大都市の中のコミュニティは、戦後半世紀を経て完全に定着し、古ぼけたものになってきていて、そこでなにか新しい人間(よそもん、わかもん、ばかもん)がアクションを起こそうとしても、「一体なにをしてるんや?やめてくれ」というような冷たい拒否反応が返ってくる。
逆に衰退しきった村落コミュニティ・・・極端な例をいえば限界集落まで追い込まれているコミュニティなどに、わかもん、よそもん、ばかもんがやってくると、「どうせなにをやっても状況は変わらないし、まぁ、やってみましょうか」と意外に柔軟で弾力性のある反応が返ってきたりする。
本来、都市コミュニティというのは村落コミュニティから外れた流れ者(戦後日本でいえば、長男だけは先祖代々の家を継いで、家にいられなくなった次男、三男、四男、五男などは、夜行列車に乗って10時間かけて、集団就職で東京や大阪にやってきた時代というのがありました。彼らは要するに村落コミュニティを追われた流れ者たちです)がやってくるところでしたが、そちらが硬直化(田舎っぽくなっている)していき、逆に田舎であるはずの村落コミュニティが、流れ者を受け入れるベクトルに向かって、要するに都市的な許容性を有している。
硬直化した都市に未来はないです。むしろ限界集落の中にこそ、新しいコミュニティ形成の可能性がある・・・という話。
元々、古代のオリンピックはオリンピア信仰の祭典でした。そこでは雷神ゼウスや太陽神アポロン、海神ポセイドンなどのギリシャ信仰の神々への感謝と祈りが捧げられた。
「雷」や「太陽」や「海」といった身近な、しかし人力では到底コントロールできない自然現象を統べる「超自然」の存在として人格神を崇め奉るという古代ギリシャ信仰は、人類の思想哲学史から俯瞰すれば素朴で原始的な信仰体系だといえます。神の姿形は人間ですが、本質的な部分では「自然賛美」で、これは例えば「太陽神の使いが鳥だ」とか「雨を掌るのは蛇である」とか、そういった全人類に共通する「ネイティブ・ウィズダム」の信仰体系に近しいわけです。つまり「ネイティブ・ウィズダム」とギリシャ信仰の差は超自然の具現化が人間か?動物か?という差ともいえます。いや人間だって動物ですから、そういう意味でいえば差異はほとんど見受けられない。
ただ、太陽や海や雷といった超自然的な神々の具現を人間的な偶像として捉えなおすことで、この信仰体系は非常に面白い、ユニークな傾向を兼ね備えることになりました。つまり人間(自然)を越えた超人間(超自然)=「肉体賛美」という思想の出現です。こういう思想は古代インド(密教、仏教)、古代中国(儒教、道教)にはなく、キリスト教なんてのも肉体を卑下する信仰体系でしたから(十字架に磔刑にされるイエス・キリストの貧弱な身体は古代ギリシャ人なら鼻で笑いますな)、こうした信仰体系を背景にして「超人間たちの聖なる戦い」としての古代オリンピックが登場してきたわけです。だから古代オリンピックはギリシャ民族のみに許された神聖なる儀式で、他民族や奴隷なんかは参加できませんでした。たまに混同する人がいますが、他民族や奴隷をライオンと戦わせたり、キリスト教徒の公開処刑といった残虐な行為をやっていたのは古代ローマのコロッセオ(円形闘技場)で、これは古代ローマ市民の娯楽(!?)で宗教儀礼のオリンピックとは全然違うわけです。ちなみに肉体を卑下するキリスト教がローマ帝国の国教になったときに古代ギリシャ信仰に裏づけされた古代オリンピックは、その1000年以上の長きに渡る伝統と歴史を否定されて「異教徒の祭典」と指弾されて、この地球上から滅びました。
19世紀末にフランスの教育者クーベルタン男爵の提唱によって始められた近代オリンピック(アテネ・オリンピック 1896年~)は、古代ギリシャ信仰のような「超自然の神々への祈りや感謝」なんて思想はまったくありません。そこにあるのはナショナリズムとキャピタリズムの祭典。オリンピック選手は相手に勝利すると表彰台に上って金・銀・銅のメダルをかけられますが、その瞬間、国歌が流れ、国旗が高々と掲揚される。またあらゆる選手はスポンサー企業の公告塔にもなってます。これはオリンピック(オリンピアの宮殿。そこはゼウスの宮殿です)の名前を借りてますが、まったくもって別のもので、これを「オリンピック」と名づけることは、ぼくは古代ギリシャ信仰への冒涜ではないか?と思えるんですな。
もうちょっと近代オリンピックは、古代オリンピックに敬意を払ってもいい思います。それが出来ないなら、オリンピックの名前は、外したほうがええ思います。「ナショナリズムとキャピタリズムの祭典」はあってもええと思いますけど(ぼくはあまりそんなのに興味ないですが・・・)それを「オリンピック」と称することへの違和感。古代オリンピック(古代ギリシャ文明)への強烈な憧憬があるだけに、ぼくは近代オリンピックをなかなか素直に楽しめないですな。
江戸では男の子が産まれると盛大にお祝いしました。男系とか血を重視する武家社会ですからな。跡取息子ができて、これでお家は安泰というわけです。
浪華は逆で女の子が産まれると盛大にお祝いしました。なんで男の子やとあかんのか?浪華は商家文化です。主人は商いだけやのうて遊びもやれて一人前。ところが、この遊びの修行が難しい。男の子やと、とくに失敗する。商いをほっぽりだして遊びにばっかり精を出す。アホボン(アホなお坊ちゃま)になる可能性がある。そうなると家がつぶれる。男の子だけは産んでくれるな。
これが女の子やと遊びの修行は必要ないですな。そして年の頃になれば廻りを探し回って「ええ婿」を取ればいい。商いもできて、遊びもできるという優秀な手代を発見して、それと娘を結びつけることができたら、家は安泰。血よりも実力。「婿を選べる」というのが、浪華商人には喜ばれた。
ちなみに、では、浪華商人の家にアホボンが産まれたらどうしたか?というと、落ちぶれた武家から株を買ってました。「武士株」というのがあって、これを購入すると、なにもしなくても幕府から僅かながらお給金がもらえる。それで生活させた。貧乏にはなりますが商家よりも武家のほうが位は上。アホボンは一種の名誉職の武士にしてしまって、実家の商いには手を出させない(お小遣いをせびってきても、あげない)。そして商家のほうは優秀な手代を「養子」にしてしまって跡を継がせた。やれやれ。これで家は安泰・・・というわけですな。
友人は長女が生まれました。ええ婿をみつけてほしいですな。って気が早いかw