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お好み焼きの「裏返し」

2024 年 1 月 15 日

大阪名物のお好み焼き。いまは「店のスタッフが作ってお客さんに出す」というスタイルが主流だが、昔は「自分でお好み焼きを作る」というスタイルがスタンダードだった。

若い男女がデートでお好み焼き屋に行き、そこで、一緒にお好み焼きを作る。戦後、お好み焼きが若者たちのあいだで人気となり、流行し、大阪名物となるには、このスタイルが大事だったらしい。というのも、これ、じつは「お見合い」的な要素があったとか。相手がどういう風にお好み焼きを作るか?ということから、相手の性格やセンス、料理の腕前や生活ぶりを推測したそうです。

お好み焼きは実は難しい。焼くのはそれほど難しくないがコテでお好み焼きを「裏返す」という、なかなか他の料理にはない、料理の素人には上級すぎるテクが必須となる。大抵の人はこの「裏返し」で失敗してしまう。

若い男女がデートで良い雰囲気になり、「もしかしたら、この人と一生の伴侶になるかも…?」と淡い期待と予感をしていて、その時に、このお好み焼きの「裏返し」は緊張する。もはや人生を掛けた「裏返し」である。手が震える。目が眩む。変な汗が出てくる。そんな精神状態では、お好み焼き上級者でも「裏返し」は成功しえない。普段の実力の半分も発揮できない。覚悟して「キエエ!」と奇声を発しながら裏返すが、非情にもお好み焼きは折れ曲がり、グチャグチャになり、上に載せていた具のエビがあらぬ方向に飛んでいき、目も当てられぬ悲惨な状況に陥る。

とんでもない失態。何度も一人で練習し、自信をつけた百戦錬磨のお好み焼きのプロでも、本番(?)となると、このような致命的なミスを犯してしまう。お好み焼きの神が微笑まない。

しかし真に大事なのは、この有り得ない悲嘆を前にして、二人がどのように振る舞うか?である。人生は長い。良い時もあれば、悪い時もある。いや、むしろ悪い時の方が多い。失敗や苦労や挫折の連続が人生の常ではないか。伴侶となる人には、自分のいいところばかりを見せていてはいけない。むしろ、自分のあかんところ、ダメなところ、情けないところを見て、それを許せるかどうか?受け入れられるかどうか?仕方ないと諦めて共に歩もうとしてくれるかどうか?というところが肝要となる。

お好み焼きの「裏返し」と、その失敗のプロセスこそが、じつは若い男女を試そうとするお好み焼きの神から与えられた試練である。裏返しの失敗を決して責めず、「グチャグチャのお好み焼きが好きやねん」といい、飛んでいったエビを「元気なエビやなあ。まだ生きとるわ」とウソをいって食べて相手を慰める。

そうやってお好み焼きの裏返しの失敗、苦労、挫折を乗り越える「伴侶力」があるものだけが、お好み焼きデートを制することができる。たかがお好み焼き。されどお好み焼き。お好み焼きの中にこそ、人生の機微が、懊悩が、絶妙があります。

要するに、お好み焼きは客同士が焼いてこそ、ドラマが生まれるということです。共同制作の体験こそコミュニケーションの華。話し合い、対話、雑談の空間となり、人生の場となる。スタッフが作って提供されるお好み焼きなど、お好み焼き屋の存在意義がわかってない。下の下であります。自分で焼くより、店の人が焼いてくれる方が圧倒的に美味いけど(え)

※以下は蛇足ですが、まわしよみ新聞はお好み焼きと似てまして。お好みの具の変わりに、お好みの記事(生地ならぬ!)を選び、みんなで共同制作で、ワイワイいいながら、一枚のお好み新聞を作る。大阪的(お好み焼き的)な場作りのエッセンスがまわしよみ新聞の中にあります。


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