大阪再発見マガジン 「View OSAKA」(ビューオオサカ)
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu010/magazine/html/culture/culture-01.html
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu010/pdf_data/pdf/2010_22_23.pdf
大阪あそ歩が特集されています。ぜひご覧下さい。
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大阪あそ歩が特集されています。ぜひご覧下さい。
京橋経済新聞さんに取材されました。ありがとうございます!感謝。
http://kyobashi.keizai.biz/headline/747/
大阪市内の各所を地元ガイド付きで巡るイベント「大阪あそ歩」で5月11日、都島のツアー「妖怪『ぬえ』が眠るまち・都島~鬼退治の勇将・渡辺綱伝説から鵺(ぬえ)塚まで~」が開催された。主催は「大阪あそ歩事務局」(大阪市中央区、TEL 06-6282-5930)。
大阪のまちの物語、ドラマ、面白さを知ってもらいたいという目的で昨年秋よりスタートした同イベント。「大阪はまちがほんまにおもしろい!」をキャッチフレーズに、今年の春は105コースのまち歩きを催行する。「105コースということもあって『平成の浪速百景』と銘打って開催。想像以上の人気で、予約率では100%を超えるほど」(大阪あそ歩アシスタントプロデューサー・陸奥賢さん)。
当日は、地下鉄都島駅をスタートし、都島神社、母恩寺、渡辺綱・駒つなぎの楠、都島和菓子・富久屋、なにわ刷毛・河合、鵺塚などを巡った。「羅生門の鬼退治で有名な勇将・渡辺綱の『駒つなぎの楠』や近衛天皇を苦しめていた鵺(ぬえ)の遺骸が流れ着いたという伝説が残る『鵺塚』など、都島にはミステリアスな物語が眠っている。その摩訶(まか)不思議な都島妖怪譚を巡るまち歩きを構成した」(陸奥さん)。当日の参加者は9人。それぞれがカメラ片手に地元ガイドの説明に耳を傾ける様子がうかがえた。
「歴史や妖怪ものが好きで、この都島ツアーに参加した。歴史的なことから現在の街のことまでいろいろ話を聞きながら散策でき、わたし一人ではなかなか行けないところも回れたのでとても良かった」と、西淀川区から参加した灰谷さん。他エリアのツアーも度々参加している阿倍野区在住の大滝さんは「スポットが駅からも近場で歩きやすかった。今回都島をこうして巡ってみて、全然知らなかったところもいろいろあるんだなと感じた」と感想を述べた。
「知っているようで知らないのが自分のまち。大阪のまちの面白さを多くの方に知ってもらいたい」と陸奥さん。「今後もコースは増えていく予定。今は春と秋を中心に催行しているが、通年化を模索したいと思っている」とも。今月18日には毛馬コース「水の底に消えた蕪村のふるさと・毛馬村~春風や 堤長うして 家遠し~」、同24日には網島コース「悪所くるひの身の果ては、南無網島の大長寺~『心中天の網島』の舞台を歩く~」を予定。
参加費は1,000円(コースによっては1,500円、2,000円などもあり)、所要時間=2~3時間(コース内容により異なる)。定員15人。
1500年前の大阪は、日本橋筋あたりまで大阪湾が侵食していました。日本橋筋は港で、大陸からの交易船が行き来して、そこにやってきたのが呉の国の織姫たち。羽呉神社は、その名残です。
彼女たちはその後、飛鳥や伊勢に移って機織りの技術を全国各地に伝えました。とくに伊勢の機織りは江戸時代になると越後屋呉服店を産み、現在の三井、三越のルーツとなっています。
また現在の日本橋筋は秋葉原と並ぶ電気街。中国人が大勢やってきて、家電・・・炊飯器や冷蔵庫、現代の機織り機=ミシンなどを大量に購入して帰ります。
1500年経って、機織り技術が逆輸入されている。大阪のまちの歴史いうんは、不思議なもんですな。
大阪は「敗北者のまち」です。河内王朝、物部氏、聖徳太子、孝徳天皇、菅原道真、南朝、北畠顕家、大坂本願寺、豊臣家、淀殿、真田幸村、豪商淀屋、大塩平八郎、大村益次郎・・・と、みんな大阪で敗北していってます。幕府崩壊の象徴も鳥羽伏見の戦いの余波による大坂城炎上でした。江戸城は無血開城で無事だったのに、なぜか大坂城は紅蓮の炎に包まれて灰燼と化す。大阪城って歴史のターニングポイントとなるとよく燃えるんですな(笑)
そのせいかどうかはわかりませんが、大阪では敗北者を「残念さま」(残念さん)といって篤く崇拝した時代がありました。要するに怨霊信仰の一種です(大坂はある意味で怨霊の宝庫といって良いです)。とくに江戸時代に、大坂庶民のあいだで流行った「残念さま」は、大坂夏の陣で享年23歳の若さで亡くなった木村重成でした。いまは無名に近い武将ですが、豊臣秀頼の幼馴染です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%87%8D%E6%88%90
