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歌垣風呂をやって驚いたのは、人間の歌や声に対する、あまりにも鋭い直観。お互い良いと思う確率があまりにも高い。

2017 年 4 月 29 日

歌垣風呂をやって驚いたのは、人間の歌や声に対する、あまりにも鋭い直観。お互い良いと思う確率があまりにも高い。

物事を覚えるのに「歌で覚える」という手段があります。そのまま思い出そうとしてもなかなか言葉が出てこないけど歌にすることで、するすると言葉がでてくる。

江戸時代の寺子屋では「素読」が流行ったとか。いまでいえば幼稚園児のような幼い子供が、先生の声に合わせて四書の『論語』『大学』『中庸』『孟子』などを声に出して読む。先生も中身の説明は一切しない。解説しない。解釈しない。ただ先生の「声」(リズム、声色、調子)に共鳴することで、いつのまにか四書の難しい言葉が、カラダの隅々にまで染み渡り、それらがやがて深い知見に到達する。

そんな教育方法で大丈夫かいな?と思いますが、江戸時代の日本人の識字率の高さ、教養文化レベル、幕末から明治へと変貌する近代化プロセスを見ていても、この教育方法の有効性、可能性は証明されてます。

いずれにせよ、歌や声は、人間に、なにか、そういう不可思議な作用を及ぼすらしい。「意味」とか「論理」をすっ飛ばしてやってくる。超越的やし、直観的やし、呪術的なんですな。

宮本常一の『忘れられた日本人』の中に歌垣に関する記述があって。対馬の鈴木老人。昔はこの老人に憧れましたがw こんなことがほんまにあるのか?あったのか?あったんでしょうな。歌垣風呂をやってみて、いま、確信してます。

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「対馬には島内に六つの霊験あらたかな観音さまがあり、六観音まいりといって、それをまわる風が中世の終わり頃から盛んになった。男も女も群れになって巡拝した。佐護にも観音堂があって、巡拝者の群れが来て民家にとまった。すると村の若い者たちが宿へいって巡拝者たちと歌のかけあいをするのである。節のよさ文句のうまさで勝敗をあらそうが、最後にはいろいろのものを賭けて争う。

すると男は女にそのからだをかけさせる。女が男にからだをかけさせることは少なかったというが、とにかくそこまでいく。

鈴木老人はそうした女たちと歌合戦をしてまけたことはなかった。そして巡拝に来たこれというような美しい女のほとんどと契りを結んだという。

前夜の老人が声がよくてよいことをしたといわれたのは、このことであった。明治の終わり頃まで、とにかく、対馬の北端には歌垣が現実にのこっていた。

巡拝者たちのとまる家のまえの庭に火をたいて巡拝者と村の青年たちが、夜のふけるのを忘れて歌いあい、また踊りあったのである。

そのときには、嫁や娘の区別はなかった。ただ男と女の区別があった。歌はただ歌うだけでなく、身ぶり手ぶりがともない、相手との掛けあいもあった。」

宮本常一『忘れられた日本人』

■歌垣風呂

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