大阪まち歩き大学!なんばパークス9階。南海メモリアルギャラリー。
昔はなかったが、野村克也監督ことノムさんのコーナーができた。ノムさんが亡くなって、ご遺族が南海と和解するまで南海メモリアルギャラリーのどこにもノムさんの名前はなかった。ほんまに見事に名前、痕跡が不自然なまでに消されていて、あれはあれで見ものでしたが。噂によると南海はノムさんの名前をちゃんと刻もうとしたが、ノムさん側(夫人?)が許さなかったという。
僕は南海ホークスファンで、こどもの頃に被っていたギャップも南海のもの。地元、堺の子は南海ファン、近鉄ファンが多かった。阪急、阪神なんてのはキタの球団です。ぼくは、堺の子は、ミナミの球団を愛していた。
こどものころの刷り込みというのは凄い。南海ホークスはなくなり、しかし、いまだに、だからといって阪神タイガースファンにはなれない。南海ファンのまま。阪神、嫌いではないが、別に巨人も嫌いではないw ファンというのは南海ホークスだけ。
1988年に南海ホークスはダイエーホークスとなった。そこで我が野球ファン人生(?)も潰えたことになる。当時の僕は10歳。あまりに早い野球ファン人生(?)の幕引きであった。
僕はノムさんは南海の人というイメージがあり、だから好きだった。阪神の監督をやったときだけ、阪神を応援した。星野監督時代はとくに応援しなかったw
ノムさんは著書がこれまた抜群に面白い。「負けに不思議の負けなし」など名言すぎる。テスト生から三冠王。こんな野球人はいない。
大阪まち歩き大学!本日もまち歩き。岸里から玉出まで。要するに旧勝間村。マニアックなまち歩きだが、おもろい。深い。
玉出には会津屋の本店がある。創業は、戦前は今里新地にあった。当初はラヂヲ焼の屋台だったとか。ラヂヲ焼はタコではなく牛のスジ肉を入れていた。ラヂヲがハイカラな時代。ラヂヲは時代の最先端の流行アイテムだった。その名前をとった。いまでいうなれば「スマホ焼」となるか。
タコ焼きは小麦粉で作る。小麦粉はメリケン粉ともいった。つまりアメリケン(アメリカ)の粉。お好み焼きなども、一銭洋食というが、西洋の醤油=洋醤(ソース)も使う。たこ焼きもお好み焼きも、じつは「西洋料理」「洋食」で、だから「ハイカラ」な食べ物だった。ハイカラな洋食なので、ハイカラなラヂヲ焼きの名前がつけられた。
今里の会津屋は、ある日、明石の男がやってきてラヂヲ焼きを食べ「なんや?大阪は牛かいな?明石はタコつことるで」と何気なくつぶやいたことで、たこ焼き発祥の店となった。
明石の男は謎で、名前などはわからない。場所が面白い。今里新地だから、明石の男もきたのだろう。今里新地は、昭和初期には松島、飛田を凌駕する最新の遊廓として繁栄を誇っていた。エロは強い。わざわざ明石の男が今里まで来る。
会津屋というのも意味深で。創業者は会津がルーツ。近代の会津は複雑な歴史を有している。どんな由縁があって大阪まできたのか。興味がそそられる。
会津の男と、明石の男が、大阪名物を作った。文化のダイナミズムというのはそういうもの。ミクスチャーから生まれる。ごった煮ですわ。
トルク東大阪。古地図を用いてお地蔵さんを探してみよう!というプロジェクト。
旧村、集落の入口、出口、街道のクロッシング、二叉路、三叉路などには大体、お地蔵さんがいるので、古地図で旧村、集落、街道がわかれば、お地蔵さんも発見できる。それを六体発見して「マイ六地蔵」を探してみるw
新しい住宅地、戦後の開発では、お地蔵さんが勧請されない。お地蔵さんがいないということは地蔵盆もない。先祖も帰ってこない。死者がいない。祖霊がいない。
地蔵盆はこどもたちに「ご先祖さんが帰ってくるんやで」「いつも先祖さんが見てくれてるんやで」と教える死生観教育の場であると思うのだが、そういう自分という存在の中に流れる「イノチの連続性」が確認できない。
人間は結局、環境の生物だから。「今だけ。金だけ。自分だけ」という考え方は、お地蔵さんがいないような生活環境などが影響するかもしれない。
自分よりも大きい存在。形而上の、超自然的な、超越的なもの。そこへの「祈り」や「願い」の場があること。結構、そういうことは人間の成長に大事なことだと思う。