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大坂本願寺と築地本願寺は佃・大和田漁民によって繋がるのでは?

2023 年 4 月 26 日

名古屋の浄土真宗本願寺派の西念寺の岡林俊樹住職からメッセージが来て東京・佃島の見所をいくつかピックアップしたら巡ってくれました。いろいろと懐かしい。

江戸の佃島は大阪の佃(と大和田)の漁民が家康に請われて江戸に移住して作られたという。最先端の漁業技術をもっていた佃・大和田の漁民たちは江戸湾の漁業権を掌握して繁栄したとか。「佃煮」の佃島ですなw

また江戸時代の佃島の漁民たちは皆、本願寺の門徒衆であったそうで、だから築地本願寺が出来る際には土地の埋め立て工事などに尽力した。築地本願寺は佃島漁民の信仰に支えられて発展したという歴史がある。※だから築地本願寺の境内に佃島初代名主の佃忠兵衞報恩塔があったりする。

それで以下は僕の推論だが、江戸・佃島漁民のルーツとなった大阪の佃・大和田の漁民たちも、おそらくは本願寺門徒であったろうということ。そして彼らは実は信長の石山合戦の残党ではないかと思う。石山(現在の大阪城界隈)を追われて、近くの大阪湾岸の佃・大和田に集住した。

だから基本的に佃・大和田の漁民たちは反信長・反豊臣政権(秀吉は信長の継承者であるから)で、それで家康の江戸入府のさいに、わざわざ江戸に移って江戸開発を助けたのではないだろうか?

また石山合戦で敗北して佃・大和田に落ちぶれたが、そもそも佃・大和田にも先住の漁民がいたことだろう。後からやってきた本願寺門徒の残党はいまいち所在が落ち着かなかったのかもしれない。それで新天地を求めて江戸・佃島開発に乗り出した可能性もある。何かしらの事情がなければ、わざわざ大坂から遠く江戸まで赴くだろうか?

以上はあくまで推論であるが、大坂本願寺と築地本願寺は佃・大和田漁民によって繋がるのでは?と僕はなんとなく直観している。全然、ちゃうかも知れんけどw

以下は岡林住職の記事のシェアm(_ _)m

驚いたのは佃島の門徒は渡邉さんというらしい。おそらくは渡辺党(渡邉、渡邊、渡部)の末裔ということだろう。摂津一宮・坐摩さんのご神官一族に繋がる大阪の名族中の名族である。

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東京に行って、築地本願寺から佃島までまち歩きしてきました。観光家の陸奥 賢さんに見どころを教えてもらったので充実した旅行でした。徳川家康に気に入られて大阪の大和田・佃から東京の佃島に移住して、江戸の漁業・文化の発展に多大な貢献をした人々と本願寺との関係を体感するためのまち歩きでした。浅草で焼失した江戸の本願寺は、現在の築地に再建されるのですが、もともと海だったところを埋め立てるという大事業だったそうです。佃島の人はその事業に多大な貢献をして、本願寺を支え続けてきました。月島にある佃島の説教所を建て替えた築地本願寺佃島分院にも参拝してきました。それを調べていると説教所を支えてきた門徒講の渡邉信夫さんの動画を発見しました。大阪の渡邉一族から雑賀孫一、村上水軍の掛け声のある盆踊りなど歴史・伝統の豊かさと、きっぷのいい江戸っ子気質の深さとたくましさを感じました。大阪と江戸と本願寺の接点について、深い学びを得ました。単に信仰ということでは理解できない、自然と寺院・神社と共同体の構造を垣間見させていただきました。佃の人々に自然やいのちと真摯に向き合い、神仏を中心に絆を深め、濃密でいながら、あっさりと財産を共同体に提供するような、しなやかな生き方、その深みを感じるとともに、そういった精神を汲みだしてきた、真宗の教えを深く探究していこうと思います。東京をより身近に感じつつ帰路に着きました。これで寿司の味わいも変わります。ありがとうございました。称名


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