曽祖父・陸奥利宗は宇治山田市役所時代(1918〜1927)にどんな仕事をしていたのか?
曽祖父・陸奥利宗は宇治山田市役所時代(1918〜1927)にどんな仕事をしていたのか?
実は当時、宇治山田市では市史編纂のプロジェクトが非常に大きな懸念であったようです。『宇治山田市史』を調べてみると、明治末頃から宇治山田市で市史編纂をしようという動きがあったようですが、なかなかこれが纏まらず、大正2年(1913)には一旦、予算が全カットされ、市史編纂事務所は閉鎖。なんと白紙状態になってしまう。
どうも予算の問題(市会から増額が認められなかった)とか関係者の病没や誰に編纂事務を任せるか?(一旦、会議で決まったのにやり直しで違う人が就任したりしている…)とか編纂委員の辞任が相次いだり、市長が変わったり…と、いろいろとあったようです。このへん市史編纂の後記になかなか生々しい記述が書かれていますw
利宗は1918年に宇治山田に来ているので、市史編纂事務所閉鎖(1913)のトラブル(?)とは関係ないのですが、しかし利宗が宇治山田に来て4年後の大正10年(1921)になって、当時の市長や助役、市会議員がやはり「市史編纂を再興せん!」と立ち上がり、編纂事業がリスタートしたとあります。
そして、このタイミングで実は曽祖父・利宗が宇治山田市の「筆頭書記」から出世して「主事」となっています。おそらく市史編纂の事務局側、実行部隊として動いていたのではないか?
その後、市史編纂事業は進み、ついに昭和3年(1928)に原稿1500枚が完成。翌年の昭和4年(1929)に念願の『宇治山田市史』が刊行されました。
この『宇治山田市史』の編纂は、国家事業ともリンクしていたようです。当時の政府は大勢翼賛時代で、天皇の祖霊神・伊勢神宮がある宇治山田を「神都」と位置付け、皇国の起こり、国威発揚の聖地にしようという思惑があった。
実際に昭和5年(1930)3月〜5月に宇治山田市で御遷宮奉祝として『神都博覧会』が開催され、実は『宇治山田市史』は、その博覧会の前に刊行されるべし!ということで急がれたようで、中身をカット、短縮された…ということも後記に書かれています。「政治」ということですな。
実際に利宗が市史編纂にどういう形で携わっていたのか?というのはわかりません。クレジットとしては「宇治山田市発行」としか書かれていない。ただ時期が被ってますからな。
また原稿完成(1928)を前にして、じつは利宗は宇治山田市役所を辞めている(1927)のも、ちょっと意味深です。もしかしたら政治的思惑(博覧会に合わせるために内容をカットせよ)に抗議したとか?なんかあったのかな?ひいじいちゃん?