旅の手帖
http://www.kotsu.co.jp/magazine/tabi/index.html
「大阪あそ歩」が紹介されています。感謝。
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「大阪あそ歩」が紹介されています。感謝。
龍馬は「組織」を作りませんでした。海援隊は有志の集まりでしたが、組織的なものではなかったようです。組織はトップがいなくなっても存続するものをいいます。ところが海援隊は龍馬が暗殺されると、すぐに瓦解してしまいました。その事実から組織としては脆弱なものだったと推察できるわけです。そういう意味でいえば岩崎弥太郎のほうが組織人としては非常に優秀で、弥太郎は三菱を作りました。弥太郎が死んでも三菱は残り、やがて日本最大級の大財閥となりました。
ただ海援隊の「いろは丸」の沈没事故に対する龍馬の紀州藩への賠償請求などは見事なものでした。これはまさしく龍馬の交渉術の賜物。組織力はありませんが、こういう危機管理能力に長けた経営者の会社というのは、しぶとそうです。龍馬が仮に生き延びたとしたら、カリスマ的な名物社長、ワンマンオーナーとして名を馳せ、しかし組織としては個人商店規模の会社の創業者として生涯を終えたのでは?と推測してます。
http://www.sankei-kansai.com/2010/09/03/20100903-043201.php
まち歩きやまち遊びで「大阪」を楽しむ「大阪あそ歩(ぼ)」が、25日から11月28日まで、大阪市内を中心に行われる。「まち歩き」では計102コースを設定。主催者側は「まち歩きに秋は最適のシーズンといえ、まちの姿も魅力的に映るはず。多くの人に参加してほしい」とPRしている。
大阪市などでつくる大阪コミュニティ・ツーリズム推進連絡協議会の主催。平成20年秋から一定期間ごとに開催しており、今年は春、夏に続いて実施するが、参加者らの声や評価などをもとに、特に人気の高いコースを集めた。
ほぼ日替わりで用意されたコースでは、中之島周辺の橋を巡ったり、アメリカ村の歴史と文化をたどったりするなど、それぞれテーマを設定。2~3時間かけて歩きながら、歴史漂う建物や美しい自然など、まちの魅力と触れ合えるようになっている。
それぞれの「まち歩き」は予約が必要。有料。同イベントの詳細な日程や予約申し込みなどは「大阪あそ歩」のホームページ(http://www.osaka-asobo.jp/)で。問い合わせなどは、大阪あそ歩事務局(電話06・6282・5930)
産経新聞の記事です。ぼくも、ついこのあいだ、大阪あそ歩ガイドの吉村さんのご案内で、開高さんの旧宅に入って、開高さんの妹さんから開高さんの思い出話などをお聞きしました。面白い間取りの家になってまして。開高さんの祖父が趣味で粋を凝らして作ったとか。モダンで、ハイカラで、開高文学のルーツを感じました。この旧宅はなんとか残して欲しいのですが。今年は開高さんの生誕80周年なのに・・・どうにかできないもんでしょうか?
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/art/435046/
芥川賞を受賞した「裸の王様」などの作品で知られる作家、開高健さん(昭和5~平成元年)が、青少年時代を過ごした大阪市東住吉区駒川の家が近く、不動産会社に売却される。地元では保存を願う声もあったが、資金面などから断念、解体される可能性が高いという。売却を前に1日、旧友や地域住民ら約50人が集まり、大阪が生んだ文豪をしのんだ。
家は約80年前に建てられた4軒長屋のうちの1軒で木造2階建て。開高さんはこの家に、7歳から22歳まで住み、旧制中学入学早々、父親を亡くしてからは母親、妹、叔母らと一緒に生活していたという。
開高さんは当時、周辺に広がっていた水田や草むらで遊んだ思い出や、家族でふかしイモを奪い合った貧しい暮らしなどを後の著作「破れた繭(まゆ)」「花終る闇」などに描写。この家や周辺での経験が、開高文学の原点になったといわれている。
家は、開高さんが関東に活動拠点を移した後も親類が所有していたが、3年ほど前から住む人がいなくなり、老朽化が進行。地元住民らから記念館や飲食店として活用、保存する案もあがったが、実現にはいたらなかった。
この日、親類が「最後の別れに」と家を開放。同級生や地元住民らが当時の思い出話に花を咲かせたり、写真に収めたりして開高さんをしのんだ。
旧制中・高時代の同級生で、学校帰りによく遊びに来ていたという金戸述さん(79)は「当時のまんまや。ここで、独学でフランス語を覚えた開高からフランスの小説や詩の話を熱心に聞かされた」。地元に住む吉村直樹さん(64)も「偉大な作家がここで育ったことを後世に知ってもらうためにも残したかった」と残念そうに話していた。