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東京七墓巡り復活プロジェクトは饗庭篁村の讀賣新聞附録『七墓巡り』の明治22年(1889)の記事から企画された

2023 年 9 月 12 日

東京七墓巡り復活プロジェクトは饗庭篁村の讀賣新聞附録『七墓巡り』の明治22年(1889)の記事から企画された。

幸田露伴によれば饗庭篁村と須藤南翠の2人こそは明治初期を代表する「二文星」「当時の小説壇の二巨星」であったという。「明治文学の二巨星」といえば森鷗外、夏目漱石の名が浮かぶし、通人は前世代である紅露時代(尾崎紅葉、幸田露伴)の名などを挙げるかも知れないが、それよりももうひと世代前の巨匠が饗庭篁村、須藤南翠ということになるらしい。

なかなか巷間からは忘れ去られた存在であるが篁村・南翠は俗に「根岸党」と呼ばれ、そして篁村はその根岸党のリーダーとして君臨し、岡倉天心や陸羯南(正岡子規の師匠)などと親交があったという。

また、これまたあまり知られていないが岡倉天心らが創刊した『國華』は現在でも刊行され、世界でも最も古い近代美術雑誌の一つであるが、これの名付け親が篁村だったりする。篁村は近代日本・明治日本の文学、美術、芸術の黎明期に活躍、貢献した作家であり、非常に重要な仕事を担った人物であるといえる。

また前述した幸田露伴(1867年生まれ)も根岸党のメンバーではあるが、篁村(1855年生まれ)よりも12歳ほど年下で、根岸党の中では若手の有望株といった存在であったらしい。

年齢としては12歳ほどの違いに過ぎないのだが、この12年の差は頗る大きい。なんせ江戸幕府が倒れ、明治新政府が起こった御一新(1867)のターニングポイントの時代であり、要するに0歳の露伴は「江戸」を知らないが、12歳の篁村は「江戸」を肌感覚として知っている。「江戸」が倒れ、崩壊し、「東京」が誕生した、その瞬間を篁村は体験している。多感な10代の若者に与えた影響は凄まじかろう。

篁村の七墓巡りは、その「江戸」の偉大なる文人墨客たちを巡る墓参りコースとなっている。根岸党の連中が上野・寛永寺の清水堂(ここは戊辰戦争・上野戦争でも唯一焼失を免れた寛永寺の塔頭寺院であった。まさしく生き残った江戸の象徴的建造物であったといえる)に集まり、七墓巡りを企画し、選ばれたのが山東京伝、四世鶴屋南北、坂東彦三郎、平賀源内、新井白石、葛飾北斎、十返舎一九、安藤(歌川)広重などであったが、これは東京七墓巡りというよりは、その目的や精神としては紛れもなく「江戸七墓巡り」であろう。

篁村や根岸党の高踏的な江戸趣味、江戸芸術への憧憬、失われつつあった江戸文化への挽歌、鎮魂、レクイエムのような意味合い、意味付けが非常に色濃い。今回、10年ぶりに、久しぶりに東京七墓巡りをやってみて、その思いを改めて強くした。

そもそも「七墓巡り」が企画され、讀賣新聞附録として記事が出た明治22年(1889)は大日本帝国憲法発布の年であったりする。戊辰戦争、御一新から明治革命は続くが、その最後の総仕上げが大日本帝国憲法の発布であった。近代日本がついに完成し、東京という近代都市が始動を始めていく、その瞬間に、ひっそりと篁村・根岸党の連中は「七墓巡り」で江戸の先人たちを回顧し、礼拝し、見送った。

「七墓巡り」の記事を発表した後、篁村は東京朝日新聞に移り、「竹の屋主人」のペンネームで劇評家、演劇評論家として活躍する。東京専門学校(早稲田)で近松門左衛門を講義したりもしたらしい。そして大正11年(1922)に67歳で亡くなった。その翌年に東京を襲ったのが関東大震災(1923)である。

関東大震災と、その後の「帝都復興」によって東京という近代都市は劇的な変化を遂げていく。篁村・根岸党が巡った「七墓」の寺院なども震災被害に遭い、東京郊外に移っていった。篁村・根岸党の江戸を憧憬した「江戸七墓巡り」もこの瞬間に瓦解し、地上から消滅したといえる。

篁村はその「震災と復興」を観なかった。彼の人生を思えば、それは幸いではなかったかと思う。

※画像は東京都慰霊堂。関東大震災、東京大空襲の死者のための慰霊施設。


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