ホーム > 雑感 > 阪神淡路大震災から29年

阪神淡路大震災から29年

2024 年 1 月 17 日

阪神淡路大震災から29年。

神戸の下町エリアは古い家屋が多く震災被害も甚大で建物の全壊、倒壊が相次いだ。その後、国、行政、大手ゼネコンの方針、介入で「復興」という名のもとに道路や街区の整理が進められ、まちが一新されてしまう。下町の長屋や曲がりくねった迷路みたいな裏路地などはなくなり、拡張拡大された車道や大型マンション、高層マンションが林立して、かつての下町の景色、風情、匂い、情緒、雰囲気が半減、消滅してしまった。

「復興」とは「元通りに戻す」という意味ではなくて大抵は行政、官僚、ゼネコンなどが統計やらデータやらを捏ねくり回して全く新しいまちを作り上げることを意味する。清く正しく美しくと都市機能はゾーニングされ、無味乾燥でクリアランスなまちが出来上がる。経済とか効率的といった概念や指標でまちを作り上げるので、そこに人間はいない。人生の複雑怪奇さやカオスモスや悲喜交交はない。赤提灯がない。闇がない。

実は僕の母方の叔父が経営する靴工場が長田エリアにあり、それは地震後に起こった火災に巻き込まれて全焼してしまった。震災以前と以後でまちの様相は全くといっていいほど変わってしまって、叔父が「前どんなんやったんか全く思い出せん」と親戚一同に語るのを聞いたことがある。

叔父のこの「思い出せない」という驚嘆の通り、震災とその後の復興(「復興災害」なんて言葉もあるが)によって、かつての自分のまちがどんなまちであったのか?よくわからない…という現象がそこかしこに起こった。これは「ふるさとの喪失」であり、自分という存在の根幹に関わるアイデンティティ・クライシスでもあった。

そして、この危機に対して、地域住民たちのあいだから自然発生的に行われたのが「まち歩き」であり「コミュニティ・ツーリズム」であった。

自分のまちが震災以前、どんなまちであったのか?いまは駅前にでっかいマンションが立っているが、あそこには震災以前は細い路地があった。あの路地にはどんな長屋があり、どんな人がいたのか?そういえば小さな祠があったな。あれは何地蔵であったか?古い共同井戸もあったぞ。あそこで昔、祖母がこんな歌を教えてくれたわ…といったようなことを聞き書きし、思い出して、共有して、地図やマップに書き起こして、現場を歩こう、巡ろうといったアクションが起こった。

神戸の人たちが、神戸のまちを歩き、まちの記録や記憶を再確認したり、再発見したり、再共有したりしていった。そうすることで、自分たちの「ふるさと」を取り戻そうとした。まち歩きによって、コミュニティの再生を図ったともいえる。

僕は長くコミュニティ・ツーリズムのプロデューサーとして活動をしているが、その始原には、やはり阪神淡路大震災があるということは常に意識せざるを得ない。いま、いろんなご縁で、いわき時空散走のプロジェクトに携わっているが、阪神淡路大震災の現場・神戸で育まれたコミュニティ・ツーリズムの方法論、知恵が、東日本大震災の現場・いわきに伝わっているということではないか?と思ったりもする。僕はその仲立ち、バトンタッチをしているにすぎない。

震災はいろんなものを生み出している。悲しみや痛みや怒りもあるが、優しい知恵も生み出されている。人間は、意外と、しなやかです。


カテゴリー: 雑感 タグ: