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2023 年 12 月 30 日 のアーカイブ

【中外日報】大阪七墓巡り復活プロジェクトについて取材インタビューされ、ネットでも記事が配信されました!ありがとうございます!m(_ _)m

2023 年 12 月 30 日 Comments off

【中外日報】大阪七墓巡り復活プロジェクトについて取材インタビューされ、ネットでも記事が配信されました!ありがとうございます!m(_ _)m

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[ほっとインタビュー]無縁墓巡りを主宰する 陸奥賢さん

https://www.chugainippoh.co.jp/article/contents/hot/20231213.html

2011年から大阪市内の無縁墓地やその跡を巡る「大阪七墓巡り復活プロジェクト」を主宰する。江戸時代に行われていた風習「大阪七墓巡り」を追体験するもので、大阪の庶民の「無縁の死者に寄り添うマインド」に成熟した宗教性を感じるという。(池田圭)

「大阪七墓巡り復活プロジェクト」とは。

陸奥 大阪七墓巡りは元禄時代には始まっていた大阪の町衆の風習で、お盆に梅田、南浜、葭原、蒲生、小橋、千日、飛田などの墓地を巡拝して無縁仏を供養しました。

実際には遊女と戯れたり、墓地で酒宴をして乱痴気騒ぎをしたり、鐘や太鼓を鳴らしたりとエンターテインメントの要素が強く、町奉行から度々、禁止令が出ています。夜通し行うので肝試しの感覚もあったでしょう。「参加すると性病が治る」という話もあったそうで、清濁併せのむというか、大阪の町の懐の深さを感じます。

発祥の経緯は不明ですが、大坂の陣で犠牲になった豊臣方の死者の慰霊が大っぴらにできなかったので、無縁仏の供養を隠れ蓑に始まったのではないかと推測しています。

復活を試みたのは東日本大震災が起きた11年の8月。大震災で大勢の人が亡くなり、「死とは何か」が社会的な関心事になっていた時期で、僕も死者との関わり方を考え直そうとしていました。

大震災の死者のほとんどは知り合いでも何でもない。そのような死者の人数が連日の報道で積み重なっていく中「無縁の死者を供養する大阪七墓巡りとはどういうことだったのか。無縁の死者との付き合い方を社会実験でやりたい」と自分でも戸惑いながら企画しました。

当時、浄土宗應典院(大阪市天王寺区)のトークイベントで秋田光彦住職や釈徹宗先生(現相愛大学長)からプロジェクトについていろいろ聞かれて、特に秋田住職からは無縁の死者や弱者に寄り添い施し共鳴する実践が最大級の慈悲であるという「無縁大慈悲」という言葉を教えてもらいました。

プロジェクトは現在も続いている。

陸奥 毎年8月13~15日の3日に分け、夕方から夜にかけて巡ります。都市開発で公園になっている所が多く、墓はほとんど残っていませんが、僕がそれぞれの墓地を解説しながら、その名残を伝える地蔵などに花や線香を供えるのが基本です。

初年の参加は30人ほどでしたが、だんだん増えて新型コロナウイルス感染症が流行する前年には約100人に。当初、修験道の人から「そんなことをしたら呪われ…

つづきは2023年12月13日号をご覧ください


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天王寺・毘沙門池跡。現在は天王寺区役所があるが、かつては毘沙門池があった。

2023 年 12 月 30 日 Comments off

天王寺・毘沙門池跡。現在は天王寺区役所があるが、かつては毘沙門池があった。

四天王寺界隈はじつは池が多い。六時堂が大阪大空襲でも燃えなかったのは亀の池、鏡池、極楽の池などがあったからだという。

伝説では四天王寺には荒陵池という広大な池があり、それを埋め立てて四天王寺を作ったという。そこには青龍が住んでいたので青龍池ともいい、いまも青龍井戸が四天王寺伽藍の中にある。この井戸は遠く天竺(インド)の無熱池(むねっち)に繋がっているそうで、さすが四天王寺は伝承伝説もワールドワイドというか、実にスケールが大きい。

井戸繋がりでいうと天王寺区役所には展示コーナーがあり、そこに細工谷遺跡の井戸の資料が展示されている。百済尼寺と書かれた器などが発掘されていて、百済系渡来人たちが住み着いた寺院ということだろう。

大阪には百済寺、百済尼寺があり、百済川(平野川)があり、百済郡、百済駅(JR貨物駅)があった。百済だけではなくて高麗館、高麗川(猫間川)に新羅江荘(天満界隈)もあった。三韓勢揃い。我々が思う以上に大阪、天王寺区、上町台地、難波津はインターナショナルな国際港であったということだろう。

外来文化の玄関口。仏教受容もここから。大阪は日本最大、世界有数の仏教都市です。歴史の厚みがちゃう。


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生玉さんへ。門前にあるのが笠間藩士・島男也の旧居、水戸藩士・川崎孫四郎自刃の所の石碑

2023 年 12 月 30 日 Comments off

生玉さんへ。門前にあるのが笠間藩士・島男也の旧居、水戸藩士・川崎孫四郎自刃の所の石碑。

幕末、一部の水戸藩士が桜田門外の変で井伊大老を暗殺するが、実は首謀者の高橋多一郎親子は大阪にまで逃亡し、それを匿ったのが島男也(生玉さんで道場を開いていた)と川崎孫四郎だった。ところが秘匿がばれてしまい、幕吏に囲まれて島男也は捕縛(江戸送りとなり、伝馬町で牢死)、川崎孫四郎は自刃した。明治維新以降、勤皇の士として顕彰され、それで石碑が建立された。

昔はそんなことなかったと思うが、なぜか、いつの頃からか、石碑の周りに石が奉納されるようになり、これは願掛けでもしているのだろうか?よくわからない。民間宗教というか、庶民信仰というか、フォークロアというか、興味深い。


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いくだま歩道橋。なんと擬宝珠がついている。流石。いくたまさんの参道ですからな。

2023 年 12 月 30 日 Comments off

いくだま歩道橋。なんと擬宝珠がついている。流石。いくたまさんの参道ですからな。

本来ならば上本町(上町筋)からいくたまさんまで一直線(馬場先といいます)でお参りできるはずが、谷町線拡張工事で分断されて参道が歩道橋になっている。なぜここに横断歩道を作らなかったのか?

一種のいやがらせのようなものを感じる。戦後、神社は「戦争協力した」というので憎まれた時代がありますからな。僕がこどもの頃には「絶対に自分は神社には参拝しない!」という古老とかよくいたものです。大抵、自分の父母、兄弟、娘息子など家族や親戚を戦争で亡くしたりしていました。


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