久高島その7。大里家。
久高島その7。大里家。第一尚氏王統第7代の尚徳王が当家の祝女クニチャサのあまりの美しさに惚れ、長く同棲。そのあいだに首里で革命が起き、第二尚氏初代の尚円王が王統を継ぐ。尚徳は悲歎のあまりに身投げしたと伝えられる。
傾城傾国の美女伝説。ええですなw
久高島その8。食事処とくじん。イラブー汁。ウミヘビです。琉球王朝の宮廷料理。 ウミヘビとでしかいいようのない味です。このあとしばらく口の中がウミヘビでした。たぶん二度と食べませんww 健康にはええそうですが…。
久高島その8。食事処とくじん。イラブー汁。ウミヘビです。琉球王朝の宮廷料理。
ウミヘビとでしかいいようのない味です。このあとしばらく口の中がウミヘビでした。たぶん二度と食べませんww
健康にはええそうですが…。
幸地腹門中墓と赤比儀腹門中墓。幸地腹門中墓は5000名の一族墓で、日本最大の墓ともいわれてます。ここは来たかったんですな。一部には有名ですが、まあ、マニアックネタですw
幸地腹門中墓と赤比儀腹門中墓。幸地腹門中墓は5000名の一族墓で、日本最大の墓ともいわれてます。ここは来たかったんですな。一部には有名ですが、まあ、マニアックネタですw
以下はウィキペディアよりm(_ _)m
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日本最大の墓といわれている「幸地腹(こうちばら)門中の墓」(糸満市)である。当門中の一族は、平成24年現在3436人(門中名簿登録者)を擁しており、一族のほぼ全員の共同墓となっている。17世紀の半ばには、それまでの墓が狭くなっていたことから、1684年に現在地に築造された。当初は亀甲墓であったが、昭和10年に琉球石灰岩を積み上げて造った現在の破風墓となった。墓地の面積は5400平方メートルで、中央に本墓、前に四つの仮墓、東側に子供墓が配置されている。本墓内部は、右側奥部が当門中の納骨エリア(池と呼ばれている)となっており、左側が当初長女の嫁ぎ先門中(赤比儀腹門中)の池となっている。現代的にいえば[納骨堂]だが、碑名その他はない。
本墓(ト-シー)と仮墓(シルヒラシ)があるのは、死去するとまず仮墓に葬られ、3年後に洗骨をして本墓内に安置するからである。80歳以上のものや、門中に功労のあったものは、直接本墓に葬られる。現在、幸地腹門中だけで毎年30-35体程が納骨されており、これまで5000体弱が納骨されていると推算される。
門中墓の運営管理は宗家と役員が中心になって行うが、その費用は構成員家族の人数割分担金と家族単位の行事分担金によって賄われる。一家族あたりの負担金は年間5千円程度で、構成員は一門の伝統行事、正月、お盆、清明祭(シーミー)などに参加できる。構成員であれば宗教宗派にはとらわれない。
「ある古老の口癖は『お前たち、世の中に恥じるようなことをすれば、お墓に入ってからご先祖様にしかられるぞ』というが、門中の人たちの素朴な死生観を示していて興味深い。」(日経マスターズクラブ・上原盛毅通信員2005.07.14)というように、同じ墓に入る仲間意識は強固なものがある。
18世紀末から19世紀初頭に、ヨーロッパ人が初めて琉球に着いたとき、「武器のない国」「礼節を守る国」以外にもっとも彼らに深い印象を与えたのは住んでいる家よりも綺麗な「琉球の白い墓」だった。
琉球国王印。清から与えられたもの。琉球はチベットと並ぶ冊封の王朝として認められていました。
琉球国王印。清から与えられたもの。琉球はチベットと並ぶ冊封の王朝として認められていました。