木村重成は、河内の若江堤というところで戦死したんですが、その墓参りが爆発的に流行った年が何度もあるんです。その爆発ぶりは大坂庶民が集団発狂したか?というほど凄まじいもので、大坂城の玉造口から若江の約7キロほどの街道に、庶民がびっしりと集まって、昼どころか朝も夜も提灯を持って「残念じゃ!残念じゃ!」と言いながら、木村重成の墓に参ったといいます。
この「重成詣り」が大流行するたびに、幕府は「なにしとんねん!?」と弾圧。守らない人間は逮捕して投獄までしたそうで、大体、3ヶ月ほどで騒ぎは終わったそうですが、忘れたころに、また「残念さま信仰」が巻き起こって、奉行所はそのたびに頭抱えたそうです。木村重成は、幕府に逆らって死んだ武将ですから、そんなのを「残念さま」といって神さまにして参るなんてのは、けしからんどころの話ではないんですな。江戸では到底、ありえない話で、大坂ならではの現象でした。
ちなみに、この「重成参り」が流行る年というのがあって、大体、物価高騰とか不況の年やそうです。要するに大坂庶民の鬱屈のガス抜きだった。幕末、明治の混乱期に東海道や伊勢で流行った「ええじゃないか!」と似てますが「ええじゃないか!」は現状肯定の言葉。「残念じゃ!」というのは現状否定の言葉。ちょっとニュアンスがちがいます。同じような狂乱騒ぎでも、大坂という都市の特性が出てるといえるかも知れません。
雪鯨橋をご存知でしょうか?大阪府大阪市東淀川区の瑞光寺境内の弘済池に架かる橋で、地元では「くじら橋」とも呼ばれています。
江戸中期の宝暦6年(1756)に瑞光寺4代目住職の潭住知忍が南紀太地浦(現・和歌山県太地町)に行脚したところ、捕鯨の不漁に困った村人から豊漁祈願を依頼されました。そこで住職が祈願をするとたちまち豊漁となり、後日、村人は黄金30両とクジラの骨18本を寄進。住職もクジラの供養のためにクジラの骨を使って橋を造ったことが、雪鯨橋の始まりといわれています。
長さは約6m、幅は約3mで、欄干がクジラの骨。何度か架け替えされていて、現在の橋は2006年に架け替えられた6代目。「クジラの骨で作られた」なんて橋は日本唯一はおろか世界でも唯一無二のものでしょう。江戸時代から浪華名所として有名となり「難波一州の名奇(めずらしきもの)」と呼ばれました。「浪速の名橋50選」に選定され、また「日本百名橋」の「番外」にも選定されてます。
クジラは古代には「イサナ」(鯨魚、鯨名、勇魚、不知魚、伊佐魚)と呼ばれ、『万葉集』にも登場してきます。
鯨魚取り 浜辺を清み うち靡き 生ふる玉藻に 朝なぎに 千重波寄せ 夕なぎに 五百重波寄す 辺つ波の いやしくしくに 月に異に 日に日に見とも 今のみに 飽き足らめやも 白波の い咲き廻れる 住吉の浜(万葉集931番)
やすみしし 我が大君の あり通ふ 難波の宮は 鯨魚取り 海片付きて 玉拾ふ 浜辺を清み 朝羽振る 波の音騒き 夕なぎに 楫の音聞こゆ 暁の 寝覚に聞けば 海石の 潮干の共 浦洲には 千鳥妻呼び 葦辺には 鶴が音響む 見る人の 語りにすれば 聞く人の 見まく欲りする 御食向ふ 味経の宮は 見れど飽かぬかも(万葉集1062番)
「住吉の浜」や「難波の宮」といった地名が出てきますが、古代には大阪湾(住吉津・難波津)にもクジラが押し寄せて、それを取った漁民(いさなとり)がいたということでしょう。「鯨一匹捕れば七浦潤う」とよばれたように、クジラを一匹とれば7つの村々の飢えが救われました。また漁民たちはクジラのことを「えびす」とも呼んでいました。クジラはもはや海の神そのものとして信仰の対象として崇めていたわけです。住吉大社の古文献によると住吉夏祭には毎年、必ずクジラが住吉浜に見にきて、それを漁民は住吉神の化身として崇め、さらに捕獲して有難く食べていたそうです。神様を食べるところが、いかにも大阪的ですな(笑)
また日本人はクジラの肉はもちろんのこと、舌(セセリ)、尾びれ(オバ)、肝臓(カラギモ)、肺(フクロワタ)、男根(タケリ)、睾丸(キンソウ)、女陰(ヒナ)といった部分まで徹底して食用(薬品用)に利用しました。さらに骨やヒゲは装飾具などに加工され、クジラの皮からは鯨油が採取され、それでも残った肉・骨・皮などは石臼で粉砕して「鯨肥」と呼ばれる海産肥料として使用されました。クジラ利用率100%。捨てるところなんて、なにひとつとしてありません。それほどクジラを大切に尊重したのが日本人でした。
捕鯨問題に関して素人、門外漢のぼくが何かいえることはありませんが、日本の捕鯨は決して自然や生物に対する冒涜行為、残虐行為などではなく、深い歴史と文化、信仰があるということは毅然と主張するべきやと思ってます。