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2023 年 9 月 12 日 のアーカイブ

東京七墓巡り復活プロジェクト2023。二日目。 江戸川区瑞江の大雲寺・五世坂東彦五郎墓所へ

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東京七墓巡り復活プロジェクト2023。二日目。

最後は江戸川区瑞江の大雲寺・五世坂東彦五郎墓所へ。ここは役者寺といわれるほど歌舞伎役者の墓が多い。こちらでは住職にお会いできて、いろいろと寺院移転の顛末についてお話を聞くことができました。

関東大震災のさいは檀信徒のみなさんが大八車で家財道具を持って大雲寺(当時は墨田区業平にあった。スカイツリーの南側)に逃げてきたそうですが古老は大八車での移動を辞めさせ、荷物は手に持てるだけの量にしろと助言したとか。また荷物を背負うのも辞めさせた。もし火の粉が飛んできて荷物が燃え移っても後背にあるので様子が見えない。気がついたら背中が火だるまになるということらしい。

さらに「隅田川には絶対に行くな。亀戸の方角に逃げろ」とアドバイスしたそうで大雲寺の檀信徒のみなさんは亀戸の浄心寺に避難。そこから荒川を越えて葛飾の方に逃げて助かったとか。

この古老のアドバイスを聞いてわかるのは関東大震災以前にも江戸時代から何度も何度も江戸(東京)は地震や火災があり、その経験の蓄積で、ちゃんと避難ルートを把握していた人がいたということ。「隅田川には絶対に行くな」というのは達見で、ここが関東大震災最大の被害場所(炎の竜巻の現場)ですから大勢の檀信徒の命を守ることに繋がったと思われます。

また関東大震災の犠牲者は一端、某所に集められて土葬にし、その後、順次、掘り起こして火葬で荼毘に付されたとか。あまりにも犠牲者の数が多く御遺骨も凄まじい量となり、それらは浅草近辺の寺院に分配され、供養されたそうです。大雲寺にも御遺骨がきて、それは御本尊の阿弥陀如来さまの中に収められたとか。お骨仏ということですな。

また墨田区業平から江戸川区瑞江に移ってきたのは震災復興の都市計画の影響だそうで瑞江の浄土宗寺院の敷地を買い取ったとか。いまは業平にはほとんど檀信徒さんはいないという。みんな震災や東京大空襲などで住まいが移転していったようです。これは大雲寺に限らず、東京の寺院あるあるのようですが。

大変貴重なお話をお聞きできて東京七墓巡り二日目のハイライトでした。ありがとうございました。南無阿弥陀仏


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東京七墓巡り復活プロジェクトは饗庭篁村の讀賣新聞附録『七墓巡り』の明治22年(1889)の記事から企画された

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東京七墓巡り復活プロジェクトは饗庭篁村の讀賣新聞附録『七墓巡り』の明治22年(1889)の記事から企画された。

幸田露伴によれば饗庭篁村と須藤南翠の2人こそは明治初期を代表する「二文星」「当時の小説壇の二巨星」であったという。「明治文学の二巨星」といえば森鷗外、夏目漱石の名が浮かぶし、通人は前世代である紅露時代(尾崎紅葉、幸田露伴)の名などを挙げるかも知れないが、それよりももうひと世代前の巨匠が饗庭篁村、須藤南翠ということになるらしい。

なかなか巷間からは忘れ去られた存在であるが篁村・南翠は俗に「根岸党」と呼ばれ、そして篁村はその根岸党のリーダーとして君臨し、岡倉天心や陸羯南(正岡子規の師匠)などと親交があったという。

また、これまたあまり知られていないが岡倉天心らが創刊した『國華』は現在でも刊行され、世界でも最も古い近代美術雑誌の一つであるが、これの名付け親が篁村だったりする。篁村は近代日本・明治日本の文学、美術、芸術の黎明期に活躍、貢献した作家であり、非常に重要な仕事を担った人物であるといえる。

また前述した幸田露伴(1867年生まれ)も根岸党のメンバーではあるが、篁村(1855年生まれ)よりも12歳ほど年下で、根岸党の中では若手の有望株といった存在であったらしい。

年齢としては12歳ほどの違いに過ぎないのだが、この12年の差は頗る大きい。なんせ江戸幕府が倒れ、明治新政府が起こった御一新(1867)のターニングポイントの時代であり、要するに0歳の露伴は「江戸」を知らないが、12歳の篁村は「江戸」を肌感覚として知っている。「江戸」が倒れ、崩壊し、「東京」が誕生した、その瞬間を篁村は体験している。多感な10代の若者に与えた影響は凄まじかろう。

篁村の七墓巡りは、その「江戸」の偉大なる文人墨客たちを巡る墓参りコースとなっている。根岸党の連中が上野・寛永寺の清水堂(ここは戊辰戦争・上野戦争でも唯一焼失を免れた寛永寺の塔頭寺院であった。まさしく生き残った江戸の象徴的建造物であったといえる)に集まり、七墓巡りを企画し、選ばれたのが山東京伝、四世鶴屋南北、坂東彦三郎、平賀源内、新井白石、葛飾北斎、十返舎一九、安藤(歌川)広重などであったが、これは東京七墓巡りというよりは、その目的や精神としては紛れもなく「江戸七墓巡り」であろう。

篁村や根岸党の高踏的な江戸趣味、江戸芸術への憧憬、失われつつあった江戸文化への挽歌、鎮魂、レクイエムのような意味合い、意味付けが非常に色濃い。今回、10年ぶりに、久しぶりに東京七墓巡りをやってみて、その思いを改めて強くした。

そもそも「七墓巡り」が企画され、讀賣新聞附録として記事が出た明治22年(1889)は大日本帝国憲法発布の年であったりする。戊辰戦争、御一新から明治革命は続くが、その最後の総仕上げが大日本帝国憲法の発布であった。近代日本がついに完成し、東京という近代都市が始動を始めていく、その瞬間に、ひっそりと篁村・根岸党の連中は「七墓巡り」で江戸の先人たちを回顧し、礼拝し、見送った。

「七墓巡り」の記事を発表した後、篁村は東京朝日新聞に移り、「竹の屋主人」のペンネームで劇評家、演劇評論家として活躍する。東京専門学校(早稲田)で近松門左衛門を講義したりもしたらしい。そして大正11年(1922)に67歳で亡くなった。その翌年に東京を襲ったのが関東大震災(1923)である。

関東大震災と、その後の「帝都復興」によって東京という近代都市は劇的な変化を遂げていく。篁村・根岸党が巡った「七墓」の寺院なども震災被害に遭い、東京郊外に移っていった。篁村・根岸党の江戸を憧憬した「江戸七墓巡り」もこの瞬間に瓦解し、地上から消滅したといえる。

篁村はその「震災と復興」を観なかった。彼の人生を思えば、それは幸いではなかったかと思う。

※画像は東京都慰霊堂。関東大震災、東京大空襲の死者のための慰霊施設。


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