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釈迦とマルクス

2009 年 9 月 5 日

釈迦は平等を説きました。当時のカースト制度のインド社会において、それは革命思想であり、理想郷(ユートピア)として庶民に受け入れられました。ところが釈迦の死後、数年たってもカースト制度は滅びなかったんですな。現実は釈迦の思う以上に、冷酷で、強かでした。やがて「釈迦の説いたことは理想郷ではなくて、妄言ではないか?」と懐疑されるようになり、仏教はインド社会から駆逐されて北方に追いやられました。その後、中央アジアを経て、中国、韓国、日本へと渡っていきます。その過程の中で、釈迦の平等という革命思想は変質して、抽象化して、宗教化されていきました。いってみれば妄言が妄信(信仰)に変わったわけです。

同じことは20世紀の共産主義でも起こりました。マルクスは共産主義を説きました。純粋理性でいえば、共産主義には一点の非の打ち所もありません。唯物史観は完全無欠の、素晴らしい理論のように思えます。しかし、人間という存在はみんなマルクスが規定するような純粋理性の存在ではないんですな。もっともっと想像以上に、うろんで、曖昧模糊で、愚かで、テキトーで、カオスで、聖なる存在でした。マルクスの革命思想は妄言となり、これまた妄信となりました。キューバのカストロも北朝鮮の金も、結局、やってることはカルト宗教です。その出汁にマルクスを使っているだけ。

マルクスが説いたことは哲学、思想というよりも、宗教的情熱なんです。共産主義に対する解釈は、ぼくは、それぐらいが丁度いいと思ってます。


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