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大阪・堺 顕本寺 「高三隆達(隆達節)顕彰碑」と「君が代屏風」

2010 年 11 月 7 日



大阪・堺は顕本寺にある薬種商人・高三隆達(1527~1611)の顕彰碑です。高三隆達は日本の小歌の元祖「隆達節」を生んだ男として知られています。

「小歌」とはなにか?その話の前に「大歌」の説明がいります。大歌というのは、宮中儀式などに謳われる歌・・・要するに奈良や京の公家の歌です。大歌は格式張って、色々と制約があって、じつにややこしいんですな。例えば文字数にも片歌=577、短歌=57577、仏足石歌体=575777と文字数だけでも面倒なルールが沢山あります。

隆達節、小歌はそういう制約はほぼありません。じつに勝手気儘。隆達は戦国時代の堺の人間ですが、当時の堺は、日本で初めての町人社会が形成されつつありました。公家階級、武士階級ではない町人階級の勃興。町人は自由・平等・博愛を尊びます。そうした気運の中から生まれた隆達の歌は、自分たちだけの、おもろい、素直な心根を反映したものでした。ソボクな町人文化が、小歌という形となって出てきた。だから隆達の歌は「自由詩的」なんです。例を挙げます。

7 雨のふる夜の 
5 独寝は
7 いづれ雨とも
5 なみだとも

7 梅は匂ひよ
7 木立はいらぬ
7 人は心よ
7 姿はいらぬ

7 君の心の
5 叢雲に
7 涙の雨の
7 降らぬ日もなし

7 交わす枕に
7 涙の置くは
7 明日の別れを
5 思はれて

また隆達の面白いところは、小唄が500首以上伝わってるんですが、そのうちの約8割が恋愛、ラブソングであるところ。堺の薬屋のおっちゃんですから、庶民感情丸出し。ストレートで、今でも通用するぐらい、わかりやすいです。『万葉集』『古今和歌集』などは読んでいても枕詞や掛詞で、よくわからない部分も多々あるのですが、隆達小唄は平易で、現代人でも立派に通用する普遍性をもっています。とくに隆達が得意とした「7775」の歌形は、江戸時代に入ると大流行して、とくにお座敷、遊郭などでよく歌われました。

7 立てば芍薬
7 坐れば牡丹
7 歩く姿は
5 百合の花

7 惚れた数から
7 振られた数を
7 引けば女房が
5 残るだけ

7 三千世界の
7 鴉を殺し
7 主と朝寝が
5 してみたい

要するに、いまでいう都都逸です。これは隆達が作ったわけではないですが、隆達節から派生したものです。こうして後世に多大な影響を与え、日本の歌、庶民文化の草分けであることから、時には隆達は「日本のシンガーソングライターの元祖」なんてこともいわれます。

ちなみに顕本寺には隆達ゆかりの有名な「君が代屏風」(レプリカで、本物はボストン美術館にあります)が伝わっています。六曲一双の屏風で、堺の遊郭の風景が描かれたものですが、その脇に隆達直筆の小唄が並んでます。慶長7年(1602)、隆達75歳のときのもので(75歳にして遊郭絵に小唄を書き下ろすところが隆達の深さ、凄さです)、この最初の一首が「君が代は 千代にやちよに さゞれ石の 岩ほと成りて 苔のむすまで」。

「君が代」は古今和歌集に収められている古い歌ですが、隆達は「君」を「愛する女性のこと」として借用したわけです。じつは「君が代」が広く人口に膾炙したのも、隆達が遊郭のラブソングとして歌ったからという説があります。有名になったおかげで、明治維新以降に国歌として採用されたとか。「遊郭で君が代が歌われていた」というと妙な具合ですが、どうも歴史的事実のようです。

歌は世につれ。世は歌につれ。歌ひとつにも、色んな物語があります。


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