓦職人が数多くいましたが、明治以降は煉瓦職人として活躍、旧天王貯水池の煉瓦も堺産煉瓦が使われていると考えられます。昭和37年(1962)に使用停止。半世紀以上使用され、美しいデザインと優秀な施工技術は建築的価値が高く、平成13年(2001)に国の登録有形文化財に指定されました。

④反正陵古墳(田出井山古墳)
百舌鳥古墳群の北端にあります。墳丘規模は全長約148メートル、後円部径約76メートル、高さ約14メートル、前方部幅約110メートル、高さ約15メートルで、百舌鳥古墳群7番目の大きさです。墳丘は3段に築かれ、出土した埴輪などから、大仙古墳(仁徳陵古墳)より新しい、5世紀後半に造られたと考えられています。一重の盾型周濠がめぐっていますが、かつて二重濠があったことが確認されています。百舌鳥耳原三陵の北陵・反正天皇陵として宮内庁が管理しています。

⑤紅谷庵
大永年間(1521~1527)に堺の豪商・紅屋喜平が建て、牡丹花肖柏(1443~1527)が住んだことがあります。肖柏は室町期の連歌師で名門公家・中院通淳の子です。8歳のとき、無言で勉学する肖柏に「物をもいはで物習ふ人」というと「くちなしの花の色葉はうつすらむ」(くちなしの花は無口=無言、色葉をうつすはイロハを筆写する=勉学するという意味)と返して世間を驚かせた逸話があります。連歌師・宗祇(1421~1502)に師事して後土御門帝の内裏歌合にも参加。当代一流の宮廷文化人でしたが、応仁の乱(1467~1477)で摂津の大広寺(池田市綾羽町)に移り、「三愛記」(花・香・酒の風流記)を記述しました。師・宗祇が没したさいは、誰もが宗祇の秘伝を授かったと称して連歌界が大混乱したので後柏原天皇の勅で肖柏が式目(連歌の作法)を作り、事態を治めました。永正15年(1518)に摂津にも戦乱が及んだので紅谷庵に。河内屋宗訊、下田屋宗柳、坂東屋宗椿といった堺の豪商が集まる一大サロンを形成して、ここから堺伝授(連歌)、堺流(書)といった流派が生まれました。門人に囲まれながら肖柏は「角に金箔を施した牛に乗って往来」(扶桑隠逸伝)「牛の角に蹴鞠を結びつけて人々と蹴鞠を楽しむ」(類聚名物考)といった風雅な生活を送り、84歳で没しました。墓は南宗寺(南旅篭町)にあります。

⑥向泉寺閼伽井跡
聖武天皇勅願で天平(729~749)頃に行基(668~749)が建立した三國山遍照光院向泉寺の跡碑です。万病に効く閼伽井(閼伽とは仏前の供水のこと)が湧き、本堂が井戸(泉)に向っていたから、または寺院が和泉国に向っていたから向泉寺と称しました。王子社、方違社、東原天王社の祭礼の神水にも用いられましたが、永正年間(1504~1520)に兵火に遭い、次第に廃れていき、享保頃(1716~1735)に廃寺となりました。

⑦竹内街道
堺から二上山を越えて奈良・葛城に至ります。日本書紀の推古天皇21年(613)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道を置く」と記される日本最古の官道です。かつては丹比道(丹比野を横断するので)とも、また当麻道(当麻寺に至るので)ともいいました。飛鳥時代には遣隋・遣唐の使節や留学生らが往来するシルクロードで、経由する太子町界隈には聖徳太子廟の叡福寺や用明、推古、孝徳陵、小野妹子墓といった史跡が集積しています。文献上は7世紀に登場しますが百舌鳥古墳群や古市古墳群をつないでいるので古代から人々の往来があったと推測されます。司馬遼太郎は「街道をゆく」の中で「もし文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾-竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定さるべき道であろう」と記しています。

⑧西高野街道
堺から大阪狭山市、河内長野市、紀見峠を経て高野山に至ります。平安後期から参詣道として使用されたと考えられています。江戸時代には堺港と高野山との流通経路として大いに賑わいました。安政4年(1857)に茱萸木村の百姓人・小左衛門と五兵衛が発起して13本の一里塚道標を建立(堺・榎元町の十三里道標石から高野山神谷の一理堂標石まで)、すべて現存しています。また「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界遺産に登録されたのを契機に西高野街道観光キャンペーン協議会が発足。ウォーキングイベントを実施しているほか「西高野街道ウォーキング徹底ガイド」(堺東観光案内所にて販売:1部100円)なども発行して西高野街道の魅力創出に努めています。

⑨榎宝篋印塔
慶安元年 (1648)に僧・夢幻永海が勧進して建立。花崗岩製で高さ約4.39メートルあります。昭和30年(1955)の解体修理で塔内部から宝篋印陀羅尼経、塔建立の趣意書、寄進者の氏名、金額などを記した奉加帳が見つかり、塔を置いたのは道を行き交う多くの人々との良縁を結びたいと記されていました。竹内街道、西高野街道沿いにあり、350年以上の長きに渡って、数多くの旅人たちを見守ってきた歴史の生き証人といえます。

⑩堺東観光案内所
パンフやマップなど堺の観光情報が満載。観光ボランティアも常駐(10:00~16:30 第1月曜日・年末年始除く)で、堺の観光相談にお応えしてくれます。堺市優良観光みやげ品を販売しているほか、1日300円でレンタサイクルも行っています(貸出時には運転免許証など本人確認が必要です)。堺観光の際はぜひお立ち寄り下さい。※住所:堺市堺区中瓦町2-3-24博愛ビル1階/電話番号:072-238-7174/営業時間:9:00~19:00/休館日:年末年始 /駐車場:無し

⑪堺市役所21階展望ロビー・喫茶ミエール
堺市役所最上階にあります。地上80メートル、360度の展望が楽しめる回廊式ロビー(入場料は無料)で、大仙古墳、六甲山、関西国際空港、生駒・金剛山、大阪城などが見渡せます。ゆっくりくつろげる喫茶ミエールもあります。


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