三津寺墓地 安井(成安)道頓、安井道卜の供養墓
道頓堀を開削した道頓、道卜の供養墓です。「贈従五位 安井道頓居士」「贈従五位 安井道卜居士」と刻まれています。
道頓は天文2年(1533)~元和元年(1615)の人物で、道頓堀の開削者です。苗字は安井説と成安説があってはっきりしていません。通称は市右衛門で、剃髪後に「道頓」と名乗ったといいます。
生涯は謎につつまれていますが、天正10年(1582)に大坂城の外壕掘削と猫間川の整備に対する功労で、秀吉から現在のミナミ界隈の土地を拝領したといいます。その後、慶長17年(1612)にミナミの開発には河川が必要として豊臣家の許可を受け、私財を投じて水路(これが後の道頓堀)の掘削に着手しました。ところが元和元年(1615)に大坂の陣が起こり、豊臣家に恩がある道頓は大坂方について大坂城で討死。しかし、水路そのものは幕府から許可を受けて道頓死後も進められ、従兄弟の安井道卜が跡を継いで完成させたといいます。
道頓は、おそらくは若い頃は豊臣家に仕える武士やったんでしょう。土木工事などが上手かった。加藤清正のような武闘派というより、石田三成的な実務家だったのかも知れません。いずれにせよ、大坂城のすぐ近くに土地をもらったほどですから、よっぽどの才能で、秀吉にも愛されたのでしょう。そして剃髪したということは、武士をやめた隠遁者であり、市井の人になったということです。町民になった。だから、新しいミナミというまちのために、私財を擲って水路を開発しようとした。
基本的に、商人というものは、利で動きます。例えば堺の商人は、徳川VS豊臣で、徳川の勝利と見て、長らくお世話になっていた豊臣方から手を引いて、家財道具をもって逃げ出しました。おかげで堺のまちはカラッポになり、豊臣方の武将・大野道犬に逆上的に放火されています。
ところが道頓は、生粋の商人というわけではなかった。豊臣の危機ということで、かつての武士の血が騒いでしまった。道頓ほどの聡い男であれば、豊臣方が負けるのは、当然、わかっていたはずです。しかし、元武士として、最後の最後は、利ではなくて、美学、イデオロギー(正義体系)で動いた。老体に鞭打って、大坂城に駆けつけた。もう齢はすでに80を超えてますから。すごい行動力です。本人は嬉しかったかも知れません。ついに、武士として、最高の死に場所を見つけた。男子の本懐である。
しかし歴史の残酷さは、大坂の陣では家康の計略で大坂城の外堀が埋められたこと。そのときに、まだ未完成の、掘削中の水路も、埋められたことでしょう。大坂城にいた道頓は、我が愛するミナミの水路を埋められる様子を見て、なんと思ったか?豊臣家だけではなく、我が愛するミナミのまちまで、踏みにじられた。武士としてではなく、町民としても、徳川を許せないと思ったことでしょう。
水路は、道頓の死後、徳川時代になってから完成しました。その名を決めるに当たって、幕府は敢て「道頓堀」の名を許可しました。幕府なりの「町民・道頓」に対する鎮魂であり、謝罪だったと、ぼくは思ってます。