大阪大学で講義

今回、大阪大学で講義していて、いろいろと発見がありましたが、学術関係者の立場からすると、まだ我が国には観光学というものがちゃんと確立されていない・・・という強烈な危機意識をもってはるというのがぼくの中でのひとつの驚きでした。なんでも1967年に立教大学が観光学部を設立したそうですが、これはもとは「ホテル講座」だったとか。国立大学では2007年にようやく和歌山大学で観光学部が設立。そのあいだはほとんど、なんの動きもなかったそうで、これは観光学関係者にとっては「空白の40年」といわれているとか。ちゃんとした学問体系としての観光の在り様というものを、(一部の有識者を除いて)あまり誰も考えてこなかったということです。

これは結局のところ、観光を単なる「産業」として捉えてきたことの弊害です。長らく日本の企業や行政は観光とは「余暇の消化」や「非日常感を味わう機会である」などと考えて、金儲けやのために盛んに奨励してきたわけですな。田中角栄の『日本列島改造論』よろしく、ゴルフ場、海水浴場、遊園地、博覧会場、ハコモノ施設を作って、その場(トポス)の風土・地脈・文脈をまったく無視した愚かしいリゾート開発、都市開発で、自分たちのかけがえのない「まち」や「ふるさと」を粉砕してきたわけです。

しかし観光というものは、産業とか金儲けの道具という狭い範疇に留まるものでは毛頭なく、じつは自分たちのアイデンティティや都市や社会、コミュニティ、文化、文明の確認作業であり、さらにいえば人間存在の、生命の根源的行為であり、内発的欲求だということです。極論をいえば「ひとは観光することで、ひとになる」ということです。オーストラリア先住民族のアボリジニたちは「ドリームタイム」という彼らの神話を再現する観光をすることによって、子供から若者となり、人間になっていく。彼らはこれを「5万年前からやっている」といいます。釈迦も孔子もキリストも空海も芭蕉もランボーも柳田も折口もストロースも、みんな観光して悩んで大きくなった(@野坂昭如。古いww)。それほど観光というものは意義深いものということです。

ビジネス的観点や経済学だけではなく(いまだにほとんどの大学の観光学は「経営」「産業」「サービス」「流通」「商業」といった色合いの大学・学部・学科が多いです)、社会学、人類学、民俗学、芸術、哲学、宗教学によっても観光を捉える必要があるということです。そうしたアプローチは2000年代に入って、ようやく本格化してきたというのが現状で、まだまだ現在進行形なんだとか。どうも観光関係者(企業人、行政マン)の多くが「大阪あそ歩」や「まち歩き」現象を色んな意味でカンチガイしていて、これは一体どういうこと?と長らく疑問に思っていたんですが、問題の根は深いですな…。逆に考えれば観光学の研究や可能性の追求はこれから…ということで、そういう意味でいえば楽しみということなのかも知れませんが。

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2012年 10月 9日
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