大江戸の火消し(Smoke on the Water:木遣りヴァージョン)

大江戸の火消し(Smoke on the Water:木遣りヴァージョン) 


浄瑠璃、常磐津節によるスモーク・オン・ザ・ウォーターです。

浄瑠璃は中世の傀儡師から発展したもので、傀儡師は神に仕える存在でした。彼らは八百万の神々の言葉を「ことほぐ(言祝ぐ)」ことが求められました。だから浄瑠璃は今でも「語り」といいます。決して「歌う」とはいいません。

それで、この映像を見ていて、少し異様に感じられるのが、どの語りも一様に「無表情」であること。語りだけでなくて、三味も鼓も、みな無表情なので、一種、独特の迫力があります。これは日本の古典芸能の演者たちが、神と音楽は一体であると考えたことに起因します。つまり演者は、ただ、神の言葉を伝える役割(形代=かたしろ)に過ぎないので、そこに演者のヒューマニティ(人間性、感情)というのは求められなかったわけです。演者に求められるのは、ただひたすら「無私」の境地なんですな。

ここで注意してほしいのは「無私」であることは、しかし、決してヒューマニティの否定ではないということ。むしろ、完全なる、あらゆる感情を表現しようとすると、演者は無表情にならざるを得ないということです。人間の持つ感情、喜怒哀楽すべてを表現しようとすると、それは無表情でしかありえない。プラス(陽、正)の感情、マイナス(陰、負)の感情を全部足すとゼロになるのと同じ理屈です。

そういう全的なヒューマニティを表現するものとして、能楽には「中間表情」の能面があります。泣いているのでもない、笑っているのでもない、口を半開きにした、なんともいえない表情の能面です。これは舞台に出ると光線の加減で影になったり、光になったりして、様々な感情表現を可能にします。人間の全的な感情をいっせいに込めると、どうも人間というのは、こうした「中間表情=能面のような顔」になるようです。

西洋美術でいえばダ・ヴィンチの『モナリザ』。その謎の微笑みは、じつは「中間表情」に該当するものです。またピカソなんかは「泣いている横顔」と「笑っている正面」の顔を同時に描きましたが、これもモデルの全的なヒューマニティをなんとか表現しようとして悪戦苦闘してたどり着いた方法論なんでしょう。

ダ・ヴィンチやピカソといった超一流の西洋美術が到達した深奥な芸術表現が、日本の古典芸術の中には、既に当たり前のようにあるということ。それが、いまだに消えずに継承されていることは、我々の矜持です。

【大江戸の火消し(Smoke on the Water)】

俺たちゃ琵琶湖に行った 弁財天詣でさ
夜詰めの当番済まして 湯治も兼ねて
たまには上美女揃えて 杯重ねて
木遣りの声にも磨きを あてて帰ろうか

大江戸の火消し 空もはればれ
大江戸の火消し

琵琶湖じゃ畔の小屋で 芝居をやっていた
ちょいと覗いて行こうか 急ぎの旅でなし
江戸からの旅役者が はるばる来ていた
はだか火使って火が出て 俺たちの出番さ

火事場にゃ火消し 空には火の粉だ
火事場にゃ火消し


2008年 1月 22日
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